歴史の中で、知恵と影響力のある宗教指導者が何人もいました。悟りを開き、人生の一番深い真実を理解するようになったと主張した、釈迦のような宗教指導者がいました。神から特別にメッセージを受けたと主張して、他の人にそのメッセージを伝えた、ムハンマドのような宗教指導者もいました。また、様々な時代と地域で、神が人間の形になって、人の目の前に現われたという伝説もたくさんあります。
では、イエス・キリストはどのようなお方でしょうか。イエス・キリストは、人間ですか?神ですか?それとも預言者でしたか?実は、聖書はイエス・キリストはこれらの3つすべてだと教えています。キリスト教のイエス様に関する教えはとても特殊な教えだと思います。クリスチャンは、イエス様は完全に人間で、同時に完全に神だと信じています。これはとても不思議な教えで、分かりにくいことだと思いますが、この教えが正しいとすれば、神様に関するとても深い真実を表わすものです。
イエス・キリストが完全に神であり完全に人間である、というキリスト教の教えを理解するためには、まず、クリスチャンが神についてどのように信じているのかを理解することが必要です。クリスチャンは、神はおひとりだけだと信じています。つまり、ひとりの偉大な神が、神以外のすべてを創造されたということです。ですからこの唯一の神は、他のすべてのものよりはるかに大きな力と知恵を持っておられます。実に、聖書の教えによると、この神の力と知恵は無限です。そして、クリスチャンはイエス・キリストは神々の一人ではなく、無限の力と知恵を持ち、すべてを創造した神ご自身だと信じているのです。不思議なことは、この無限の唯一の神が人間の体をとって、ご自分が創造した世界に来られたということです。
ヨハネの福音書1:1-3
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
ここで「初めにことばがあった」と書いてあります。この「ことば」とは、イエス・キリストを指しています。つまり、イエス・キリストが初めにおられたという意味です。イエス様が他のすべてのものが存在する前に神と共におられた、そして神であったという意味です。これはとても不思議な表現だと思います。しかし実は、この短い箇所に、キリスト教の神に対する最も重要な教えの一つが表わされているのです。それは、神が唯一であって、父、子、聖霊、この三つのお方に存在しているということです。この非常に分かりにくい教えは三位一体と呼ばれています。今日は三位一体の全体を詳しく説明する時間はありませんが、イエス様が神と共にあって、また同時に神であるということを知っていただければと思います。イエス様は、ご自分についてこのように言われました。
ヨハネの福音書10:30
私と父は一つです。
この言葉を通して、イエス様はご自分が唯一の神ご自身だと主張されました。これは信じられないような主張でしたが、それが事実だとすれば、イエス様は他のすべての人より特別な方だということになります。イエス様が唯一の神ご自身なのだとしたら、すべての人より知恵を持っているはずですね。すべての物を創造されたからです。また、私たちに人生の一番深い真実を教えることができるでしょう。神であるイエス様はいのちそのものを創造されたからです。私たち人間の生きる目的は何なのか。なぜ苦しみがあるのか。死んだ後なにが起こるのか。イエス様が唯一の神なのだとすれば、これらすべての質問に答えることができるでしょう。
また、イエス様が唯一で無限の力を持っている神ご自身なのだとすれば、イエス様にはできないことはないでしょう。病気の人を治すことができ、私たちのすべての必要を与えることができるでしょう。また、イエス様が神なのであれば、私たちに永遠のいのちを与えることができるでしょう。
聖書は、イエス様は実際にこれらすべての質問に答え、これらすべての事をできるお方だと言っています。しかし、イエス様が同時に人間でもあったとすれば、それはどういう意味なのでしょう。
ヨハネの福音書1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
ここで聖書は、イエス様は人になられたと言っています。どのようにして人になられたのでしょうか。イエス様は、すべての人間と同じように、赤ちゃんとしてお生まれになられました。それがクリスマスです。イエス様は完全に神であり、完全に人間です。唯一の神であるにも関わらず、人間でもあったゆえに、私たちと同じように悲しみ、苦しみ、難しさも経験されました。また、私たちが直面するのと同じ誘惑も経験されて、私たちが感じる感情もすべて経験されました。イエス様は神でありながら、人間の経験も経験されたのです。
このような神は、私たちから遠くに離れてはおられません。このような神は、人間を深く知り、深く愛することができます。無限の力をもち、すべての創造者である唯一の神が、人となって私たちの間に住まわれました。イエス様は神としての栄光を捨てて、私たちの壊れた世界に人間として来られたのです。しかし、そもそも何故そんなことをしたのでしょうか?
