嵐すら益としてくださる

使徒の働き27章1-2,14-44

ロビソン・デイヴィッド
2021年05月23日

使徒の働き27章1-2,14-44

 使徒の働きを学び始めて2年余り経ちましたが、使徒の働きの多くは、福音を伝えるためにパウロが外国の多くの都市を旅した様子を描いています。実はこれは、使徒の働き9章16節でキリストがパウロを召された時に言われた言葉の一部でした。

 「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

 その言葉通り、その時から、パウロは福音のために大きな苦しみを受け始めました。彼は肉体的にも精神的にも激しい試練に耐えなければなりませんでした。迫害を受け、殴られ、病気になり、自然災害にも遭いました。使徒の働きが終わりを迎えようとしている今、パウロはまた新たな使命を帯びて、今度はローマに福音を伝えることになりました。しかし、彼は自由人としてではなく、囚人として、カエサルの前に立って弁明するために連れて行かれたのです。しかし、驚くべきことに、パウロはそうすることを望んでいたようです。イエス様は、パウロがローマでご自分に代わって証言すると約束されていたので、パウロはそのためにローマに行くことを切望していました。しかし、27章では、神を敬うがために、またもや困難な試練に直面することになります。

 なぜパウロには悪いことが次々起こったのでしょうか?なぜ、パウロはこのような試練に耐えられたのでしょうか?なぜあきらめなかったのでしょうか?今日は、この箇所を学びながら、直面している状況をパウロがどのように見ていたのか、そして、私たちが自分の人生においてどのように困難に立ち向かうことができるのかを考えてみたいと思います。

 使徒の働き27章には、パウロの旅の様子がとても詳しく書かれています。パウロには使徒の働きを書いたルカが同行していましたので、この最後の2章には、ルカが直接経験した出来事が書かれています。彼らは冬になる前にローマに到着することを目指して、カイサリアから船で出発しました。

 旅の初めに、パウロはユリウスというローマの百人隊長の下に配属されます。ユリウスは、シドンに立ち寄った際に友人を訪ねることを許可するなど、パウロを親切に扱いました。とはいえ、パウロが囚人であることに変わりはなく、ユリウスはパウロが脱走しないようにする義務がありました。

 ルカは、旅の最初はゆっくりと進んでいったことを描写しています。風のせいで、なかなか船が進まなかったと書いています。この旅の間、彼らは比較的陸地に近い所で、海岸や大きな島の近くを航行していました。そして、8節では、クレタ島の「良い港」という小さな港町に到着します。しかし、この頃には冬が近づいており、地中海の旅は危険な状態になっていました。11月から2月の間、地中海は嵐や予測不能な天候のために危険と判断され、基本的に船の航行は禁止されていました。

 彼らが「良い港」に到着したのは、9月下旬から10月中旬のことだったようです。この時期にはまだ旅は可能でしたが、非常に危険でした。この時点でユリウスと乗組員は、地中海を渡ることができなくなる前にローマに到着することはできないことを悟ります。冬の間の宿泊場所を見つけなければならなくなった彼らは、パウロの助言に反して、島を回り込んでフェニクスという大きな港まで航海することにしました。これは65kmほどの距離で、とても短い旅になるはずでしたが、この航海中に彼らは大嵐に見舞われてしまいます。

 これまでの旅では、陸地に近い所にいたり、海を渡って島の近くまで行ったりすることが多かったので、今回も陸地に近い所にいるつもりでした。しかし今回は、陸地から遠く離れた地中海の真ん中に追いやられ、何日も嵐に翻弄されることになりました。空は真っ暗で、太陽も月も星も見えず、船の航行もままなりません。船は波に揉まれ、沈まないように食料の多くを海に投げ捨てなければならなくなりました。すべての希望が失われ、船上の多くの人々は死を覚悟したことでしょう。

 しかし、神がパウロに与えた約束は、変わっていませんでした。嵐が吹き荒れる海上のある夜、御使いがパウロに現れ、パウロは神様が無事にローマに連れて行くという約束を守ってくださるだけでなく、船に乗っている全員を救ってくださると確信しました。

 

使徒27章23-25節

 「昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」

 

 船員たちが自分たちの状況を見て、嵐の中で死ぬ可能性が高いという結論に達したのに対し、パウロはキリストとその約束に目を向け、全員が助かるという希望を得たのです。パウロにとっては、直面する困難よりも、神が状況を支配しておられることを知ることが重要でした。

 パウロはまだ恐れを感じていたでしょうし、不安でいっぱいだったでしょう。飢えと寒さも感じていました。しかし、彼は船員たちが知らないことを知っていました。彼は、自分は大丈夫だということを知っていました。パウロは、この嵐が神の目的を打ち破ることはできないことを知っていたのです。彼は、神が彼をローマに連れて行き、カエサルの前で証言させようとしておられることを知っていました。

