平和の神が共にいてくださる

ピリピ人への手紙4章8~9節

ロビソン・デイヴィッド
2022年06月 5日

ピリピ人への手紙 4章 8〜9節

「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

 

 前回のピリピ人への手紙の学びの中で、キリスト・イエスにある者に与えられる、あらゆる理解を超えた平安について学びました。この平安は、私たちを不安から解放し、私たちの心と身体を守ってくれます。そしてこの平安は、祈りによってもたらされます。祈りの中で、私たちはキリストによって受けた豊かな祝福を思い出し、認識し、神に叫び求めます。そして、神が私たちを助けることができるだけでなく、喜んで助けてくださることに信頼して歩むのが、クリスチャンの歩みです。

 私たちは皆、葛藤や課題、誘惑に直面しています。私たちの心は、不安や心配でいっぱいになることがあります。しかし神様の願いは、私たちがこれらのことから解放され、平安を経験できるようにすることなのです。今日の箇所でも、パウロはこの平安というテーマを取り扱っています。前の箇所では、私たちがどのようにして神様の平安を受け取ることができるかを説明しました。今日の箇所では、神の平安を受け取った後、私たちが何をすべきかが説明されています。

 神様が私たちに平安を与えてくださったのは、私たちが積極的に神様との交わりを追求することができるためでした。神様は私たちを不安から解放するだけでは満足せず、私たちが神様のすべての祝福を十分に経験できるように、神様との豊かな関係に私たちを導きたいと願っておられます。私たちにとって、創造主(ぬし)を知り、愛し、愛されることほど素晴らしいことはありません。

 この箇所でパウロは、私たちがしなければならない二つの基本的なことを教えています。まず、8節で、私たちが考えるべきことについて、次に9節では、実践すべきことについて、そして9節の終わりには、これらの命令に従うことによって得られる約束と報酬が記されています。

「そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

 神様が共にいてくださるようになるために必要な、ある考え方と行動の仕方があります。もし私たちがこのように考え、行動するなら、神様は私たちの近くにおられ、私たちは神様の存在を感じ、神様の心を理解し、神様の保護のもとにいることができるのです。これは、すべてのクリスチャンが目指すべきものです。しかし、これは私たちが自動的に到達できる場所ではありません。神に近づくためには、私たちの側(がわ)から行動を起こすことが必要です。

 これは、私たちが救われることとは異なります。救いは、私たちがイエス・キリストを信じるだけで与えられるもので、私たちの側(がわ)では何もする必要がありません。私たちは救いを得るために何かをする必要はありませんし、救われたあとに罪を犯しても救いを失うことはありません。キリストを通して、神様は私たちの行いに関係なく、私たちを受け入れてくださるのです。 

 しかし、私たちの行動、私たちの選択、私たちの考え、私たちの行動は、神様との関係に影響を及ぼします。私たちの行動が私たちを神や神の愛から引き離すことはできませんが、私たちが神様の存在をどのように経験するか、神様との親密さ、神様に対する理解。こういったことは、私たちの考えや行動に影響されるのです。

 今日の箇所で、パウロは、神が私たちの近くにおられるようになるために、私たちがしなければならない二つのことを教えています。

1.           考え

2.           行動の仕方

 

 まず、一つ目の「考え」に焦点を当てたいと思います。そして、最後に、実践すべき行動の仕方を簡単に説明します。

 まず、神に近づくために必要な「考え」について、見ていきましょう。イエス様の教えが他の教えと違うことの一つは、心の中で起こっていることが、外に出てくる行動や発言と同じくらい重要であるということではないでしょうか。これは、イエス様に従っていた者たちにとって、とても驚くべき教えでした。現代の社会でも、私たちは何を考えているかではなく、何をしたかによって判断されます。国の法律や、文化や習慣に従っている限り、私たちは一般的に良い人だと思われます。私たちが心の中で何を考えているかは個人的なことであり、そのことで裁かれることはありませんし、できません。しかし、イエス様によれば、私たちの言葉や行動は、私たちの心の中にあるものの反映です。もし私たちの心や精神が常に悪いもので満たされているなら、私たちは悪いことをしたり、言ったりするようになります。ですから、私たちの心は、神様のご性質を反映するもので満たされるべきなのです。マタイ15章18-19節で、イエス様はこのように言われました。

