喜びなさいという命令の意味

ピリピ人への手紙4章4-7節

ロビソン・デイヴィッド
2022年05月 1日

 

 今日は、「喜び」というテーマを考えたいと思います。ピリピ人への手紙4章4節で、パウロはピリピの人たちに「喜びなさい」と命じています。これは奇妙な命令ではないでしょうか。 喜びは、誰もが感じたいものですが、喜びを感じなさいと命令されて感じられるものではないというのが普通の考えだと思います。今、喜びを感じていないのに、誰かに「喜びを感じるべきだ」と言われても、それで心から喜べるわけではないでしょう。しかし、私たちは皆、少なくとも、喜びを感じたいと思っているのではないでしょうか。今日の箇所から、神様が私たちにいつも喜びを感じてほしいと願っておられること、そして、私たちがいつも喜びに満たされるためのご計画を用意してくださったことを学びたいと思います。

 喜びというのは、なかなか得られないものではないでしょうか。私たちは皆、様々な心配事やストレスを抱えて生きています。悲しみや恐れを抱くこともあります。人との仲たがいや喧嘩に巻き込まれることもあります。しかし、クリスチャンである私たちは、神様には不可能を可能にすることができると信じています。死さえも克服し、永遠の命という希望を与えてくださると信じています。そして、もし神様が私たちを死からよみがえらせることができるなら、私たちをこの世で喜びと平安に導くこともおできになると信じることができるのです。

 もう一度、ピリピ人への手紙4章4節を見てみましょう。

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

 ここでパウロは、特別な種類の喜びについて書いています。それは、私たちが人生の中でどんな状況にあっても感じることのできる喜びです。それは、イエス・キリストからしか得られない喜びなのです。

 喜びは、クリスチャン生活において最も重要な要素の一つです。そのため、パウロはこの短い節で二度も「喜びなさい」という言葉を繰り返しています。このことがどれほど重要であるかを見逃して欲しくないという気持ちが読み取れます。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

 神学者たちは、喜びが私たちの存在する目的の一つであると表現しています。たとえば、ウェストミンスター大教理問答という、1647年に書かれたキリスト教会の伝統的な信仰問答は、このような言葉で始まっています。

 「人間の主な、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」

 

 神様を永遠に喜ぶことは、神様が私たちをお造りになった目的の一部なのです。イエス様は私たちを神様のもとに連れ戻すために来られ、イエス様を通して私たちは神様の栄光をあらわすことができ、神様を知ることで永遠の喜びに導かれるのです。

 しかし、先ほど言ったように、喜びは自然に起こるものではありません。自ら求めていくものです。ですから、パウロはこの箇所で私たちに、「喜びなさい」とあえて命じているのです。

それは、私たちが喜ぶことを思い出させられ、喜ぶように励まされなければ、喜べないからに他ならないのです。

 私たちはどうすれば喜ぶことができるでしょうか。幸せを感じられない時、どうしたら幸せになれるのでしょうか。私たちはこのパウロの命令を読むと、自分の心の状態をおさえて、うわべだけ喜んでいるように演技しなければならないというような、プレッシャーを感じるかもしれません。喜んでいない人に「喜べ」と命令することは、その人を非難しているようにさえ聞こえるかもしれません。ある人は、これを読んで、神様に対して感謝が足りないと言われているように感じるかもしれません。神様がしてくださったことに対する私たちの感謝が足りないので、神様が不愉快に思っているとパウロは言っているのでしょうか。実はこれは、パウロの意図するところではありません。

 日本語では、誰かに「喜べ」と命令することは、とても奇妙に聞こえます。ピリピ書はもともとはギリシャ語で書かれていますが、この本が書かれた時代には、この「喜びなさい」という言葉は一般的な挨拶の一つでした。当時のギリシャ世界の人々は、誰か知り合いを見かけたら、お互いに「喜びなさい!」と挨拶したのだそうです。これは、「あなたの幸せを願っています 」というような意味の表現でした。

 「喜びなさい」という言葉は、誰かに良い知らせを伝える、あるいは思い出させるためにも使われました。当時、挨拶以外で誰かに「喜びなさい」 と言う時は、「あなたが大喜びするようなことをこれから伝えるよ」、という意味の前置きでした。パウロはこの箇所で、この使い方をしていると思います。パウロは私たちに「喜びなさい」と言いました。なぜなら、パウロが語っているのは、それを聞いて理解すれば喜びで満たされるような、とてもすばらしいことだからです。では、その喜びの理由は何だったでしょうか。パウロはこの節でそれを明らかにしています。

 「いつも主にあって喜びなさい。」

 私たちの喜びは主から来るものです。喜びは、イエス様を知り、イエス様の救いを受け、イエス様に信頼することによってもたらされます。これこそが、私たちの喜びの源なのです。私たちがどんな状況に遭遇しても、イエス様はいつも私たちの近くにおられます。この世でどんなことに直面しても、私たちは常に、永遠にイエス様とともにいるという希望を持っているのです。このことは、もし私たちが本当に信じるなら、喜びで満たされずにはいられないほど素晴らしい真理です。

 この喜びの源については、前の節にもう一つの手がかりがあります。ピリピ人への手紙4章3節を見てください。

「そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。」

 ピリピの人々に喜びを命じる直前に、パウロは自分たちの名前がいのちの書に記されていることを思い起こさせています。

これは、イエス様が彼らを救ってくださったこと、永遠のいのちを約束してくださったこと、天国に彼らの名前を書き、そこに居場所があることを保証してくださっていることを意味しています。