 パウロがこの嵐の中で直面した危険や困難を考える時、そこから学べる重要な教訓が2つあると思います。私たちは皆、人生において困難や苦難に直面します。パウロや旅の仲間のように、あまりにも大きな困難に直面し、自分ではどうすることもできないこともあります。望みがないように感じるかもしれません。しかし、私たちがこのような状況を経験する時に神が共におられるならば、私たちは大きな希望を持つことができます。神を味方につけていない人たちとは全く違った視点で、このような困難に立ち向かうことができるのです。パウロが神との関係によって、困難な状況を変えた2つの真理(しんり)を見てみましょう。

 

1.           嵐の中で、神との関係がパウロにとって大きな益となった

 まず、嵐の最中、パウロは神との関係によって、嵐に滅ぼされたり、打ち負かされたりしないという希望と信仰を持ちました。船の船員たちはそのような希望を持っていませんでしたので、もうおしまいだ、と思っていました。神の助けがなければ、彼らは確かに死んでいたでしょう。彼らが生き残ったのは、パウロを救い、彼との約束を守るために神様が行われた奇跡的な御業であることは明らかです。

 それと同じように、私たちは苦難や困難に直面するたびに、神様との関係を通してのみ得られる、唯一の希望を持っています。神様が私たちを愛してくださっていることを知っているという希望です。これ以上の希望はありません。神様は、全宇宙の誰よりも大きな力を持っておられます。神様の手に負えないものはありません。神が私たちを愛し、私たちの味方であるならば、私たちを打ち負かすことのできるものは何もないのです。

 

ローマ人への手紙8章31節、38―39節

 31では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。


 38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

  神が私たちと共にいてくださるなら、死そのものでさえ私たちに打ち勝つことはできません。たとえ私たちが死に至るような試練に直面しても、神は必ず私たちを死者の中から永遠のいのちによみがえらせてくださいます。神の愛を知ることで、この世での苦しみや不安が消えるわけではありませんが、愛に満ちた父が最後には私たちを救ってくださることを知ることが、困難に立ち向かう希望と力を私たちに与えてくれるのです。

 

2.           神との関係によって、嵐そのものがパウロにとって大きな益となった

 これは、クリスチャンである私たちに与えられている、最も素晴らしい約束の一つではないでしょうか。困難や苦しみも、私たちにとっては益となるということです。キリストを知る前の私たちは、神の愛から切り離されていました。神様の裁きと怒りを受けていたのです。苦難に直面しても、神の救いを期待することはできず、神が私たちに対して怒(いか)っておられるのではないかという恐れだけがありました。苦しみは、人類が罪を犯したことによってこの世に生まれました。その目的は、私たちを罰することであり、私たちに対する神様の怒りを示すことでした。

 しかし、クリスチャンになると、すべてが変わります。私たちの罪は赦されました。神様は、もはや私たちを怒りではなく、愛で見てくださいます。それは、私たちが何かをしたからではなく、キリスト・イエスが私たちの罪を取り除き、神の前で私たちを義としてくださったからなのです。私たちが自分の罪を悔い改め、キリストへの信仰を持ち、創造主(ぬし)を唯一の真(まこと)の神として礼拝するようになると、驚くべきことが起こります。私たちが直面するすべての苦しみは、神をより深く知り、神の愛と力をより直接的に経験し、より聖(きよ)い者となる機会となるのです。

 パウロは、使徒の働き27章で難破するずっと前から、この深い真理に気づいていました。彼は他にも多くの試練や苦難に耐えてきたからです。彼はすでに3回も難破しており、そのうちの1回は、救助されるまで1日以上も海で漂流していました。

 パウロが直面した最も困難な闘いは、おそらく「肉のとげ」と呼ばれるものでした。それが一体何であったのかはわかりませんが、パウロを大いに悩ませたものでした。パウロは、この「とげ」を取り除いてほしいと3回も神様に嘆願したほどでした。第2コリント9-10章では、そのことに対する神の応答と、パウロの苦難に対する結論が記されています。

 

第二コリント人への手紙12:9-10

 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 

 神はパウロに、困難な状況下では、神の恵みがパウロに必要なすべてであると言われました。だからパウロは、苦難やそれに伴う苦痛から逃れる必要はなく、それを耐えるための神の恵みが必要なだけだったのです。神を持たない人は、人生の試練や困難に直面すると、打ちのめされ、弱く無力な状態になってしまいます。しかし、神様が私たちと共にいてくださるなら、私たちが自分の力の限界に達した時、神様がそこにいて、無限の力を与えてくださるのです。私たちが直面する困難を取り除くのではなく、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それによって、私たちは神の愛と力を新たに知ることができ、神への信仰と愛を深めていくことができるのです。

 

 今、私たちの中にも、人生の中で嵐に直面している人がいるかもしれません。もし今そうでなくても、いつかはきっとそうなるでしょう。しかし、キリストにあって、私たちは希望を持っています。それは、どんな嵐に直面しても、神が私たちを守ってくださるというだけでなく、その痛みや苦難を、私たちが神の愛と力を以前よりも深く知る機会に変えてくださるという希望です。