苦しみの中で喜ぶことなどできるのか

ピリピ人への手紙1章12-18節

ロビソン・デイヴィッド
2021年07月25日

ピリピ人への手紙1:12-18

 12さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。13私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。15人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。16ある人達は、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、17他の人たちは党派心からキリストを宣べ伝ており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。18しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです、これからも喜ぶでしょう。

 

 クリスチャンとして、私たちはよく「すべてのことに感謝し、喜びなさい」と言います。しかし、困難な状況に置かれている時には、本当の喜びを感じることができるとは思えません。私達はみな、大変な状況に圧倒されたり、無力感に襲われたりしたことがあると思います。誰かに利用されているのではないか、危害を加えられるのではないかなどと感じたこともあるかもしれません。このような状況では、恐怖や怒り、落ち込みなどの感情に支配されがちです。「苦しんでいる時こそ喜びなさい」と言われると、共感を得られていないように感じてしまうかもしれません。苦しい時に、喜びを感じることなど本当にできるのでしょうか。喜びを感じることができるとしたら、具体的にはどのようにすればよいのでしょうか。

 今日は、パウロが人生の中で2つの非常に困難な試練に直面していましたが、その両方の試練の中で、希望を持ち続けるだけでなく、純粋に喜びを感じる方法を見つけたことを見ていきます。

 パウロが直面した最初の試練は、無実の罪で軟禁されていたことです。パウロは、ローマへの反乱を扇動したという濡れ衣を着せられていました。軟禁されている間、パウロは自分で借りた家に住むことができましたが、ローマ兵に24時間鎖でつながれていました。そのため、パウロにはプライバシーが全くありませんでした。友人との会話も、トイレや寝る時も、すべてローマ兵の目の前で行われていました。パウロはゲストを迎えることは許されていましたが、家から出ることはできませんでした。このような生活を2年間強いられ、死刑になるかもしれない罪の裁判を待つことになったのです。

 パウロが直面した2つ目の苦難は、他のクリスチャンからの攻撃でした。どのような状況だったのか正確にはわかりませんが、コリント人への手紙を読むと、初代教会には派閥があったことがわかります。ある信者は、ある教師を贔屓にし、気に入らない教師の悪口を言っていました。投獄されていたパウロにもそのようなことがあったのだと想像できます。

 

ピリピ人への手紙1:15,17
 15人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。16ある人達は、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、17他の人たちは党派心からキリストを宣べ伝ており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。

 

 教会の中にパウロを憎んでいる教師がいて、自分のところに信者を集めようとしていたようです。パウロが投獄されたことで、彼らはパウロがクリスチャンの悪い手本になっていると非難しやすくなったでしょう。あるいは、パウロが何か罪を犯して神に罰せられているのではないかと言い出したかもしれません。パウロは、キリストにある兄弟姉妹であるはずのこれらの人々が、かえって牢獄にいる彼を苦しめようとしていたことを指摘しています。最も悪いのは、彼らが福音を伝えることを武器にして、パウロを苦しめようとしたことです。彼らは、改宗者を獲得することで、自分たちがパウロよりも優れていることを示し、改宗者にパウロの悪口を言えることを期待していたのです。パウロにとって、この苦難は投獄以上に辛いものだったのではないでしょうか。

 パウロは無実の罪で投獄され、自分を守るべきはずの人たちに攻撃されていました。このような状況に置かれたら、神からも友人からも見捨てられたと感じるのは容易なことでしょう。恐怖や怒りに負けて、幸せになる希望を失ってしまうこともあるでしょう。しかし、この箇所のパウロの言葉を読むと、彼は全くそのような気持ちではなかったことがわかります。それどころか、彼はこの状況を見て、喜びに満ちていたのです。これは一体どういうことなのでしょうか?パウロは気が狂ってしまったのでしょうか?そうではないと思います。彼のこの時の考え方を見てみましょう。

 

12節を見てください。

ピリピ人への手紙 1:12
12さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。

 12節の最後に、パウロは 「知ってほしいのです。」というフレーズを使っています。パウロは、自分の言っていることが本当であることを強調しているのです。彼は、絶望的な状況について、無理に前向きに話そうとしているのではありません。この節でパウロが言っていることは、彼が純粋に、深く、心から信じていることなのです。それは、彼に起こっているすべてのことによって、福音が前進しているということでした。困難の中にいる時、私たちはしばしば自分自身に目を向け、自分がその状況でどのような影響を受けているかを考えたくなります。しかし、パウロは自分のことではなく、自分の状況に神の計画がどのように展開しているかに注目しています。

