お金さえあれば幸せになれる?

ルカの福音書 19章5~10節

ロビソン・デイヴィッド
2022年05月15日

 お金がたくさんあれば、幸せになれるのでしょうか?今日はこのことを考えてみたいと思います。お金だけで幸せになれるわけではないことは、誰もが知っていると思います。愛とか、友情など、お金よりも大切なものがあることに気づいた人たちの物語は、数え切れないほどたくさん作られてきました。しかしその一方で、ほとんどの人が人生の大半をお金の心配に費やし、お金を稼ぐために駆け回り、少しでも多くお金を貯めようと必死です。そのような実際の行動から見ると、お金があれば幸福度が上がると信じている人が多いのは間違いないと思います。宝くじが当たったら、働くのをやめて、いい家を買ったり、世界中を旅行したりできるかもしれない。お金持ちになったら、何も心配する必要がなくなるのに。お金持ちになったら、今よりもっと幸せになれるのに。私たちはみんな、一度はそういうことを考えたことがあると思います。

 しかし、実際にお金持ちの人達を見ると、あまり幸せそうに見えないことも多いです。お金持ちの有名人が、とても不幸な人生を送っているような話をよく見かけます。ある人は薬物やアルコールに溺れています。ある人は、離婚を経験し、全世界の人々の前で法廷で醜い争いを繰り広げます。アメリカのジョニー・デップという俳優が今そのことで話題になっています。また、先週は日本で有名なお笑いタレントが自ら命を絶ってしまったというニュースもありました。裕福でも、平安と幸福であるとは限らないことが良く分かります。

 今年、第10回世界幸福度報告が発表されました。国連が毎年作成している、世界で最も幸せな国はどこかという報告書です。豊かな国が最も幸せで、貧しい国が最も不幸せかと思うところですが、必ずしもそうとは限らないようです。

 今年、世界で最も幸せな国はフィンランドで、次いでデンマーク、アイスランド、スイス、オランダの順でした。北欧は世界でもとても幸せな地域のようです。日本は54位で、全体の真ん中ぐらいにランクインしました。このリストを見ると、豊かさと幸せの関係について、興味深いことがわかります。

 例えば、日本の平均収入は月約36万円というデータがありますが、日本は世界幸福度ランキングで54位です。しかし、平均収入が低くても、幸福度が高い国もあります。例えば、ブラジルでは、平均収入は月20万円程度と日本よりもだいぶ低いのですが、世界幸福度は38位と、日本より上位にランクインしています。また、コソボという東ヨーロッパの国では、平均収入が月7万円であるにもかかわらず、幸福度では32位という驚くべき結果が出ています。

 これらの数字は一つの指標でしかありませんが、豊かさと幸福感がイコールではないことを示していると思います。

 このことは、聖書にも書かれています。イエス・キリストの有名な言葉のひとつに、次のようなものがあります。

ルカ6章20-21節
「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。『貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。 今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。』

 

ルカ6章24-25節
「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。」

 

 聖書の中で、イエス様は多くの人々に出会って話をされましたが、中には非常に裕福な人々もいました。そしてイエス様は、彼らが貧しい人よりも、神ご自身よりも、富を愛していることをしばしば指摘されました。ある時には、こうも言われました。

ルカ18章25節 「"金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

 ある時、イエス様はザアカイという名前の金持ちに出会いました。その時のことがルカ18章に書いてあります。ザアカイは、周りの人々から嫌われていました。取税人といって、ユダヤ人の同胞からローマ帝国に収める税金を集めるのが彼の仕事でしたが、余分に集めたお金を着服していることが知られていたからです。自分が金持ちになるために、貧しい人々を搾取していたのです。その結果、彼は非常に裕福になりましたが、同時に地域の人々から嫌われていました。

 しかし、ある日、イエス様がザアカイの町を通りかかりました。この時すでに、イエス様は有名人になっていました。偉大な教師として知られていただけでなく、多くの人が、イエス様が救い主として、人々の罪を赦すために、神から遣わされたのだと信じていたのです。ザアカイもイエス様を見ようとしましたが、大勢の人に取り囲まれていて見ることができませんでした。ザアカイはとても背が低かったので、イエス様を見るために木に登ったと聖書にあります。そのぐらい、イエス様を見たいという気持ちが強かったことが分かります。すると、驚いたことに、ザアカイのいる木のそばを通りかかったイエス様が、顔を上げてザアカイにこう話しかけました。

