イエス・キリストは、歴史上最も偉大な道徳の教師として知られています。当時の宗教指導者とは対照的に、イエス様は宗教的儀式を行うことよりも、人の心の中にあるものが重要であると説きました。愛がなければ、儀式はすべて無意味だと教えたのです。イエス様は、当時のユダヤ教の指導者たちが宗教を利用して自分を高めていることを非難されました。その高慢さは神にとって不快なものであり、彼らが見下していた罪人(つみびと)たちよりも悪いものだと非難されたのです。
今日は、「敵を愛せよ」というイエス様の教えに注目したいと思います。これはイエス様の最も有名な教えの一つであるだけでなく、最も議論を呼んだ教えの一つでもあります。多くの人はこの教えに反対し、敵を愛することを教えるのはおかしいと抗議すると思います。イエス様が言ったことが本心であるはずがない、この命令には何か隠された意味があるに違いないと考えるかもしれません。もしかしたら、イエス様は単に偏見について語っただけかもしれません。人が敵を作るのは、その人が自分に危害を加えたからではなく、その人が自分が認めない他の人種や集団に属しているからかもしれません。 そのような場合、イエス様が「敵を愛しなさい」と言うのは理解できるかもしれません。
しかし、この箇所でイエス様は、単に偏見を克服することだけを言っているのではないことを明らかにしています。44節で、イエス様は、私たちが愛し、祈るべき敵は、私たちを迫害する者であると言っておられます。私たちに悪いことをした人、私たちに危害を加えた敵も愛しなさいということです。イエス様は、私たちを憎み、私たちを不当に扱う人を愛さなければならないと教えています。
これは、私たちが自然に考えることとは全く逆の教えです。あまりにも過激な教えであるため、それに従うことが道徳的に正しいかどうかさえも疑われるかもしれません。なぜ敵を愛さなければならないのでしょうか。多くの人は、自分に危害を加える人を愛せというのは不当だと言うでしょう。もしある人が他の人を迫害するなら、迫害者は罰せられ、報復されて当然です。そのような人は、害を加えている人から愛される権利はありません。
あるいは、苦しんでいる人に敵を愛せと言うのは、その人の苦しみを増すだけだと考える人もいるかもしれません。攻撃され、中傷され、不当に批判されている人は、敵によってすでに大きな精神的苦痛を受けているのです。その敵を愛せというのは、その人のストレスや怒りや苦しみを増すだけではないでしょうか。
どうしてイエス様はそんなことを言ったのでしょうか。なぜ、イエス様が「敵を愛せ」と言われたのか、その理由は、イエス様が人生の意味について、まったく異なる視点を持っているからだと思います。私たちがイエス様の視点から物事を見ることができれば、この教えは美しく、深いものであり、ただ苦しみや痛みを増し加えるものではなく、平和と喜びと自由へと導く教えであると理解できるはずです。
イエス様は人生をどのように捉えていたのでしょうか。私たちの生きる目的は何だと教えられたのでしょうか。私たちはなぜここにいて、何をすべきなのでしょうか。もし私たちがこれらの質問に対する答えを知らなければ、なぜイエス様が私たちに敵を愛しなさいと教えたのか理解することはできないでしょう。
イエス様は今日読んだ箇所で、実際にこれらの質問の答えを明らかにされています。
マタイによる福音書5章44-45節
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」
この45節で、イエス様は、敵を愛するべき理由は、神の子になるためだとおっしゃっています。これは、私たちの人生の真の目的を示しています。すべての人を創造された神様は、私たちが神様の子どもになることを望んでおられます。創造主(ぬし)である神は、無限に善良であり、無限の知恵に富んでおられます。完全な愛と完全な正義を併せ持つ神です。そして、私たちをご自分の子どもとするためにお造りになりました。しかし、聖書によると、私たちは皆、神から引き離されました。その昔、歴史の始めに、私たちの祖先は神を拒絶し、代わりに自分たちの計画に従うことを決意しました。私たちは、父を捨て、父を辱める反抗的な子供のようになったのです。しかし神の願いは、私たちが神のもとに戻る道を見出すことです。
使徒の働き17章26節で、使徒パウロはギリシャの哲学者たちとの会話の中で、神のご計画についてこのように説明しています。
「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。」
