喜びの手紙

ピリピ人への手紙4章4節

ロビソン・デイヴィッド
2021年06月27日

 最近、私たちは2年間にわたって続けてきた使徒の働きの学びを終えました。教会が誕生し、エルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで福音が広まっていったことを学びました。今日からは、使徒の働きが終わったところから、新たにピリピ人への手紙を読むことにしました。使徒の働きは、パウロがローマの牢獄に入れられ、カエサルの前で裁判を待っているところで終わっていますが、 ほとんどの学者は、ピリピ人への手紙はこの時期にパウロが書いたものだと考えています。パウロはこの手紙を、第二回伝道旅行中に設立したピリピの教会に宛てて書きました。

 使徒の働き16章には、パウロが初めてヨーロッパに入り、マケドニア地方の都市ピリピで福音を伝え始めたことが書かれています。パウロはシラスとテモテの助けを借りて、多くの人をキリストに導き、この街に新しい教会を建てました。ピリピの教会の信者たちは、パウロの親しい友人となり、パウロが他の街で福音を宣べ伝えるために去った後も、パウロに経済的支援を行い、パウロの同労者となりました。

 私は宣教師として、パウロとピリピ教会の関係を身近に感じます。アメリカには、私たちが日本でキリストの働きをできるように、経済的に支援してくださる教会やクリスチャンがたくさんいます。彼らの祈りと犠牲が、私たちの宣教の働きを可能にしているのです。彼らと連絡を取り合い、ここ宮古で神様がなさっている働きについて分かち合うことは、私たちにとっていつも大きな励ましになります。しかし、パウロのピリピ教会との関係は、さらに深いものだったと思います。それは彼自身がこの教会を設立したからです。

 パウロが逮捕されてローマに送られたことを聞いたピリピ教会の人々は、パウロのことをとても心配しました。パウロは、ユダヤ人の敵から、治安を乱し、人々がローマに反逆するように扇動したという嫌疑をかけられていました。この告発は全くの冤罪だったのですが、ローマ当局は彼を捕らえて判断を遅らせていました。イスラエルのカイサリアで投獄された2年後、パウロはローマ市民としての権利を利用し、カエサルに訴えて裁判を起こしました。そして、鎖でつながれた状態でローマに送られ、家を借りてローマ兵の監視下に置かれながら、裁判を待つことになったのです。

 彼のこの時の状況は非常にストレスの多いものでした。パウロは、訪問者を迎えたり、手紙を書いたりするのは自由でしたが、家から出ることは許されず、カエサルがどのような判定をするかもわからない状態でした。カエサルがパウロに不利な判決を下せば、死刑になる可能性もありました。パウロの友人の多くは、重い罪を犯して牢屋に入っている人と関わりたくないと、彼を見捨てました。

 そんなパウロの状況を聞いたピリピの人々は、とても心配し、助けたいと思いました。そして、パウロのローマでの生活費を賄うためにお金を集めて、最も信頼しているメンバーの一人であるエパフロディトという人に託して送りました。

 しかし、エパフロディトは旅の途中で重い病気にかかり、死にかけてしまいます。そのことを聞いたピリピの人々は、さらに不安になりました。しかし、彼は任務を果たし、病気からも回復しました。

 エパフロディトが回復した後、パウロはピリピの人々に手紙を書き、彼らの支援に感謝し、エパフロディトが勇敢にも命を賭けて彼を助けに来たことを知らせることにしました。そして、エパフロディトにこの手紙を託して、ピリピに持ち帰り、教会を励ますために、最も信頼している同僚のテモテも一緒に送り出しました。そのようにして書かれたのが、このピリピ人への手紙です。

 これから数ヶ月間、ピリピ人への手紙をより詳しく学んでいく中で、パウロのピリピの信者に対する深い愛と、彼らのパウロに対する大きな関心を見ていきます。また、ピリピ教会の信仰と善行にパウロがどのように励まされたかを見ていきます。パウロが、ピリピ教会の信者たちに、困難な状況に直面していても忠実であり続けるように励ましていたこともわかります。

 今日は、ピリピ人への手紙の内容を概観するために、この手紙の3つの大きなテーマについて説明したいと思います。

 
1.           苦しみの中での喜び

ピリピ人への手紙4章4節
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 

 ピリピ人への手紙は、しばしば「喜びの手紙」と呼ばれます。この短い手紙の中で、パウロは繰り返し喜びや楽しみについて語っています。パウロは、ピリピの人々の贈り物を受け取り、彼らがキリストに忠実であることを聞いて、喜びに満ちています。同様に、パウロは手紙の中でピリピの人々に主を喜ぶように勧めています。興味深いのは、この時のパウロもピリピ人も、非常にストレスの多い困難な状況に置かれていたことです。パウロは、死刑判決を受ける可能性のある裁判を待っていましたし、ピリピの人々も同様に、パウロとエパフロディトのことを心配していました。そして、彼らのキリスト教信仰に反対する多くの敵に直面していたのです。