 パウロが2年間鎖につながれている間、ローマ兵が24時間付き添い、彼の言葉をすべて聞いていました。パウロのような人間に何時間も鎖でつながれていた結果、何が起こったでしょうか。その結果、看守は常に福音が説かれるのを聞くことになったのです。パウロの家に信者が集まって彼の教えを聞いている時、監視のローマ兵は強制的に聞かされていました。みんなが帰って、夜になって落ち着いた時も、ローマ兵は残って、パウロが教えたことについて話す機会がありました。その結果、ローマ皇帝の衛兵の多くが福音を聞き、キリストの愛を理解するようになったのです。パウロが投獄されているのは、彼が深く信じていることのためだったのだとわかったのです。パウロの証しによって、福音はローマ兵の間だけでなく、ローマ社会の上流階級にも広がっていったと思われます。ピリピ人への手紙4:22のパウロの最後の挨拶を見てください。

 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。

 カエサルの家族の間でも、神は人々を救いに導いていたことが分かります。パウロは、自分の投獄すらも用いて、神がローマの多くの人々を救いに導いているのを見て、大きな喜びに包まれました。しかし、パウロが投獄の中で得た喜びは、これだけではありませんでした。

 

ピリピ人への手紙1:14
 14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。

 

 パウロの投獄は、ローマの信者たちを落胆させる大きな要因となったことでしょう。自分達も逮捕されるのではないかという不安から、沈黙してしまう可能性もありました。しかし実際には、その逆のことが起こりました。パウロが投獄された結果、福音がローマ社会に広がっていくのを見て、ローマの信者たちはこの状況の中でも神が働いておられることを知りました。パウロが負けたのではなく、パウロが投獄されたことによって神がご自分の計画を達成するために働かれていることを知った時、彼らは投獄を恐れる必要がないことを悟り始めたのです。

 パウロは、自分が投獄されたおかげで、ローマの信者たちが以前にも増して大胆に福音を宣べ伝えていることを知り、普段は決してできないような人々に福音を宣べ伝える新たな機会を得ました。これは神の働きであり、神が力強く働かれていることが、パウロにははっきりとわかったのです。

 しかし、教会の中にいる敵は、自分勝手に福音を伝え、投獄されている彼を苦しめようとしていました。このような状況では、喜ぶべきことは何もないように思えます。しかし、ここでもパウロは喜びました。

ピリピ人への手紙 1:17-18
 17他の人たちは党派心からキリストを宣べ伝ており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。18しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです、これからも喜ぶでしょう。

 

 私たちが注意して理解しなければならないのは、これらのパウロの敵は、人々を純粋なキリスト教の教義から遠ざけようとする偽(にせ)教師ではなかったということです。彼らは、イエス・キリストへの信仰による救いという真の福音を説いていたのです。しかし、彼らは真理を、誤った動機で説いていました。彼らの心は、ねたみ、利己的な野心、争いで満たされていましたが、それでも神は彼らを通してご自身の福音を広めておられました。皮肉なことですが、パウロを苦しめようとする熱心さの中で、彼らは懸命に福音を伝えました。彼らの動機は罪に駆られたものでしたが、神は彼らの罪深い動機を通しても、より多くの人々を救いに導くために働かれたのです。パウロは、このような妬みに満ちた、利己的で悪意のある福音伝道者たちに怒り、傷ついたに違いありませんが、福音がさらに広がっていくこと自体については喜びました。

 どうしてパウロは、自分の悲惨な状況をこんな風に信じられないほど前向きにとらえることができたのでしょうか。私たちも、困難な状況に直面した時、喜びを見出すことができるのでしょうか。パウロの例から学ぶことができるのは、人生の最も厳しい状況においても喜びに向かうための4つのことだと思います。

 