 パウロはピリピの人々に、彼らの名前がいのちの書に記されていること、そして、いつも主にあって喜ぶべきことを思い出させるために、彼はイエス様がルカの福音書10章19-20節で弟子たちに話したことを繰り返しています。

「19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

 

 いのちの書に名前が書かれることは、レストランを予約することに少し似ていると思います。ゴールデンウィークに、人気のレストランに行くことを想像してみてください。レストランに到着すると、ドアの外まで長い行列ができています。予約をしていなかったら、入れないかもしれません。あきらめて他の店に行かなければいけないかもしれません。でも、予約をしていれば、列に並ばずに席に通されます。予約をしておくと、とても安心です。クリスチャンは、天国に席を予約しているのです。イエス様が、私たちの名前をいのちの書に書いてくださり、私たちが神様の前に立つ時、すぐに神の国に入れるようにしてくださったのです。

 これが私たちの喜びの理由です。何が起ころうとも、イエス様のおかげで、私たちの名前が天 国に記されていることを私たちは知っています。イエス様がわたしたちを愛してくださっていること、わたしたちのために永遠にイエス様とともにいる場所を確保してくださっていること、わたしたちをイエス様から引き離すものは何もないことを、わたしたちは知っているのです。しかし、この喜びを感じるためには、これらすべてが真実であると心から信じる必要があります。この信仰こそ、私たちをこの喜びに導くものです。パウロはピリピ人への手紙1章25節で、この関連性を示しています。

「このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。」

 

 私たちが、イエス様が約束されたことを信じるのは、信仰によるものです。そして、これらの約束を信じることは、一度信じて終わりではなく、一つのプロセスです。私たちは、信仰を強く持てば持つほど、イエス様の約束をより強く確信するようになります。ですから、信仰が強くなるにつれて、私たちの喜びも強くなるのです。パウロは、ピリピの人々の信仰が強められ、それによって彼らの喜びが大きくなるように励ますことが、教会の指導者としての自分の使命だと考えていました。

 ピリピ人への手紙4章5節から9節を詳しく見ていきましょう。この箇所でパウロは、いつも理性的であること、不安を抱かないこと、そしてどのように祈るべきかについて勧めています。

私は、これらのことはすべて密接に結びついていて、主における喜びが、他のすべての中心にあると思います。しかし、パウロが不安について語った6-7節には、私たちが喜びを見出すのに苦労するような時に、特に役立つアドバイスがあると思います。

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

 不安と喜びは、しばしば相反するものです。そして、一方が他方を圧倒してしまうことがよくあります。もし私たちが喜びに満ちているなら、不安を感じることはほとんどありません。逆に、もし私たちが不安でいっぱいなら、同時に喜びを感じることはほとんど不可能です。私たちは、不安でいっぱいで、喜びを見出すことが難しい時には、どうしたらよいのでしょうか。

 パウロは、不安に直面したら、神様に祈りなさいと教えています。しかも、漠然とした祈りではなく、具体的な祈りです。私たちは不安を感じる時、それを神様に伝え、私たちの不安の原因を軽減してくださるようにお願いするだけでなく、神様がすでにしてくださったこと、そして神様が約束してくださったすべてのことに感謝するのです。不安の中で神様にあえて感謝する行為は、神様が私たちのためにしてくださったすべてのことに私たちの心を向けさせ、神様が私たちを守ってくださると信頼することにつながります。もし私たちが不安のために神様を信頼できず、神様に喜びを見いだせないでいるなら、祈りの中で神様に立ち返り、神様の助けを求め、神様がしてくださったことに感謝することが、神様への信仰と喜びを養う第一歩となるのです。

 最後に、パウロの言葉の意図が、私たちを励ますことであって、重荷となるべきではないことを強調したいと思います。不安を感じる私たちを非難したり、私たちの喜びの足りなさをただ指摘するためのものではありません。私たちの信仰が足りないと、罪悪感や恥を感じさせるためのものでもありません。そうではなくて、私たちの信仰を養い、神様がなさった驚くべきことを思い起こさせ、私たちの心の中に喜びと幸福感を呼び起こすためのものなのです。パウロの意図は、私たちが喜びを感じないことを恥じることではなく、むしろ喜びを感じられるように励ますことなのです。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」このパウロの命令を詳しくひも解くとしたら、次のような意味だと思います。

 

「私はあなた方に驚くべきことを伝えています。これを聞けば、あなた方は喜びを感じずにはいられないでしょう。これを聞いたら、歌い、踊り、喜びの声を上げたくなることでしょう。これがそのニュースです。イエス様はあなたの名前を天国に書かれました。それは、あなたが犯した悪いことすべてが赦されたことを意味します。神様はあなたをご自分のものとされました。そして今、イエス様のおかげで、あなたは神様のものになれるのです。たとえ今は困難な状況であっても、イエス様はあなたが経験していることをすべて見て知っておられ、やがてあなたを助けに来られます。主が来られる時、あなたの涙をすべて拭い去り、すべての悲しみに終止符を打ってくださいます。主はあなたのために死を打ち破り、あなたは永遠に生きるのです。あなたはもう何も恐れることはありません。イエス・キリストにある喜びと幸福に、永遠に満たされるのです。いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」