見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる

ヨハネによる福音書12:15

ロビソン・デイヴィッド
2020年04月 5日

先週私は、コロナウイルスのニュースばかり見ていました。皆さんも同じかもしれません。世界中で多くの人が苦しんでいます。イタリアやスペインでは病院があふれて、多くの人が死んでしまいました。また最近イギリスでは、家から出かけないようにという厳しい命令が出て、ロックダウンになってしまいました。アメリカでも、少なくとも4月の終わりまでロックダウンが続く予定です。先週のアメリカ政府の発表によれば、そのような厳しい感染拡大防止策をやっているのにも関わらず、アメリカだけで10万人から20万人が亡くなると予想されています。世界中では何百万人が犠牲になるかもしれません。とても恐ろしい状況だと思います。
 また、世界の多くの人が、ウイルスからの病気や死亡だけではなく、失業や経済的不安など、感染防止策による経済への影響についても大きな不安を感じています。
 感謝なことに、日本は今のところそのような深刻な状況に陥ってはいませんが、日本の政府の報告によると、日本も、感染爆発寸前のとても危ない状況だということです。
 この前例のない混乱の中で、世界中のクリスチャンがイースターのお祝いに向かっています。来週私たちは、世界のクリスチャンと共に、イエス様の死に対する勝利と永遠の命の希望を覚えて、お祝いします。私たちは苦しみの中にあっても、キリストにある信仰や、永遠の命の約束を覚えて、失われることのない天にある宝に望みを置いています。私たちは失業や病気、死を通るとしても、イエス様への信仰を通してよみがえらせられて、神の国に入る希望を持っています。
 しかし多くの場合、混乱の中で、クリスチャン達はこの真実を見失ってしまいます。世の中の不安が私たちに神様の素晴らしい救いを忘れさせてしまうのです。ですから、このような状況の中でこそ、イエス様にある希望を覚えるのは特に大事なことだと思います。
 来週はイースターで、今日は受難日です。受難日は、イエス様の勝利のエルサレム入城を覚える日です。その日、イエス様がエルサレムに入ると、何千人ものユダヤ人が、イエス様を約束されたイスラエルの王として迎えました。しかし、5日後にはイエス様はその同じ町で、十字架で殺されてしまうことになります。今日は、イエス様が王としてエルサレムに入られたことの意味について、また、私たちがどのようにイエス様を迎えるべきなのかについて、学びたいと思います。
 それを学ぶ前に、この出来事が起こった背景を見てみましょう。
 イエス様の時代、エルサレムはユダヤ人にとって一番大事な町でした。神殿がそこにあったからです。エルサレムはユダヤの首都で、指導者たちや律法学者たちのほとんどはエルサレムに住んでいました。しかし、イエス様の働きはほとんどエルサレムの外で行われました。イエス様はガリラヤ地方を中心に活動されていたので、多くの人はイエス様のところに訪ねて行かなければなりませんでした。ですから、イエス様がエルサレムに来られるというのは、ちょっと珍しいことでした。
 毎年、すべてのユダヤ人が過越の祭を祝いにエルサレムへ行っていました。過越の祭は、ユダヤ人たちが神様が自分の祖先をエジプトから救い出したことを覚えてお祝いするもので、とても大事な祭りでした。
 また、イエス様はエルサレムに入られる直前に、とても素晴らしい奇跡を行われています。それはラザロを死人の中からよみがえらせたことでした。それはイエス様が行った奇跡の中で一番信じられないことだったかもしれません。ラザロは三日間墓の中で死んでいて、体はもう腐り始めていたのに、イエス様がラザロに墓から出てきなさいと命令すると、ラザロはよみがえって、イエス様に従いました。多くの人がその奇跡に立ち会って、また多くの人がよみがえったラザロと話していました。
 この過越の祭はラザロの復活の奇跡のすぐあとだったので、多くのユダヤ人たちはエルサレムへ行く道で、イエス様のことについて話し合って、わくわくしていたと思います。彼らの多くは、イエス様は神様が約束した救い主だと確信していました。また多くの人が、イエス様がダビデの王座につく時はこの時だと信じていました。
 しかし、すべてのユダヤ人がこのように考えていたわけではありませんでした。大祭司と律法学者たちは、イエス様に関して違う視点を持っていました。彼らは、イエス様はユダヤ人の救い主ではなくて、ユダヤ人への脅威だと考えていたのです。彼らは、イエス様がユダヤ人を惑わして、ローマ帝国に逆らっていると考えて、イエス様を殺したいと思っていました。
 この背景情報を頭に置いて、今日の箇所を見てみましょう。今日は15節にフォーカスして、この節から三つの点を考えたいと思います。
1.    イエス様の到来は喜びをもたらす。
2.    イエス様は柔和な者としてろばに乗って来られた。
3.    イエス様のこの世の統治はもう始まっているが、まだ完全に実現していない。
 まず、イエス様の到来は喜びをもたらす、ということについて考えましょう。15節は旧約聖書の引用なので、まず、ヨハネが引用したゼカリヤ書9:9を読みましょう。
 イエス様は受難日に、この預言を成就されました。すぐにわかることは、ヨハネがその預言を引用した時、ゼカリヤの言葉を言い換えたということです。ヨハネとゼカリヤの言葉は少し違うし、ヨハネの言葉はゼカリヤより短いです。
 たとえば、ゼカリヤは「大いに喜べ」と言いましたが、ヨハネの引用では「恐れるな」となっています。意味はとても似ていますが、ニュアンスが少し違います。まず、ゼカリヤが書いた「大いに喜べ」について考えましょう。
 イエス様の到来はとても喜ばしいことでした。イエス様は約束された救い主で、世に来られた王でした。旧約聖書の預言者は、将来神様がこのように救い主を送って、その救い主が永遠の国を建てることを預言しました。また、その永遠の国では、平和、義、喜びばかりが永遠にあって、その国が世界中に広がると預言しました。イエス様は、確かに、その預言された王でした。しかし、イエス様が地上で奉仕された時代の人々が分からなかったことは、神様が送ってくださる救い主がその永遠の国を建てるのはいつなのか、ということでした。イエス様の弟子たちが期待していたことは、自分たちの生きている間にイエス様がその国を建てて、世界の王になることでした。しかし神様のご計画はそれと違いました。
 当時イエス様に従っていた人たちの一番大きな誤解は、どうして救い主が必要なのか、ということだったかもしれません。彼らは別の問題に集中して、イエス様とは違う救い主を待ち望んでいたと思います。彼らが求めていた救い主は、自分が大切だと思う問題を解決してくれる救い主でした。彼らは、イスラエルをローマ帝国の支配から救い出してくれる救い主が欲しかったのです。自分たちを病気や貧困から救い出してくれる救い主を求めていました。つまり彼らは、地上の問題に夢中でした。そのような問題はとても大きな問題で、そのようなことから救い出されることは確かに必要でしたが、それより大きな問題があることに彼らは気づいていませんでした。それは、罪の問題です。
 罪の問題は、地上の問題よりも重要です。私たちはすべて罪びとなので、神様の怒りと裁きに向かっています。その問題を解決しないままでは、他のすべての問題を解決しても、私たちは最終的に破滅にたどり着くのです。他の何よりも必要なことは、自分の罪を神様に完全に、そして永遠に赦していただくことです。
 それはとても恐ろしいことですが、ヨハネは10節で「恐れるな」と書いています。イエス様が来られた理由は私たちを裁くことではなく、私たちを罪から救い出すことだったからです。
 だからヨハネは、「恐れるな、大いに喜べ。見よ、あなたの王が来られる」と書いたのだと思います。

