完成させてくださる神

ピリピ1章6節

ロビソン・デイヴィッド
2021年07月 4日

 ピリピ人への手紙の冒頭には、喜びに満ちたパウロの姿が描かれています。パウロが開拓し、愛してやまないピリピ教会が、彼の窮地を救うために、メンバーの一人に多額の献金を託して送ってくれたのです。パウロは、ピリピ教会の誠実さと愛にふれて勇気づけられていました。しかし実は、その喜びを脅かすような状況が、当時のパウロにはありました。彼は無実の罪で投獄され、死刑を宣告されていたのです。味方だと思っていた人たちに裏切られてしまいました。これらの問題は、ピリピ人からの贈り物を受け取った時にパウロが感じたであろう喜びを、簡単に打ち消してしまってもおかしくないものでした。しかし、この手紙の中のパウロの口調は、このような苦難の中にあっても、真実の純粋な喜びを示しています。

 それは、パウロの喜びが単にピリピ教会の親切さから来るものではなく、神への信仰に根ざしていたからです。パウロは、神が自分を見捨てていないこと、自分に起こっているすべてのことが、何らかの形で良い方向に向かうことを確信していました。この信仰と喜びから、パウロはピリピ1章6節で、聖書全体の中で最も励ましになる言葉を述べています。

 「あなたがたの間で良い仕事を始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」

 

 この聖句は、自分の力の及ばない状況で困難に直面した時だけでなく、自分の過ちや不完全さと格闘している時にも、私たちに希望を与えてくれます。私たちはしばしば、自分には神に忠実であり続けるための力や大胆さ、信仰があるだろうかという思いに悩まされます。私たちは、イエスの教えや命令に従うことに苦労することがあります。しかし、この聖句では、神が私たちに望んでおられるような人間になるのは難しくても、神が私たちの中で働いておられるので、私たちは完全な状態に達することができると保証されていることがわかります。このような希望があれば、どのような状況でも私たちは喜びを感じることができます。

 私たちが神の呼びかけに応え、罪を悔い改め、イエス様に信仰を置くとき、神は私たちを変え、完成させるために私たちの人生に働きかけ始めます。そして、いったん神様が何かを始めたら、必ず完成させてくださいます。誰も、神様を止めることも、そのご計画を妨げることもできないのです。

 例えば、宮古でマラソン大会が開催され、優勝者には100万円が約束されていたとします。宮古に住んでいる人なら誰でも参加できるレースだったとしたら、あなたは参加しますか?私はしません。マラソンなんてやったことないし、多分ビリになると思うからです。でも、もしあなたの親友がたまたま宮古で一番速いマラソンランナーで、「もしあなたがレースに出てくれたら、どんな順位でも優勝賞品をゆずってあげる」と約束してくれたとしたらどうでしょう。

 それは、キリストが私たちにしてくださったことに少し似ていると思います。神の国に入れていただくためには、私たちは完全な者となり、神に完全に従順でなければなりません。しかし、私たちは皆、完全とは程遠い存在です。今まで生きてきた人間は、誰もが何度も神様に対して罪を犯してきたので、誰も神の御国に入る資格はありません。私たちは、自分の能力でそのような賞を得ることはできないのです。だからこそ、イエス様は私たちにとって素晴らしい存在なのです。イエス様は、私たちのために永遠の命を獲得してくださいました。私たちができない事をして、私たちができなかった完全な人生を送ってくださいました。私たちが受けるべきはずの、罪の報酬としての死を死んでくださったのです。さらに、死そのものに打ち勝って生き返り、私たちがそれに値しないにもかかわらず、赦しと永遠の命を与えてくださったのです。

 キリストは、ご自分を信頼する人に2つのことをしてくださると約束しています。第一に、キリストが行った御業と私たちのための死に基づいて、すべての罪を赦し、神の国に入れるようにしてくださいます。第二に、私たちを完全な者にしてくださいます。私たちが良いものを愛するように心を変えてくださり、私たちを教え、主に従う力を御霊を通して与えてくださいます。