たとえ私たちが神様から離れ、迷子のようであっても、神様は、私たちが神様への道を感じ、神様を見出すことを望んでおられます。私たちが神様のもとに戻り、神の子として造りかえられることを望んでおられるのです。そして、神の子であることは、誰もが望む最高の栄誉なのです。それは、地上のどんな王や皇帝や指導者の子どもであることよりも大きな名誉です。
神の子として生きるということは、天におられる父を敬うように生きるということです。つまり、私たちの人生には、神様の価値観と優先順位が反映されるべきなのです。もし、日本の著名な指導者の息子が他の国に留学したらと想像してください。彼の行動や態度は、その国の人々に、彼の家族が何を大切にしているかを明らかにするでしょう。もし彼が一生懸命勉強し、高い成績を修めたとしたら、それは彼が学問と規律を重んじる家庭と国民の出身であることを示すでしょう。
それと同じように、神はご自分の子供たちがご自分のようになり、ご自分から学び、周りの人々にご自分を表すようになることを望んでおられます。子供が父親を知るように、私たちが神を知ることを望まれています。そして、子供が父親を愛し尊敬するように、私たちが神様を愛し尊敬することを願っておられます。
ですから、イエス様が私たちに、天の父の息子となるためには敵を愛さなければならないと言われるのは、天の父が敵に愛と憐みを示す神だからです。マタイによる福音書5章45節をもう一度見てみましょう。
マタイによる福音書5章45節
「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」
神は恵み深く憐れみ深い方であり、正しい人にも不正な人にも、命の恵みを与えてくださいます。これは特に重要なことです。なぜなら、先ほど述べたように、私たちは皆、神から切り離された存在だからです。私たちは皆、神の敵となったのです。それにも関わらず、神は私たちを愛し、忍耐強く待ち続け、ご自分のもとに戻るよう招いておられるのです。これが神の心です。怒(いか)るのに遅く、愛と優しさにあふれた寛大な神です。そして、私たちが神の子であるならば、神様がかつて敵であった私たちに愛と優しさを示されたように、私たちも敵に愛と優しさを示さなければならないのです。私たちは敵のために祈り、彼らが悪を捨て、おそらくいつの日か神様のもとに戻って神の子となり、ひいては私たちの兄弟姉妹となることを願うべきなのです。
このような視点を持つことができれば、私たちは恨みや怒りから解放されます。私たちは希望と、私たちに対する神の愛に対する確信をもって生きることができるのです。たとえ私たちを憎む敵がいたとしても、報復して痛みや苦しみの連鎖を続けるのではなく、彼らの憎しみに優しさで応え、天の父を敬い、周囲の人々に神の大きな愛を明らかにしていることを喜びとすることができるのです。
イエス様は、ご自分に従う者の生き方は、周囲の人々よりも優れていなければならないと言われます。私たちは、周りの人々に天の父を代表するように召されているのです。最終的にイエス様は、天の父が完全であられるように、わたしたちも完全でなければならないと教えています。この完全さこそ、私たちに対する神様の究極のご計画なのです。今の私たちは皆、完全にはほど遠い状態です。しかし、神の子であるためには、私たちは完全でなければなりません。そして、もし私たちが今、完全でないとしても、神様に子として完全に受け入れられるためには、完全でなければならないのです。
イエス様は、神の子がどのように生きなければならないかを教えるためだけでなく、どのようにすれば神の子になれるかを示すために来られました。イエス様は、だれでもイエス様を信じ、自分の罪を悔い改めるなら、彼らを救い、赦してくださると教えられました。私たち自身は決して完全にはなれませんが、イエス様は私たちを変え、完全な者にしてくださるのです。ヨハネによる福音書14章6節で、イエス様はこのような驚くべき発言をされました。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
もし誰かが神の子どもとなり、完全な者とされ、愛に満ちた神様のご人格を反映した人生を送りたいと願うなら、イエス様を通して来なければならないと宣言されたのです。イエス様は、私たちが創造主(ぬし)のもとに戻るための道を開いてくださった方です。イエス様は、私たちが罪から救われ、神の子となるために、死んでよみがえられました。私たちがみな神の子となり、そのような素晴らしい地位から来る喜び、希望、名誉をすべて経験できるようになることを祈りたいと思います。