2.    イエス様は柔和な者としてろばに乗って来られた。
 イエス様がエルサレムに入って来た時の様子は、大勢のユダヤ人たちがイエス様を迎えた様子とは不釣り合いなものでした。大勢のユダヤ人たちは、椰子の枝を持って迎えに出て行き、「ホサナ、祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」と叫びました。つまり、イエス様を立派の王のように迎え入れました。しかしイエス様は王様のような恰好はまったくしていませんでした。イエス様は立派な服を着るのでもなく、普通の服を着て、豪華に飾り付けられた馬ではなく、みすぼらしいロバに乗っていました。ロバに乗っていたということが特に大切な点だと思います。
 その時代の王様は、普段は馬に乗っていました。王様が馬に乗るのは、地面に立っている人よりも高い位置にいることによって、自分の高い身分を表すためでした。また、王様が馬に乗るもう一つの状況は、軍を率いて戦争に行く時でした。
 もしイエス様がエルサレムにロバではなくて馬に乗って来ていたら、柔和な者としてではなくて、怒りを持って、反抗的な民を裁くために来ることを表すことです。実は、将来イエス様がこのように来られることが聖書に記されています。
ヨハネの黙示録19:11-16
 イエス様の再臨の時には、イエス様は人を救うためではなく、罪を悔い改めずに罪をおかし続け、イエス様を拒んでいる人を裁くために来られます。その時には、イエス様は栄光を帯びて、白い馬に乗り、義を持って裁き、戦いをするために来られます。
 イエス様が一度目に来られた時は、自分の民のために死ぬために、柔和でへりくだった王として来られました。自分の命を犠牲として捧げることによって、罪びとが赦されるようになる道を作るために来てくださいました。それは神様の計り知れない恵みを表しています。しかし、イエス様が再び来られる時には、征服する王として、罪を悔い改めずに神様に信じない人と戦うために戻られます。
 イエス様が一度目に来られた時に、白い馬に乗ってすべての人を裁かれたとしても、それは正しいことだったでしょう。しかし、イエス様はロバに乗って来られたのです。
 「見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。」
 世界の創造者であるイエス様が、柔和な者として、ロバに乗ってエルサレムに入られたことは、とても大きな意味のあることでした。そしてイエス様はこの5日後、エルサレムで十字架にかかって自分の命を捧げてくださいました。
 その時以来、誰でもイエス様を信じれば、イエス様の素晴らしい恵みを通して、罪の赦しを受けることができるようになりました。今でも、神様の恵みは全世界の人々に開かれています。しかし、その素晴らしい救いにはタイムリミットがあります。イエス様が戻られる前に、イエス様を信じなければならないのです。