 マラソン大会の例を考えてみると、もし私のレースの結果に関わらず友達が賞品をゆずってくれたとしても、私が遅いランナーであることに変わりはないでしょう。しかし、イエス様と永遠の命の場合は、もっと大きな祝福があります。私たちは、自分が獲得していない賞品を受け取るだけでなく、実際にそれに値するように完全にされているのです。私たちが永遠の命にふさわしい者になると、私たちの完全さは私たち自身のものではなく、主の働きの結果であるため、キリストが賞賛され、栄光を受けることになります。

 言い換えれば、あなたが一番遅いランナーとしてレースに参加し、最下位でゴールしたのに、1位のランナーがあなたに賞品をゆずってくれただけでなく、魔法のようにあなたの体を強化して、彼と同じくらい速く走れるようにしてくれたようなものなのです。神はキリストを通して、私たちにふさわしくない報酬を与えるだけでなく、与えられる報酬にふさわしい者に変えてくださるのです。

 キリストが私たちの中でその働きを終える時、私たちはどのような者になっているでしょうか。また、キリストは私たちを完成させるために、今の私たちの生活の中でどのように働いてくださっているでしょうか?パウロは9-11節でこれらの質問を取り上げ、ピリピの人々が愛と知識と道徳的なきよさにおいて成長するように祈っています。この節でパウロは、ピリピの人々にこれらのことを自分で追求するようにとは言わず、神がこれらのことを与えてくださるようにと祈り求めています。ピリピ人への手紙の後半で、私たちも従順に召されていることがわかりますが、ここでは、パウロはまず、私たち自身の働きではなく、神の働きに焦点を当てています。まず神が働かなければ、私たちが成功することは望めないからです。

 もう少し詳しく、神の究極の計画が何であるかを見てみましょう。私たちの中でのキリストの働きの完成とは何でしょうか。

10-11節を見てみましょう。

ピリピ人への手紙1章10~11節
 10あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、11イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが表わされますように。

 

 この箇所では、ピリピ1章6節でも言及されていた「キリスト・イエスの日」について触れられています。これは、イエス様が地上に戻ってきて、生きる者と死ぬ者を裁き、地上に永遠の王国を建設する日のことで、黙示録20章11-15節に生き生きと描かれています。

 キリスト・イエスの日は、恐ろしくも素晴らしい日です。この日のことを読むと、私たちは恐れや不安を感じるかもしれません。私たちはどのように裁かれるのでしょうか。私たちは、神の国に入れるほど善良なのでしょうか?それとも、火の池に投げ捨てられるのでしょうか?その答えは、私たちの中での神様の働きにかかっています。パウロは、神様がピリピ人を完全な者にしてくださり、その日に受け入れられるようにと祈っています。

 もし神が私たちの人生の内に働き始めているのなら、その日に私たちが純粋で罪のない者として認められ、キリストの王国に入るにふさわしい者となることを確信することができます。神の働きの完成は、私たちが完全な者になることです。キリストにあって、私たちは、今は罪に苦しんでいても、いつの日か純粋で罪のない者になるという大きな希望を持っています。

 これらすべての最終的な結果は、11節にあるように、神ご自身が称賛と栄光を受けることです。これは、神がなさるすべてのことの究極の目的です。最終的に、神が私たちの人生の内になさる御業は、神の驚くべき力、信じられないほどの愛、完全な聖(きよ)さを明らかにします。私たちは、私たちの中で、私たちのために行われる神の働きに驚き、永遠に神を賛美するでしょう。

 神には、悔い改めてキリストを信仰によって信頼する者を誰でも受け入れる用意があります。へりくだって神の前に出てくる者を拒むことはありません。もし私たちが自分の人生に神様が働いてくださることを望むなら、私たちはただ祈りを通して神様にお願いすればいいのです。私たちがキリストを信じて救われたのなら、神は今、私たちを少しずつ変えて完全な者にしようと働いておられます。

 次に、このプロセスが今の私たちの生活の中でどのようなものなのかを見てみましょう。


ピリピの信徒への手紙1:9-10
 9私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、10あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、

 

 この節では、パウロの祈りによって、神様がどのように私たちを完成させてくださるのかが明らかにされています。神様がなさることは主に2つあります。第一に、私たちを特別な愛で満たしてくださいます。第二に、私たちが優れたものを見分けることができるようにしてくださいます。