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」

 正しい善良な人になるためには、善良なもの、正しいもので満たされた心を持つ必要があります。私たちは、自分の考えを他の人には秘密にすることができるかもしれませんが、神様は私たちの心の中まで見ておられます。私たちが信仰によってキリストのもとに来て、神様の救いを受けるとき、神様は私たちに新しい心を与えてくださると約束されました。神様は、心の中を良いもので満たす能力と自由を私たちに与えてくださるのです。そして、これこそが、パウロがクリスチャンに勧めている、神に近づくための方法なのです。

もう一度、8節を見てみましょう。

「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」

 この節でパウロは、私たちクリスチャンが考えるべきことを列挙しています。毎日、あなたの頭の中にあることを少し考えてみてください。私たちは、ここで勧められているようなことを考えているでしょうか。仕事や家庭の問題で頭がいっぱいではないでしょうか。自分を傷つけた人への怒りの思いでいっぱいではないでしょうか。貪欲な欲望で満たされてはいないでしょうか。私たちの心は、自然に否定的なものに引き寄せられる傾向があります。ですから、私たちの心を良いものに向けるためには、意図的に努力する必要があります。良いことを探し、それを良いこととして認識し、それについて考えなければなりません。

 どのようなことを考えればよいのでしょうか。

 第一に、私たちは「すべて真実なもの」について考えましょう。本当のこと、完全に正確なことです。私たちは、嘘や中途半端な真実について考えをめぐらすことを避けるべきなのです。嘘や偽りのない、純粋な真実を考えるようにします。これは、現代社会では特に重要なことではないでしょうか。私たちは毎日、嘘や偽りに囲まれています。どこを見ても、人々はお互いのことを「フェイクニュース」と批判しあっています。私たちは特に、自分がすでに信じていることを裏付けるものに対して、100%真実でなくても信じたくなります。時には、私たちの敵が悪者(わるもの)になるのであれば、嘘であっても同調したくなることもあるかもしれません。しかし、クリスチャンである私たちは、自分の信じたいことを裏付けるかどうかにかかわらず、完全に真実で間違いのないものだけを受け入れるように努力しなければならないのです。

 第二に、私たちは、「すべて尊ぶべきこと」を考えなければなりません。つまり、威厳のあるものや、尊敬や称賛に値するものです。愚かなこと、未熟なこと、不名誉なことについては、考えないようにしなければなりません。

 第三に、私たちは、「すべて正しいこと」で心を満たさなければなりません。つまり、公平なことや、道徳的に正しいことです。何が本当に良いことで正しいことなのか、私たちの究極の唯一の基準は、神様の完全なみことばに従っているかどうか、という点です。

 四番目に、私たちは「すべて清いこと」で心を満たさなければなりません。それは、道徳的にも、霊的にも、純粋なものです。この代表的な例が、性的に不純なことです。私たちは現代の文化の中で性的不道徳に囲まれているので、これはとても難しいことです。不道徳な性的描写は、エンターテイメントや広告の中にもあふれています。アメリカでは今、多くの企業や個人が、ゲイ・プライド月間を祝っています。聖書は、一人の男性と一人の女性の間の結婚以外のすべての性的関係は不純であり、情欲的な考えも同様に不純であると教えています。しかし、現代の世界は、この純粋さの概念を頭から否定し、むしろ清くないことを祝っています。

 五番目に、私たちは「すべて愛すべきこと」について考えなければなりません。それは美しいものであり、私たちを神への愛と感謝で満たしてくれるものです。例えば、神様の創造された世界の美しさがあります。または、愛を扱った物語の中には、神様の愛や、私たちが他者に対して持つべき愛をよりよく理解するのに役立つものがあります。そういったことについて考えるべきです。

 六番目は、「すべて評判の良いこと」です。つまり、すべての人々から認められるに値することです。ただ、気を付けなければならないこともあります。多くの場合、人は神の義と清さに反するものを称賛する、ということです。ですから私たちは、人からの評判が良いか悪いかにこだわるべきではありません。しかし、神様にもすべての人にも正しいと認められるものも多くあります。例えば、地域社会で行う善行、感動を与える芸術作品の制作、勤勉な仕事ぶりなどです。これらはすべて、人の目から見ても神様の目にも、賞賛に値することで、私たちが考えるべきことなのです。

 この節の最後にパウロは、「何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい」と言って、リストを終わらせています。この最後の2つ、「何か徳とされること」、「称賛に値すること」は、これまでのリストのすべてを要約するものです。真実なこと、尊いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、これらはすべて徳とされるものであり、称賛に値するものです。私たちはこういったことで心を満たすように、積極的に努力すべきなのです。私たちの思いは、神様のすばらしさと品性から目をそらすことなく、これらのことに向けられていなければなりません。