 最後に、イエス様のこの世の統治はもう始まっているが、まだ完全に実現していない、ということについて考えたいと思います。
 先ほど、イエス様の時代の多くの人が、イエス様が自分の地上の問題を解決してくれることを期待していたことを見ました。しかし、イエス様はまずもっと深刻な人間の罪の問題を解決してくださいました。将来、イエス様はご自分の永遠の国を建てるためにこの世に戻られます。しかし、その時までは、この世は破れた状態のままにあります。地上の問題は次々に起こります。今のコロナウイルスの危機が表しているように、人間は、貧困や、病気や、死に対する恐れに常に直面しています。私たちクリスチャンは、そのような破れた世界にイエス様が戻られて、すべての問題を解決して、完全な世界に回復させてくださる時を待ち望んでいます。イエス様がこの世に、王として君臨することを待ち望んでいます。
 しかし、私たちにとって大きな励ましとなるのは、イエス様に信頼する私たちの心の中では、イエス様はもうすでに王として君臨してくださっているということです。私たちは今、イエス様のしもべとして、この世でイエス様の御国を表す者です。私たちは御霊を通して神様の恵みと平安を受けて、永遠の報酬を受ける約束を与えられているのです。ですから私たちは、他の人と同じように色々な苦しみを経験していても、まったく違う視点を持っています。私たちが確信していることは、今の苦しみは一時的なもので、将来経験する神の国の喜びは永遠だ、ということなのです。
 使徒パウロはローマ人への手紙8:18で、こう言いました。
「今の時の苦難はやがて私たちに啓示される栄光にくらべれば、取るに足りないとわたしは考えます」
 私たちは、イエス様の再臨に目をとめて、恐れではなく喜びを持って、待ち望んでいます。イエス様が白い馬に乗って王として来られるのは、私たちに破滅ではなく、栄光を与えてくださるためです。
 ですから、今の人生の中で何が起こっても、イエス様から目を離さないでいましょう。イエス様の私たちに対する変わらない愛を信じましょう。イエス様がもうすでに私たちのすべての罪をご自分の最大の犠牲によって赦してくださったことを覚えましょう。そして、私たちをイエス様のみもとに永遠に住まわせてくださるという約束を、しっかりにぎって歩みましょう。