すべての理解を超えた神の平安

ピリピ人への手紙 4章 5〜7節

ロビソン・デイヴィッド
2022年05月29日

ピリピ人への手紙 4章 5〜7節
「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

 今日はみなさんにまず質問をしたいと思います。誰かに腹を立てている時、その怒りを抑えるのと、思い切り表現するのと、どちらがいいでしょうか?ほとんどの人は、「おさえた方がいい」と言うかもしれません。怒りを爆発させないことで平和を保ち、口論になったり、気まずい状況になるのを避ける方がいいと考える人が多いです。しかし、その場ではおさえられても、怒りは簡単に消えないことが多いのではないでしょうか。むしろ、怒りが相手への恨みへと変わり、相手との関係に悪い影響が出始めることもあります。怒りをただおさえこむのではなく、怒りそのものを克服する方法を見つけることができたら一番良い、ということに、誰もが共感すると思います。

 同じことが、不安にも言えます。不安や恐怖を感じたとき、あなたはそれを他の人に知らせますか?それとも、同僚や友人、家族からさえも、不安を隠そうとするでしょうか。ここでもまた、不安を隠すことは、他人に迷惑をかけないために正しいことだと考えるかもしれません。あるいは、自分が弱い人間だと思われないように、不安を隠そうとするかもしれません。

 今日の箇所で、パウロはピリピの人々に、自分の寛容な心がすべての人に知られるようにしなさい、また、何も思い煩わないようにと命じています。これらの命令を聞くと、私たちは外側に焦点を当てたくなるかもしれません。私たちは、たとえ心が騒いでいても、怒りを隠して、寛容で穏やかな振る舞いをすることができます。あるいは、心の不安を隠すことで、他のクリスチャンから、強くて信仰深い人に見られることもできます。

 しかし、イエス・キリストは、私たちにもっと良いものを用意されていると思います。私たちには、他者との関係において、外側だけ寛容で思い煩いのないふりをするのではなく、困難に直面しても本当に思い煩わず、本当に寛容な人間になる道が与えられています。

 今日の箇所では、キリストが私たちに望んでおられる生き方だけでなく、どうしたらキリストの平安を私たちの心の中に持つことができ、外側だけ装うのではなく、真に平安であることができるのかを考えてみたいと思います。

 今日読んだ3つの節で、パウロはピリピ教会のクリスチャンに対して2つの命令をしています。

1.           寛容な心をすべての人に知らせなさい。

2.           何事にも思い煩ってはならない。

 この二つのことは実行するのは難しく聞こえますが、キリストへの信仰を通して、神は私たちがこのような生き方が自然にできるように変えてくださいます。一つずつ見ていきましょう。

「あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。」

  この節でパウロは、寛容な人として周りの人々に知られるように、ピリピの人々に命令しています。クリスチャンは、キリストが自分の人生にもたらした変化を反映するような評判によって、周りに知られるべきです。なぜなら、キリストが私たちの心を変え、私たちの欲望を方向転換させ、全く新しい人生を与えてくださったからです。この新しい人生の一つの側面は、私たちが人との関係の中でどのように行動するかに関連しています。

 まず、「寛容な心」とはどういうことかを理解する必要があります。パウロがここで使っているギリシャ語は、少し訳しにくい言葉です。「忍耐強い」とか、「優しい」と訳すこともできます。この言葉には、暴力的であったり、喧嘩腰であったりしないという意味も含まれています。寛容な心を持っている人とは、他人の言葉に簡単に腹を立てず、すぐに自分を守ろうとせず、自分のやり方を主張しない人のことです。

 パウロはピリピ人への手紙2章で、キリストのような謙遜な生き方について述べていますが、今日のことはそのことと関連しています。ピリピ人への手紙2章3節で、パウロは

「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」

と言っていました。また、2章14-15節では、こう言っています。

「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり」

 

 クリスチャンとは、こういう人であるべきなのです。私たちは、他人より自分を高くしようとしたり、自分のやり方を主張したりしない人間であるようにと召されています。不平を言ったり、互いに言い争ったりしない人であるべきです。このことが重要である理由の一つは、私たちの周りの人々は、私たちの生き方を見て、イエス様がどのような方であるかを判断するからです。