1. パウロは、自分の視点ではなく、神様の視点で物事を見ていた。

 もしパウロが自分の状況を見て、自分が今どこにいて、何を経験しているかを考えていたら、状況はひどいものに思えたでしょう。自分に起こっていることに喜びを見出すことは非常に困難だったでしょう。しかし、パウロは神がなさっていることに集中していました。パウロは、自分の置かれている状況は不愉快であっても、その結果驚くべきことが起こっていることに気づきました。パウロは、自分の苦しみではなく、神様がなさっている素晴らしいことに目を向けていたので、喜びに満ちていたのです。パウロは、自分の苦しみを母親の出産のように捉えていたかもしれません。自分の苦しみを通して、多くの人が永遠のいのちに生まれ変わっていく。その結果、本当の意味での純粋な喜びは、パウロ自身が見つけたどんな喜びよりも大きかったのです。

 人生の最大の不安要因は、自分の計画が脅かされ、自分の望みが満たされないと感じることです。しかし、神様の計画や願いは決して失敗することがありません。だからこそ、もし私たちの喜びが神の計画の成功に結びついているなら、人生で何が起こっても、喜びに満たされることができるのです。

 

2. パウロは積極的に神のご計画を追求した

 パウロは、自分が直面している問題について思い悩んだり、その解決方法を必死に探したりするのではなく、神様の働きを従順に遂行することに完全に身を捧げることを選びました。彼は監視のローマ兵たちに福音を伝えました。自分の家に信者を集めて励まし、伝道者として送り出しました。投獄される前に設立した教会に手紙を書きました。同じように、私たちも苦しい状況にあっても、神様に仕え、神様の計画に貢献する方法を探し、神様の計画が実現するのを見ることに喜びを感じることができるのです。

 

3.  パウロは、友人に感謝し、敵には忍耐を示した。

 パウロには、投獄された彼を苦しめようとする敵がいましたが、一方で彼を愛し、彼を励まそうとする多くの良きクリスチャンの友人もいました。そしてパウロは、敵から喜びを奪われるのではなく、友人の優しさや愛に目を向け、神に感謝しました。敵のことを考える時は、恵みと赦しの態度をとるようにしました。敵が自分にしようとしている悪に思いを馳せるのではなく、神が彼らを通して働かれている善に目を向けたのです。

 

4. パウロは喜ぶことを選んだ。

18節を見てください。
 18しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです、これからも喜ぶでしょう。

 

 パウロは、神様がなさっているすべてのことを喜んでいると述べています。しかし、彼はさらに一歩進んで、これからも喜び続けると断言しています。これは、パウロが選択していることです。喜びは、私達が自然にしていれば勝手に流れてくるものではありません。彼は喜びを追い求めたのです。喜びにしがみついていたのです。喜びを選んだのです。パウロが直面しているすべての困難の中で、サタンはあらゆる策を使ってパウロの喜びを奪おうとしていました。しかし、パウロはサタンに耳を傾けるのではなく、キリストを喜ぶことを選んだのです。私たちも同じように、キリストにある喜びを選ぶ努力をしなければなりません。怒り、絶望、恐れを拒絶することを選ばなければなりません。自分の苦しみから目を上げて、代わりに神がどのように働いているかに目を向ける努力が必要です。苦しみから逃れようとするのではなく、苦しみの中で神に仕えようとすることが必要です。敵を赦し、友人の愛、そして私たちに対する神の愛を喜ぶには、意識的な努力が必要なのです。

 パウロのように、私たちも試練を直視し、「それでも、私は喜ぶ 」と言う者になることができます。

 そのような喜びは、キリストからしか得られません。キリストによってのみ、私たちは神の約束と希望を受け取ることができるのです。キリストが私たちを神の前に連れてきてくださり、ご自分のものとしてくださるからこそ、私たちは神の働きに喜びを感じ、その一部とされるのです。キリストがいなければ、私たちは自分自身であり、罪深い反逆者であり、宇宙の全権を持つ創造主の敵です。キリストがいなければ、私たちの状況は本当に絶望的です。しかし、キリストと、キリストがもたらす救いによって、私たちは決して奪われることのない喜びを与えられました。キリストによって、神は私たちを滅ぼそうとする敵ではなく、私たちの父であり、その力と権威によって私たちを守り、救い、引き上げてくださいます。しばらくの間、苦しみや辛さに耐えることを求められるかもしれませんが、そのような苦しみの中にあっても、それが一時的なものであることを知って、大きな喜びと希望を与えてくださいます。私たちの苦しみを通して、主は驚くべきことをなさるかもしれません。そして、最後には、私たちはキリストと共に天国で永遠の喜びに引き上げられるのです。