イエス様が人になられたのは、人を救うためでした。不滅の神であるイエス様が、負傷したり、殺されたりする可能性のある体を取って、人間としてお生まれになったのは、私たちのために死ぬことによって、私たちを救うためだったのです。ではなぜ、宇宙を創造された神が、私たちを救うためにご自分をそのように低くされて、苦しんでくださったのでしょうか。その答えは、神が人間を愛されたからです。
1ヨハネ4:8-10
愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
「神は愛だからです。」これは美しい言葉だと思います。完全な愛は、神のご性質から来るものです。神がご自分の人間に対する愛をもっともはっきりと表わされた行いが、御子イエス様を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださったことです。そして、私たちにいのちを与えるために、イエス様は私たちの罪のために、宥めのささげ物としてご自分のいのちを捧げてくださいました。この宥めのささげ物とはどういう意味でしょうか。これは、イエス様が私たちの罪の債務を支払うために、ご自分のいのちを捧げられたということです。
ちょっと想像してみてください。ある人が、悪い人から一億円の借金をして、そのすべてをギャンブルで失ってしまいました。その結果、お金を貸した人は彼を殺そうとします。しかし、その人の父は息子の状況を知ると、息子の命を救うために、自分の家も財産もビジネスもすべて売って、息子の借金を肩代わりします。イエス様が人間のためにしてくださったのは、まさにこのようなことです。イエス様は、私たちの罪の債務を支払うために、ご自分のいのちまで捧げられたのです。
しかしここで考えたいのは、そもそも私たちにはそんなに恐ろしい債務があるのだろうか、ということです。聖書は、私たちすべての人間は、死に値する罪を犯したと教えています。聖書によると、私たちは自分の生き方によって、神の栄光を汚しているというのです。私たちは自分を創造してくださった、唯一の神を何よりも尊重することをしませんでした。神の命令を守りませんでした。神の正当な権威に反抗して、自分の人生は自分のものだという考えの中で生きていました。聖書によると、このようなことはすべて罪であり、罪の罰は死なのです。私たちは、命の代わりに何を差し出すことができるでしょうか。私たちは、命以上に価値のあるものを持っていません。では一体何が、罪の償いをすることができるのでしょうか。可能性が一つだけあります。それは、誰かが私たちの代わりに、私たちの罰を受けることです。しかし、さきほど学んだように、すべての人間が罪を犯したので、すべての人間が同じ罰に直面しています。まったく罪のない、完璧な人生を送った完全な人だけが、私たちの身代わりに命を捧げることができました。
その完全な人間こそが、イエス・キリストなのです。イエス様は人間を罪の罰から救うために、人間になってくださいました。イエス様は人間として生まれましたが、罪のまったくない完全な人生を送られました。罪の誘惑を経験されましたが、誘惑を克服して、罪を一つも犯されませんでした。イエス様は、すべての人間が本来生きるべき、きよい人生を送られたのです。人間が創造されてからこれまで、すべての人々の中で、死に値しない者はイエス様だけです。だから、イエス様だけが私たちの罪の罰を私たちの代わりに受けることができたのです。そして実際にイエス様は、十字架の上で、私たちを救うために、ご自分の命を捧げられました。
イエス様はヨハネの福音書3:16でこう言われました。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
人間になられたイエス様の完全な人生と犠牲の死が、私たちの罪の債務を支払ってくださいました。しかしイエス様の働きは十字架の死で終わることはありませんでした。聖書によると、イエス様は死から復活されて、天に昇り、神として永遠に生きておられます。その結果、神様はイエス様を信じる人を受け入れて、永遠のいのちを与えてくださいます。イエス様を信じる人は、イエス様の義に基づく報いを受け、イエス様がその人の罪の罰を受けてくださるのです。これこそが、最大の愛の行為と言えるでしょう。