 イエス様は寛容な心を持っていて優しい方(かた)でした。親切で謙遜な方(かた)でした。逮捕され、濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられたときも、自分を守るために声を上げることはありませんでした。 しかし、同時に、イエス様は自分に敵対する者を恐れず、真実を語り、彼らに罪を悔い改めるよう呼びかけることをためらいませんでした。 このようなバランスは、私たちのクリスチャンとしての歩みにおいても、目指すべき姿です。

 なぜ、人と対立したり争ったりせず、穏やかに接することは難しいのでしょうか。ほとんどの意見の衝突の根底には、怒りと恐れがあると思います。

 誰かが自分を攻撃したり、見下したり、軽蔑したりしていると感じる時、私たちは怒って、自分を守ろうとします。そして、声を上げて相手に挑み、間違った情報を正したいと思うのです。自分の名誉や尊厳を守り、相手が悪いことを証明したいのです。 

 また、自分が納得できない決定がなされた場合、その決定の結果が自分にとってマイナスになると考えて、怖くなり、それを避けるために、その決定と戦おうとすることもあります。寛容な心で優しい人間として生きるためには、恐れと怒りから解放される方法を見つける必要があります。パウロはこの箇所でこの二つの感情を取り上げています。

 まずパウロは5節の最後の所で、「主は近いのです」と言っています。これは、いつイエス様が約束通りこの世界に戻ってきてもおかしくないということを思い出させている言葉です。そして、その時、イエス様は悪を行う者たちを罰すると約束されました。ヨハネの黙示録22章12節で、イエス様はこうおっしゃいました。

「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。」

 この言葉は、私たちクリスチャンにとって慰めの言葉です。イエス様が私たちに代わって悪者に報いてくださるのだから、私たちは自分で復讐する必要はないのだ、ということです。私たちを攻撃したり、不当に中傷したりする者は、イエス様が再臨されたときに、イエス様に対して弁明することになります。ですから私たちは今、怒りや自己防衛のために反応する必要はないのです。このように、イエス様が今日(きょう)にも戻って来られるかもしれないという思いは、イエス様が私たちの名誉を守って下さり、すべての過ちを正してくださるという励ましとなるのです。

 また、恐れに対抗するために、パウロは私たちを祈りに招いています。5節と6節でパウロが語っていることを見てみましょう。5節では、「自分の寛容な心をすべての人に知らせる」ように、6節では、「自分の願いを神に知っていただく」ようにと言っています。つまり、人に知られることと、神に知られることが両方教えられています。私たちが人に知られることと、神に知られることの間には、興味深いつながりがあります。それは、私たちは自分の願いを神に知っていただくことで、周りの人に優しさや寛容さを持って接することができる、という関係性です。もし私たちが、神様に自分の必要を満たしていただき、神様に信頼しているなら、人が自分の必要を満たしてくれないことを恐れる必要はなくなります。神様が私たちを見て、守ってくださると知っているなら、私たちはもはや、他人に自分の必要を満たしてもらったり、自分を守ってもらう必要を感じなくなるのです。

 このように、神様が私たちの必要を満たしてくださると信頼することは、パウロがピリピの人々に送った第二の命令にも密接に関連しています。それは、「何も思い煩わない」ことです。

 寛容な心を持つこと、または、穏やかであることについて、パウロは私たちと周りの人々との関係、特にクリスチャンの兄弟姉妹との関わりについて話しています。では、人間関係以外の状況ではどうでしょうか。戦争や病気のような状況に直面した場合はどうでしょうか。この3年間ほど、コロナウイルスの大流行は、地球上のほとんどすべての人々にとって大きな不安の種となっています。そして、ここ数カ月は、ロシアとウクライナの戦争がさらに不安を大きくしています。このような深刻な危機に対して、私たちは不安にならないではいられません。

 そんな時私たちが思うべきは、先ほどもふれた、「主は近い」という事実です。これらの事態は、イエス様が再臨されるときに完全に解決されます。そして再臨は、いつ起こってもおかしくないのです。イエス・キリストが、最終的にすべての状況を支配していることを知ることは、私たちに平安を与えてくれます。イエス様はいつでも戻られる時を選ぶことができますが、ふさわしい時を待っておられるのです。