 このようなことは、どこで見つけることができるでしょうか。パウロはこのリストの中で、「すべて」という言葉を何度も何度も使っています。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいこと。これらのことについて考えなさい。このようにパウロは、良いことを考えるために、さまざまな情報源から情報を得ることを勧めています。もちろん、私たちが最初に見るべきは、神様のみことばです。神のみことばだけが、これらすべての特徴を完全に体現しているものです。神様のみことばほど、真実で、尊く、正しく、清く、愛すべきものはありません。みことばを毎日黙想することは、私たちが神様の事柄に心を向けるための最初の出発点です。

 しかし、パウロによると、考えるべき良いことは、他にも見つけることができます。私たちの住むこの世界は、神によって創造され、神のご性質と栄光を反映しているからです。

 

 良いことを考えるために私たちが目を向けるべきもう一つは、神様の霊に満たされ、神様からの賜物で祝福された、他のクリスチャンたちです。それによって、私たちは神様により近づくように励まされます。クリスチャンが書いた本を読んだり、クリスチャン・ミュージックを聴いたり、様々な説教者の聖書の説き明かしを聞いたりすることはすべて、私たちの心を良いもので満たすのに役立ちます。また、クリスチャンの友人との会話でも、励まされる証しを聞いたり、聖書にもとづいた良いアドバイスを受けたり、自分が直面している問題に対して新しい視点を得ることができたり、良いことに心を向ける助けとなるかもしれません。

 イエス様を礼拝していない人々であっても、神様の似(に)姿(すがた)に創造されているので、神様の造られた世界やそのお働きを通して、神様についての深い洞察を得ることがあります。ですから、キリスト教の観点から書かれたものではなくても、神の栄光を垣間見ることができる歌や詩に出会い、神を新しい方法で見ることができるようになることもあります。また、愛や勇気、自己犠牲など、私たちが召されている生き方と一致するような生き方を見つけることができるかもしれません。

 私たちは、自分の周りにある良いものを積極的に探すべきです。私たちは常にみことばを読み、暗記し、研究し、考えるようにしなければなりません。そして、今日の箇所でパウロが列挙したものに出会ったなら、いつでも注意深くそれらを考慮し、考え、その中にある良いものを認識すべきです。

 

 私たちが神ご自身、また神様からの良いもので心を満たすとき、私たちの行動は、神が私たちに望んでおられるような生き方と一致し始めます。これが、9節にあるパウロの第二のポイントです。

 ピリピ人への手紙4章9節
「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」

  ここまで、私たちが何を考えるべきかについて見てきましたが、次に、平和の神が私たちとともにいてくださるために、私たちが何を実践すべきかを考えてみましょう。

 パウロはピリピの人たちに、自分たちの学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実践するように、と言っています。パウロは、ピリピ教会を開拓した牧師のような存在でした。彼は彼らの中に住み、彼らに福音を教え、神のために完全に生きるように絶えず励ましました。パウロの教えと生き方は、神がすべての人々に望んでおられる生き方をピリピの人々に明らかにしたのです。彼の生き方は、現代の私たちにとっても模範となるものです。

 神様が、パウロの人生と手紙をこれほど多く新約聖書に含めたのは、このためではないでしょうか。パウロが生きたのは2000年前ですが、彼の生涯と書いた手紙を読むことで、私たちは、彼が教えたこと、言ったこと、行(おこな)ったことから学び、実践することができるのです。私たちはピリピ人への手紙の中で、パウロの知恵や教え、そして彼の生涯の中から私たちが実践すべきことをたくさん見てきました。この手紙の中で、パウロは私たちに祈り方を教え、福音のために苦しみ、犠牲になることをいとわず、互いに謙遜に、愛をもって関わり合うように勧め、私たちの生活の中で何よりもキリストを優先させるよう呼びかけています。彼自身の人生は、これらすべての模範となるものでした。私たち一人一人が使徒パウロの生涯を学び、生活の中で彼の模範に倣うように努力したいと思います。

 神に近づくためには、単にみことばを学び、それを黙想し、祈るだけでは不十分だということがわかりました。私たちは、神様が私たちに呼びかけていることを実行に移さなければならないのです。私たちの思考と行動の両方が、神様との親密な関係を維持するために極めて重要なのです。神様との関係の中で生きることは、善を行い、積極的に悪に対抗することです。知識においても、正しい生き方においても、常に成長し続けることです。私たちの思考と行動が神の善にかなうとき、平和の神は私たちの近くにおられるのです。