周りの評価に左右されすぎない生き方~聖書の視点

ローマ人への手紙8章31-34節

ロビソン・デイヴィッド
2022年01月16日

 

ローマ人への手紙8章31-34節
「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」

 私たちが人生で直面する最も難しい問題の一つは、他人の期待に応えようとすることではないでしょうか。夫や妻は配偶者の期待に応えようと努力し、子供は親の期待に応えようと頑張り、社員は上司の期待に応えようと奮闘します。私たちはみな、人から良く思われたいという気持ちを持っていて、それが人間関係の中で一つのプレッシャーになっていると思います。もし誰かが自分のことを否定的に見ていることがわかったら、それは大きなストレスになります。誰も自分のことを悪く言っていなくても、心の中では自分のことを悪く思っているのではないかと思うと、不安でいっぱいになってしまいます。

 今日は、聖書の教えがどのように私たちをそのような不安から解放し、心に平安を与えてくれるのかについてお話したいと思います。

 まず、その不安の根本的な原因を考えてみましょう。私たちはなぜ、人の期待に応えようとするのでしょうか。人の目が気になるのは、自分自身に不安があるからかもしれません。

 私もそうです。私は自分の弱い所をよく知っていますが、それを隠そうとします。人に迷惑をかけたり、怒らせたりする傾向があります。また、周りを巻き込むようなミスをしてしまったり、私の自分勝手な行動で他の人に大変な思いをさせてしまうこともあります。このようなことを考えると、恥ずかしくてたまりません。誰にも裁かれないように、自分の過去の罪を隠したいという気持ちが強くなります。失敗をすると、誰にも気づかれないように早く直したいと思います。皆さんもこのような気持になったことがあるかもしれません。

 私が人の評価を気にしてしまう本当の理由は、周りが思っているほど良い人間ではないことを悟られるのを恐れているからだと思います。しかし、自分に正直になれば、私は本当は良い人間ではないと認めざるを得ません。私が本当に恐れているのは、人が私の本当の姿を見て、私を拒絶することなのです。人に良く思われるように行動することはできるかもしれませんが、心の中では、自分は利己的で邪悪な人間だと気付いているのです。

 聖書は、実はこれはすべての人に当てはまることだと言っています。創世記8章21節では、神様は「人の心が思い図ることは、幼いときから悪である」とおっしゃっていますし、ローマ人への手紙3章10~11節では、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。」と書かれています。

 人にどう思われているかという不安は、人間のこのような性質から来ているのではないでしょうか。私たちは、周りの人が自分について真実を知ることを恐れています。私たちの心の中にある悪いものを知られてしまうのではないかと恐れています。しかし、聖書は、すべての人に同じことが言えると教えているのです。神様の目には、本当は誰も良い人ではないのです。しかしそれにもかかわらず、私たちは皆、その事実をお互いに隠し、自分が善人であるかのように装っています。

 私たちがこの地上で、お互いに自分の欠点や罪を隠そうとしながら過ごしている間、神様は天で私たちの行動をすべて見ておられます。それだけではなく、私たちの心の中のすべての考えを知っておられます。私たちは、自分が良くないことをしたり考えたりする、罪ある人間であるという真実を、神様から隠すことはできないのです。最終的には、私たちにとって他の誰の評価よりも神様の評価が重要です。なぜなら、神様はいつか、私たちの行いと心の思いに従って、私たちを裁かれると聖書に書いてあるからです。もし私たちが一生をかけて自分の罪を隠しつづけ、他人に自分は良い人間だと思わせようとするならば、私たちに対する最も重要な評価をしてくださる方、つまり私たちを創造された神様をないがしろにしてしまう恐れがあります。

 聖書は、もし神様が私たちを義と認めてくださるのであれば、他の人の意見はあまり重要ではない、とも教えています。神様が私たちを「良い」と宣言してくださるのであれば、私たちは他人の評価を恐れる必要はないのです。しかし、問題は、神様は私たちの心を見て、私たちの罪をすべて知っておられるということです。それなのに、神様が私たちのことを「良い」と思ってくださるとは思えません。