 ルカの福音書 19章5節
「 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

 イエス様が自分の家に泊まるということは、大変な名誉でした。イエス様がその人の家に泊まるということは、その人を受け入れたということであり、その人が自分と付き合うに値すると認めたということなのです。ですから、イエス様がザアカイの家に泊まると言われると、町の人たちは皆ショックを受けました。聖なる人とされていたイエス様が、貧しい人々から搾取して金持ちになったザアカイの家に泊まるとは、どういうことか。そのこと自体も衝撃的でしたが、それに対するザアカイの反応、町の人々にとってそれ以上の衝撃だったようです。

 ルカの福音書19章6-8節
「6  ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

 

 このイエス様との短い出会いが、ザアカイの人生を完全に変えたのです。彼は全財産の半分を売り払い、貧しい人々を助けるために捧げようと決心したのです。そして、人をだましてお金を取ることをやめ、だました人すべてに完全に賠償することを約束しました。ザアカイは何よりもお金が好きな人でした。そのお金への愛は、自分の富を増やすためなら、人をだまし、貧しい人を搾取することもいとわないほどでした。しかし、イエス様との短い時間の後、彼は突然、これまでの生活を捨て、富を手放し、他の人を助ける誠実な生活をするように心を入れ替えたというのです。何がザアカイにこのような劇的な心境の変化をもたらしたのでしょうか。

 イエス様がザアカイを見上げ、「あなたの家に泊まることにしている」と言われた瞬間、ザアカイは、イエス様が自分の財産よりもはるかに価値のあるものを与えようとしておられることに気づいたのではないかと思います。ザアカイは富を追い求めて生きてきましたが、その結果、町中(まちじゅう)の人に嫌われるようになっていました。富に幸せを見出すどころか、むしろ富が彼を惨めにしていたと言えるでしょう。

 しかし、イエス様はザアカイの木の下を通ったとき、裁きや拒絶の目で見るのではなく、むしろ憐れみの目で見てくださったのです。ザアカイを憎んでいた人々の前で、イエスは彼の家に泊まることを公言されました。ザアカイは、自分を拒絶する人々に囲まれていましたが、イエス様だけは彼を受け入れ、友人として扱ってくださったのです。それだけでなく、イエス様はザアカイに、その欲深さを赦される機会を与え、彼が貧しい人々から搾取し、隣人を欺いてきたことを赦される機会を与えてくださいました。イエス様は、ザアカイが周りの人々だけでなく、神様にも受け入れられ、愛される機会を与えてくださったのです。

 受け入れられ、愛されるという感覚は、私たちの誰もが深く求めているものだと思います。自分が周りから受け入れられ、非難されないと確信することは、誰もが切実に求めていることなのです。別の言い方をsすれば、私たちは他者と健全な関係を築き、愛し、愛されることを深く求めています。そして、それが得られてこそ、真の幸福を得ることができるのです。聖書は、この欲求の根源は、私たちと神との関係が壊れていることにあると教えています。私たちは神に対して罪を犯したので、神に受け入れられ、愛されていると感じることができず、何とかしてそれを周りの人間から得ようとするというのです。

 ザアカイは、自分の奥深くにある、受け入れられ愛されたいという強い欲求に気づいていたのではないでしょうか。彼は自分が神の前にふさわしくないこと、そして自分がしたことのために周囲の人々から拒絶されていることを知っていました。しかし、イエス様は彼に、神様と和解し、罪を赦され、永遠に受け入れられる機会を与えられたのです。これが聖書の言う「救い」です。富にも名声にも、何物にも代えられない、神様からの贈り物です。

 ザアカイはこのことに気づいたとき、お金を追い求めることが自分を不幸にするだけだと悟り、即座にお金への愛から解放されました。イエス様が、この世のすべてのお金よりもはるかに価値のあるものを与えてくださることに気づいたからです。ザアカイの信仰と悔い改めを見て、イエス様はこのようにおっしゃいました。これを聞いたザアカイは、それまで感じたことのない大きな喜びで満たされたことでしょう。

ルカの福音書19章9-10節
「9  イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」