 それだけでなく、パウロは、私たちが不安に直面したときに、ある種の祈りをするように勧めています。6節を見てください。

ピリピ人への手紙4章6節
「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

 ここでは、私たちの不安に対抗する主な武器は、神への祈りであることが分かります。まず、私たちはすべてにおいて、祈りによって神のもとに来るようにと言われています。私たちは、不安や困難に直面したとき、いつでも神のもとに祈りに行くべきです。しかし、平穏な時、順調な時にも祈らなければなりません。すべてのことにおいて、私たちは祈りによって神のもとへ行くべきなのです。不安に対抗するためには、祈りを最後の手段として頼るのではなく、私たちの生活の中で定期的、継続的に行われなければなりません。

 

 また、祈りの内容も重要です。私たちは、感謝をもって、祈りと願いをもって、神のもとに行かなければなりません。祈りとは、神に語りかけ、神の優越性を認め、神の力と善をほめたたえる、礼拝の行為です。祈りにおいて、私たちは自分の願いと感謝をもって、神様の前に出ます。私たちが神様の前に願い事をするとき、神様が私たちの必要を満たす力を持っておられることを認め、へりくだります。私たちは、神様にそうしていただくことを要求する権利はありませんが、神様が私たちの願いを聞いてくださるよう、恵みと愛をもって招いてくださっていることを認識するのです。

 同時に、私たちは神様に感謝を捧げます。神様は私たちにあらゆる良いものを与えてくださっています。もっと祝福してくださいとお願いする前に、神様がすでに私たちに与えてくださっている素晴らしい祝福を覚えるべきです。どんな状況に直面しても、私たちは常に、神様の救いの御業(みわざ)と、私たちに対する神様の驚くべき愛、そして私たちを守り導いてくださるという約束に、感謝することができるのです。不安の中で神様の祝福に感謝するとき、私たちは神様の愛を思い起こします。そして神様は私たちに平安を与えて満たしてくださるのです。

 神様は愛と憐れみに満ちた方であり、父が子の必要を満たすように、私たちの必要を満たしたいと願っておられます。私たちは、神様を煩わせたくないと思ったり、自分は神の優しさにふさわしくないのではないかと恐れたりせず、信仰によって、キリストが私たちと神様との間に完全な和解を作ってくださったことを信じ、毎日祈りのために神のもとに来なさいという神様からの招待を受け取るべきです。

 このように神様のもとに行くことを毎日の規則的な習慣とすると、自分ではどうにもできない状況に脅やかされることがあっても、神様の平安が私たちとともにあり、不安から守ってくれます。これは、7節にある神様の約束です。

ピリピ人への手紙4章7節

 「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 私たちはいつもキリスト・イエスを喜びましょう。イエス様がすぐに来てすべての過ちを正し、すべての敵に報いを与えられると確信しましょう。常に祈り、神様が注いでくださる祝福に感謝し、私たちが抱えるすべての心配事に関して、神様に助けと備えを求めましょう。そうすれば、神の平安が私たちの心を満たしてくれます。

 パウロはここで、この平安が、キリスト・イエスにあって私たちの心と思いを守ってくれると書いています。私たちの心と思いは、サタンの攻撃に常にさらされているので、守られる必要があります。サタンは私たちの心を攻撃し、恐れや怒りに屈するように誘惑してきます。サタンは、神様のご計画を疑ったり、罪深い行動を正当化したり、敵に今すぐ復讐しようと誘惑してきます。しかし、神の平安は、私たちの心をサタンの攻撃から守ってくれます。

 イエス様は、私たちが喜びと平安に満ちた人生を送ることを望んでおられます。私たちがいつも救いを喜び、いつも神のもとに来て祈り、すべての理解を超えた平安に満たされることを望んでおられます。そして、私たちがそのようになるとき、人間関係においても穏やかで寛容な心を持つことができるようになり、不安のない人生を送ることができるようになるのです。イエス様が私たちの心に働かれるとき、私たちは神の平安に守られた、変えられた心から来る、平安と喜びと優しさを持って、周りの人々に接することができるようになるのです。

 ですから、私たちは共に、イエス様のすばらしさと救いについて思い起こしたいと思います。イエス様が今日にも戻ってこられ、すべての過ちを正してくださることを思い起こしましょう。私たちは毎日、祈りによって神のもとに行き、神を礼拝し、神に感謝し、神が私たちの必要を満たし、私たちが恐れるものから守ってくださるように祈り求めましょう。そうすれば、パウロが言ったように、すべての人が私たちの寛容な心を感じるようになります。そして私たちは、どんな状況にも不安なく立ち向かえるようになるのです。