 実は、これがキリスト教のメッセージの中心にある希望です。聖書は、私たちが罪深い、正しくない人間であるにもかかわらず、神様は私たちを愛してくださり、イエス様を遣わして、私たちを赦し、受け入れてくださる道を作ってくださったと教えています。聖書は、ローマ人への手紙3章21~22節で、

「律法とはかかわりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる、神の義です。」

と述べています。正しい人になるための一つの方法は、100%正しいことをし、正しい考え方をすることでが、それは人間にはできないことです。聖書は、正しい人になるために人間ができる方法として、イエス様を信じるという道を明らかにしています。

 イエス様は、私たちの代わりに、完全で正しい人生を送ってくださいました。私たちが自分の罪を神様に告白し、悔い改めてイエス様を信じると、神様は私たちがイエス様本人であるかのように扱ってくださるのです。私たちのすべての罪を赦してくださいます。私たちの過去の罪や悪い考えは、体にこびりついた汚れのようなものですが、イエス様を信じると、神様は私たちをきれいに洗ってくださり、純粋で正しい者にしてくださいます。

 イエス様によって神様に赦されたなら、私たちは神様に愛され、受け入れられているという確信を持つことができます。なぜなら、神様は私たちの弱点をすべて知っておられ、私たちがどんな人間であるかを正確に知っておられるにも関わらず、その上で、キリストを通して私たちを完全に受け入れてくださるからです。私たちは、自分の良い行いに基づいてではなく、キリストへの信仰によって義とされるので、神様との関係は揺れ動くことはありません。また神様は、私たちが赦された後にまた罪を犯したとしても、私たちをその行いではなく、キリストの行いによって義とみなし、何度でも赦してくださいます。神様は、私たちを裁くのではなく、私たち守り、弁護してくださるのです。ローマ8章31-34節では、キリストを通して神様との新しい関係に入った結果について、聖書はこのように述べています。

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」

 神が私たちの味方でいてくださるのなら、他人が私たちをどう思うかはもはや問題ではありません。神様が私たちを正しいと宣言してくださるなら、誰も私たちを責めることはできません。私たちを救うためにご自分のひとり子(ご)イエス・キリストを死なせることによって、神様は私たちへの愛に限りがないことを示してくださいました。もし私たちがキリストを通して神様のもとに帰るなら、神様は私たちを受け入れ、あらゆる非難から守ってくださいます。私たちはもはや、人にどう思われるかを恐れる必要はないのです。

 使徒パウロは、第一コリント4章3-3節でこのことをはっきりと表現しています。パウロは、自分がさんざん愛を持って奉仕したにもかかわらず、自分を拒絶し、理由もなく批判していた教会に手紙を書きました。その中でパウロはこう言っています。

「しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。 私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。」

 パウロの唯一の関心事(ごと)は、神様が自分をどう思っているかということでした。神様が自分を、正しく価値がある者だと判断してくださるのなら、他のことはどうでもよいのです。これこそが、イエス様が私たちに与えてくださる自由であり、イエス様によって救われる希望なのです。

 このように考えると、人の気持ちを思いやることができなくなるのではないかと思う人もいるかもしれません。相手にどう思われるかを恐れなくなったら、相手を喜ばせようとか、礼儀を尽くそうとすることもなくなってしまうのではないでしょうか。しかし、それは神様のみこころではありません。むしろ、他人にどう思われるかという恐れから解放されて初めて、私たちは人を本当に愛することができるのです。キリストは私たちに、すべての人を愛するよう呼びかけています。このことは、私たちの人間関係に大きな影響を与えます。キリストがいなければ、私たちは人間関係において恐れに支配されることが多いのです。その結果、私たちの心は不安でいっぱいになり、人との関係において表面的な平安しか得られません。しかし、他人にどう思われるかという恐れから解放され、相手を心から愛するようになったとき、私たちは神の平安と喜びが感じられる、真の深い人間関係を築くことができるようになります。

最後に、第1ヨハネ4章16-19節にある聖書の一節を読みたいと思います。

「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

 完全な愛は恐れを打ち消します。キリストを通して示された、私たちに対する神の完全な愛によって、私たちがすべての恐れから解放されますように。神の愛に満たされ、神が私たちを愛してくださったように、私たちも人を愛するようになれますように。