 しかし、そのような状況にあるにもかかわらず、パウロは喜びに満ちています。それは、キリストがこの状況の中でも働いておられ、たとえ死刑になったとしても、何があってもキリストと永遠に過ごすことができるという信仰を持っていたからです。同じように、パウロはピリピの人々に、キリストに目を向け、キリストが自分のために保証してくださった救いと、その先にある希望を思い起こし、彼のように、どんなに困難な状況の中でも喜ぶことができるようになることを勧めています。

 

2.           へりくだることによる一致

ピリピの信徒への手紙2:1-3
 1ですから、キリストに会って励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがあるなら、2あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。3何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。

 

 ピリピ人への手紙の中で、パウロは何度も一致するように勧めています。このような一致の源は、キリストによって希望と慰めと愛情と共感を与えてくださる神にあります。パウロがピリピの人々に求めた一致とは、教会のすべてのメンバーが、同じ心と人生の目的を共有した時に生まれる、深い一致です。それは、この世ではほとんど見られない、しかし、キリストの教会が模範とすべき一致です。この一致を達成する唯一の方法は、へりくだりによってだとパウロは書いています。

 パウロはピリピの人々に、自分の欲望を捨てて、互いに仕え、自分よりも他人を大切にするように呼びかけています。このような態度は、自然な人間の性質に反するものですが、パウロはピリピの人々に、これこそキリストが彼らのためにしてくださったことだと思い起こさせます。キリストは、永遠の昔から天において神と一つであり、栄光、知識、力において完全に神と等しい存在でした。それなのに、キリストはその栄光をすべて捨てて、人間になられました。ご自分をへりくだらせてこの地上に来られ、神と人のしもべとなり、十字架による死にまでも神に従われました。この究極のへりくだりと自己犠牲は、すべてのクリスチャンが従うべき模範となっています。キリストは、私たちを救うために、私たちに代わってご自身をへりくだらせ、死なれました。私たちはキリストからこのような驚くべき恵みを受けたのですから、同じ恵みと謙虚さをお互いに示すべきです。私たちは、キリストのへりくだりの模範に従うことを決意し、世界におけるキリストの目的を追求することで一致するべきなのです。

 このような一致は、人生を変えるキリストの力の力強い証しとなり、教会のすべてのメンバーに大きな祝福をもたらすものです。

 

3.信仰によって義とされる

ピリピ人への手紙3章8~9節
 8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の儀ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。

 パウロはピリピの人々に、自分の善行ではなく、キリストを信じる信仰によって得られる義を追求するように勧めています。パウロは、クリスチャンになる前は、ユダヤ教の中でも最も厳格な教えを実践していました。旧約聖書の律法にあるすべての規則や制限を守り、必要ないけにえを捧げ、必要な儀式を行うことに努めていました。しかし、キリストがパウロにご自身を現された時、パウロは自分の努力がすべて無駄であったことを悟りました。それは彼を高慢にしただけで、神に受け入れられるどころか、むしろ神を不快にさせていたのです。パウロは、イエス様に出会って、真の義はキリストを信じることによってのみ得られることを知らされました。

 イエス様は私たちに代わって律法の要求をすべて満たしてくださったので、キリストに信仰を置く者は、自分の功績ではなく、キリストの功績によって裁かれることになります。キリストへの信仰を持つ人は、この世では不完全な歩みを続けていても、神の目には完全であると見なされます。キリストによって、私たちは裁きや拒絶の恐れから解放され、完全な義人になるための神の助けを受けることができるのです。

 神との新しい契約の下では、私たちは神に受け入れられるために完全に正しい生活をする必要はありません。むしろ、キリストによって、私たちがまだ罪人(つみびと)であるうちに受け入れられ、人生を通して、義人(ぎじん)となるために私たちの内に働き始めてくださるのです。クリスチャンの生活は、私たちが失敗しても非難されることなく、最終的な成功が神によって保証されている、完全さを目指す旅の始まりなのです。

 パウロはこの手紙を通して、神の地上の教会に対する輝かしいビジョンを明らかにしています。それは、お互いを思いやり、互いに仕え、謙虚に協力して、キリストの命令に従う共同体になるということです。私たちは、キリストが私たちのためにしてくださったことに基づいて、神様が私たちを完全に受け入れてくださることを知り、神様との関係に安心できる民となりました。キリストへの信仰を通して、私たちを完全な義に導いてくださることを知りました。私たちは、キリストを通して神の大きな愛と約束を受け、この世で直面するかもしれないどんな困難にも打ち勝つことができる強い希望と平安を見いだし、常に喜びに満ちた人々になることができるのです。

 これこそが、キリストが私たちに約束してくださった人間像です。ピリピ人への手紙をじっくりと深く読み解くと、キリストとの関係がこれらすべてを可能にするだけでなく、必然的なものにしてくれることがわかります。私は、神様がこの宮古ですでにこの働きを始めておられ、ご自身の無限の力でそれを完成させてくださることを信じています。