神の存在の証し

ローマ1:19-20

ロビソン・デイヴィッド
2021年07月18日

 

 私たちの礼拝では、神様が私たちにどのような生き方を望んでおられるのか、神様が何をしてくださったのか、神様はどのような方なのか、ということについてよく話します。これらのことは、私たちのために書かれた神の言葉であると信じている聖書から学びます。しかし、これらはすべて、神様が存在し、聖書が語っている神様についての事が真実であることを前提としています。では、神様の存在自体をどうやって確かめることができるのでしょうか?これは難しい問題です。神様の存在を絶対的に証明できる人はいないと思います。神について語るとき、そこには常に信仰の要素が含まれます。私はこれまでの人生の中で聖書を学び、神の存在について考えてきた中で、聖書は、唯一で真(まこと)のすべての力を持つ神が存在するという、非常に強い証拠を提示していると信じています。今日は、神様が存在し、聖書が神様がどのような方であるかを正確に私たちに示していることの、強い証拠となる3つの事柄についてお話したいと思います。

 

1. 神の存在を示す第一の証拠は、世界そのものの存在です。

ローマ1:19-20
 19神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

 

 聖書によると、私たちが住んでいる自然界そのものが、神様が存在している証拠です。私たちが住んでいる世界は、その複雑さと秩序において驚くべきものです。人類の歴史の中で、宇宙は何か超自然的な起源を持っているに違いないと考えられてきました。しかし、この200年ほどの間に科学の知識が増えたことで、多くの人が、神の助けを借りずにこの世界が生じたのではないかと考えるようになりました。しかし私は、この宇宙の複雑さを深く理解すればするほど、この宇宙は生命を維持するために複雑に設計されていると考えるようになりました。宇宙が設計されたということは、設計者がいるはずです。

 この世界が設計されたという証拠は、自然科学のあらゆる分野で発見されています。科学は、宇宙が従っている多くの自然法則を発見しましたが、これらの法則の存在自体に多くの疑問があります。なぜ惑星や星は衝突しないのか。地球が少しでも太陽に近づけば、人間は燃え尽きてしまい、少しでも遠くなると凍ってしまう。雨が降って地面に水を与え、植物が育つのはなぜか。生命の誕生に必要な情報がすべてDNAにコード化されているとしたら、そのDNAが書かれているコードを書いたのは誰なのか?大昔にビッグバンで宇宙全体が始まったとしたら、何が原因で宇宙が存在するようになったのか?このような根本的な疑問は、私たちが生きている世界の背後に設計者がいるはずだということを示唆しています。聖書は、神がその設計者であり、創造された世界を検証することで、神がどのような方であるかを理解することができると教えています。

 宇宙の広さは、神が無限の力を持っていることを物語っています。宇宙と生命の複雑さは、神が無限の知識を持っておられることを物語っています。太陽・月・星の美しさは、神が限りなく栄光に満ちたお方であることを物語っています。

 聖書によれば、私たちが周りの世界を観察する時、それを作った神の存在の証拠を見ることになり、神について多くのことを学ぶことができます。

 

2. イエス・キリストの復活

 聖書には、奇跡的な出来事や超自然的な出来事が数多く記されています。しかし、キリスト教の信仰の中心となる出来事があります。それが、イエス様の復活です。もし、イエス様が死からよみがえらなかったら、キリスト教は偽物だと言えるでしょう。しかし、もしイエス様が本当に死からよみがえったのであれば、キリスト教、そして神についての主張がすべて真実である証拠になると思います。ですから、聖書がイエス様の復活を歴史的事実としているのは驚くべきことではありません。

第一コリント人への手紙15:3-8
 3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、5また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。6その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。7その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。8そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

 

 新約聖書はイエス・キリストの信者によって書かれており、イエス様の死後、生きているイエス様を見たと主張する多くの人たちの記録が含まれています。彼らの証言は信頼できるのでしょうか?ほとんどの歴史家は、イエスの死にまつわる次のような出来事が、歴史的な記録として残っていることに同意しています。