 神様はどのような愛で私たちを満たしてくださるのでしょうか。パウロは、神がピリピ人の愛を、「あらゆる知識と識別力によって」ますます豊かにしてくださるようにと祈っています。このシンプルなお願いの中で、パウロは、神が私たちを満たしてくださる愛の3つの特別な側面を指摘しています。第一に、それは増大する愛です。最初は小さくても、どんどんあふれていく愛なのです。愛が成長するのです。私たちの人生における神の働きのしるしは、時が経つにつれて、神への愛がより深く純粋になり、他の人への愛もより深くなることです。私たちは自分の人生を振り返ったとき、10年前よりも今日の方が神を愛していることに気づくはずです。もしそのような愛が育っていなければ、私たちはパウロがしたように、神に祈りをささげ、そのような愛で私たちを満たしてくださるように願い、神が満たしてくださることを信じることができます。

 この愛の第二の特別な点は、知識と結びついていることです。この愛は、単に心のおもむくままに導かれる感情ではありません。それは、神の言葉を理解することによって得られる、神の知識によって導かれる愛です。真の愛は、神のみこころとご性質を反映したものです。私たちの心の中に自然に存在する愛は、多くの場合、見当違いの愛、無知な愛、利己的な愛です。しかし真の愛は、私たちに対する神の愛を理解することによってのみ得ることができるものです。愛とは何かを知るために、私たちは神を知ることに専念しなければなりません。

 この愛の3つ目の特別な点は、識別力と結びついていることです。これは、無差別な愛ではありません。すべてのものを愛する愛ではなく、良いものだけを愛する愛です。私たちには、良いものも悪いものも愛したいという自然な傾向があります。同じように、私たちはすべての人を愛するように召されていますが、その愛とは、その人のすることをすべて受け入れ、許容することではありません。人に対する真の愛は、その人にとって最善のことを望むことにつながります。この見分けることのできる愛は、パウロが祈っている2つ目のこと、「大切なことを見分けることができる」ということにつながっています。

ピリピ人への手紙1章10節
 10あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。

 

 私たちの心が神の愛で満たされている時、私たちは大切なことを見分けるように導かれます。これは何を意味しているのでしょうか?この箇所の「見分ける」という言葉は、何かを吟味して、良いと判断し、それを許可するという意味です。聖書では、誰かが何かを注意深く調べて、価値があると判断して選ぶ時によく使われます。またここでの「大切な」という言葉は、「優れた価値を持つもの」という意味です。他のすべての選択肢よりもはるかに優れているものを意味しています。

 この人生において、私たちは常に物事を評価し、価値があると判断したものを選んでいます。意識的にも無意識的にも、何が価値あるものかを判断して行動しているのです。お金が最も価値のあるものだと判断した人は、楽しみが最も価値のあるものだと判断した人よりも、仕事に一生懸命になるでしょう。家族が最も価値のあるものだと判断した女性は、子供と一緒にいるために仕事を辞めるようになるかもしれません。自分の国を一番に愛する人は、国を守るために軍隊に入るように導かれるかもしれません。

 しかし、神の愛に満たされ、知識と識別力を備えたクリスチャンは、これらのものをすべて見過ごします。それらは価値があるかもしれませんが、イエス・キリストが与えてくださるすべての祝福に比べれば、はるかに価値の低いものだからです。神の愛に満たされているクリスチャンは、神の言葉に引き込まれて、神が誰であるか、神がどのような方であるか、そして神が喜ばれることは何かを学びます。これは、神によって完成されつつあるクリスチャンのパターンです。完成の途上にあるクリスチャンは、キリストと他の人への愛を深めていきます。真理を追求し、神のことを正確に知るようになります。また、善と悪を見分けることを学び、最も大切なものを選ぶようになります。このように神と共に生き、神の霊に導かれ、神の御業を人生の中で受け取ることで、最終的に神は私たちを完全な者としてくださり、私たちは裁きの日に、罪のない者としてキリストの前に立つことができるのです。

 私たちはキリストを通して、神が私たちを完全にすることを失敗しないことを知り、その事実に自信を持つことができることのために、神を賛美しましょう。神が私たちを神の愛で満たしてくださり、最も大切なものを見分けることを教えてくださるように祈りましょう。私たちはこの大きな希望に平安を見出す時、たとえ不安な状況の中にあっても、真の平安と喜びを見出すことができるのです。