 イエス様はローマ人によって十字架にかけられ、殺されたこと。イエス様の体はアリマタヤのヨセフという人の墓に納められたこと。イエスの弟子たちが、イエスの死の3日後に生きているイエスを見たと主張し、イエスが肉体的に天に昇ったと主張したこと。イエスの敵は誰も、弟子たちの主張に反論するためにイエスの遺体を示すことができなかったこと。イエスの敵であるユダヤ人とローマ人は、イエスに従う者たちを厳しく迫害し、彼らの信仰を捨てさせようとしたが、誰もそうしなかったこと。イエスの弟子たちの多くが、イエスが生きていて、礼拝されるべき主(しゅ)であると主張し続けたために殺されたこと。これらのことが歴史的事実であることは、ほぼ同意されています。私たちが問わなければならないのは、では、弟子たちがイエス様の復活について真実を語っていたかどうかということです。

 もし、弟子たちが復活したイエスを見たのが事実でなかったのなら、少なくとも一人は、死の恐怖に直面して嘘をついたことを認めたはずです。イスラエルやローマの指導者たちが、イエス様の復活の話を封じ込めようと必死になっていたのなら、なぜ誰もイエス様の遺体を見つけて証拠として示すことができなかったのでしょうか。

 私にとって、これらの歴史的事実を説明する最も有力な説は、イエス様が実際に死からよみがえったということです。もしイエス様が死んでよみがえったことが本当なら、神様についてのイエス様の教えも真実だということになるのです。

 

3. 個人的な経験

 神の存在を示す3つ目の証拠は、神に従う人々の個人的な経験です。現代のクリスチャンは、友人や家族との関係と同じように、神様との関係を持っています。私たちは神様に祈り、悩みを打ち明けます。私たちは、神様から慰めや喜び、平安などの贈り物を受け取り、歌を通して称賛と感謝の気持ちを表します。私たちは、聖書に書かれている神の言葉を通して、神の語りかけを聞きます。私たちが神の教えに従い、神の約束を信頼するとき、神が私たちの祈りに答え、人生を導いてくださるのを見ますが、それはしばしば驚くべき方法で行われます。

 私は幼い頃にクリスチャンになりましたが、年齢を重ねるごとに、神様が存在し、私と一緒にいてくださり、人生を導いてくださっていると確信するようになりました。 私の人生に大きな影響を与えた聖書の一節は、マタイ6:31-33です。「31ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」

 私は25歳の時、神様が私に宣教師になってほしいと思っていると感じ始めました。しかしその選択をすれば、経済的な安定性がなく、常にお金のことを気にする人生になるだろうと思いました。自分が本当に望んでいるようなキャリアも築けないだろうと思っていました。また、そんな生活をしたいと思う女性はいないだろうから、結婚もできないだろうし、家族も持てないかもしれないと思っていました。

 しかし、祈りと神への信仰によって、この箇所でのイエスの言葉は真実であり、神の国を求めるならば、その他の心配事はすべて神が解決してくれると信じることにしたのです。そして、この15年間、私はイエスの言葉の真実を自分の人生の中で繰り返し見てきました。私はお金持ちではありませんが、貧しいと思ったこともありません。私が宣教師として日本に来たことは、私と妻を結びつけるきっかけとなりました。若い頃には自分では選ばなかったような仕事をしていますが、喜びと充実感に満ちた生活を送っています。神様は、私と私の家族が神様に仕える幸せな人生を送るために必要なものをすべて忠実に与えてくださいました。

 私にとって、神の存在を信じる理由はたくさんありますが、最も説得力があるのは、毎日の生活の中で神の存在を感じていることです。これまでの人生でいつもそう感じていたわけではありませんが、信仰と信頼と従順を通して、神様は日に日に私にご自身を現してくださっていると信じています。

 

 今日お話しした3つの理由から、私たちは神の存在を確信することができると信じています。他にもあると思いますが、この3つのことが、信仰や祈り、そして聖書を読むことを通して、みなさんが神を信頼し、神を知ろうとする励みになることを願っています。