ひと月ほど前、東京に住む弟とその家族を訪ねる機会がありました。その際、甥っ子の野球の試合を見に行きました。甥っ子は引っ越してきたばかりで、友達も少なかったようですが、チームに入るとすぐに多くの友人ができ、野球への愛と、強いチームになるという目標のために、彼らは団結しました。彼らのプレーを見ていると、お互いに強い絆で結ばれていて、一緒にプレーすることを楽しんでいるのが伝わってきました。
皆さんにも、そんな仲間がいたことがあるでしょうか?同じ目標を共有し、それを達成するためにお互いに助け合おうとしている人たちと一緒にいる時、また一体となって動いている時には、特別なエネルギーと喜びがあります。私たちが毎週日曜日の礼拝に集まる時にも、そのような気持ちになることを願っています。そして、共に礼拝している神様に対して、またお互いに対して、より強い一体感と献身が育っていくことを願っています。
今日見ている箇所で、パウロは教会内の一致ということに焦点を当てています。パウロは、私たちが一致するための適切な動機を示し、一致するとはどういうことかを明確に説明し、それを達成するための方法を教えています。
また、この箇所では、真の一致がキリストから来ることがわかります。
一致は、私たちがキリストから受けた大きな祝福を理解して大事にすることから始まり、キリストと同じ考え方を持つこと、と定義されます。そしてそれは、キリストの模範に従うことによって達成されるのです。
今日は、クリスチャンの一致について3つのポイントを見てみましょう。
1. クリスチャンが一致を求めるのは、キリストの賜物を受けたからである。
2. クリスチャンの一致の定義は、キリストの思いである
3. クリスチャンの一致を達成する方法は、キリストの模範に従うことである。
1. クリスチャンが一致を求めるのは、キリストの賜物を受けたから
まず、2章1節に、クリスチャンの一致の動機について書かれています。私たちが一致を求めるのは、私たちがキリストから素晴らしい賜物を受けたからです。
ピリピ人への手紙 2章1節
「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」
パウロは、もし私たちがキリストによってこれらのことを経験したなら、一致を達成するために努力しなければならないと言っています。パウロはここで、キリストがご自分を信じる者に与える4つのものをあげています。これらは、キリストに心から従うすべての人に与えられるものです。
第一に、私たちはキリストから励ましを受けます。ここで言われている励ましは、キリストが私たちに正しいことや、良いことをするように励ましてくださるということです。キリストは、困難な状況の中で私たちが何をすべきなのか、導きと知恵を与えてくださいます。また、私たちが迷ったり、落ち込んだりするときには、忍耐して主に従い続けるように励ましてくださいます。
第二に、私たちはキリストの愛から慰めを受けます。キリストにあって、私たちは他のすべてのものを超える大きな愛を知るようになります。キリストは、私たちを救うために、私たちのところに来られ、私たちと共に、また私たちのために苦しんでくださることによって、この愛を示してくださいました。キリストの愛を思い出させ、苦しみの中で私たちに慰めを与えてくださる聖霊を通して、この愛は絶えず私たちに注がれています。
第三に、私たちは聖霊にあずかります。すべてのクリスチャンは聖霊を受けており、これは神様からの最も貴重な贈り物です。聖霊を通して、神様ご自身が私たちの心に住まわれ、私たちのそばにいて、導いてくださるのです。聖霊がすべてのクリスチャンに与えられており、私たち全員がこの同じ聖霊を共有しているという事実は、私たちを一致に引き寄せます。私たちは、同じ天の父を共有する兄弟姉妹となったのです。聖霊による神様との交わりは、他のクリスチャンとの交わりにつながります。
最後に、私たちはキリストから愛情とあわれみを受けています。キリストは、私たちが苦しんでいるのを見て、また私たちの傷や失敗を見て、私たちに同情し、私たちを慰め、私たちを救うために近づいてくださるのです。
これらは、すべてのクリスチャンが受けている素晴らしい賜物です。そして、これらの賜物は、私たちが他のクリスチャンとの一致を求める動機の基礎となります。これらの賜物を私たちに与えてくださるキリストは、私たちを他のクリスチャンとの一致に導きたいと願っておられます。そして、それぞれの教会が一致を経験し、そのような関係がもたらす喜びと調和を得ることを願っておられます。もし私たちがキリストからこのような素晴らしい贈り物を受けたのなら、私たちはキリストに従い、キリストが私たちに呼びかけているような一致を達成するために努力すべきです。
すぐに分かることは、キリストが求めているような一致を実現するためには、私たちは他のクリスチャンに対して完全に謙虚にならなければならないということです。そのためには、キリストの大きな愛を完全に信じることがより重要になります。キリストの愛に完全に信頼してこそ、人に利用されることを恐れずに、人の前で完全にへりくだることができるのです。
2. クリスチャンの一致の定義は、キリストの思い
次に2節では、クリスチャンの一致とは何かについての定義が書かれています。
ピリピ人への手紙2章2節
「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」
パウロは、「同じ思いとなること」、「同じ愛の心を持つこと」、「心を合わせること」、「思いを一つにすること」という4つの言葉で一致を定義しています。このうち3つは私たちの心、つまり考え方に関係しており、もう一つは愛し方に関係しています。
クリスチャンの一致の大きな特徴の一つは、教会にいるクリスチャンが皆、同じように考えるようになることです。それは、常に全く同じ考えを持つということではなく、考え方がキリストの影響を受けて、全員がキリストと同じ考え方をするようになるということです。
またパウロは、私たちは同じ思いを持たなければならないと言っています。これは、同じように考えるということです。同じように考えるとは、すべてのことに同意するということで、一つの考え方をみんなで共有するということです。私たちが持つべき思いは、パウロが5節で言っているように、キリストの心です。
ピリピ人への手紙2章5節
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」
私たちは、キリストが考えるのと同じように考えるべきなのです。聖書の中で、キリストはその教えを通して私たちにみこころを明らかにしてくださいました。
神のみことばを学ぶとき、私たちはキリストの心を理解するようになり、キリストの考え方に倣って自分の考え方を形作り、パターン化することを学びます。この箇所では、キリストがどのように考えておられるのか、非常に具体的な例を見ることができます。
しかし、キリストの下で統一されなければならないのは、私たちの考え方だけではなく、私たちの愛し方も一致しなければなりません。私たちは、キリストが私たちを愛してくださったのと同じように、互いに愛し合わなければならないのです。つまり、同胞であるクリスチャンの兄弟姉妹を助けるためには、犠牲や苦しみもいとわないほどの深い配慮と関心を持たなければならない、ということです。これこそが、キリストが私たちに示してくださった愛であり、私たちが同じように人を愛する力を持つために、今も豊かに示してくださっているものです。
ここまで見てきたように、一致は、クリスチャンがキリストと同じ心と愛を持つことで実現します。
3. クリスチャンの一致を達成する方法は、キリストの模範に従うこと
では、この一致がどのようにして達成されるのかをもっと具体的に見てみましょう。どうすればキリストと同じ心を持つことができるのでしょうか。
ピリピ人への手紙 2章3-4節
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」
クリスチャンの一致を達成する鍵は、私たちが謙虚な心を持つことです。3節で「へりくだって」と訳されている言葉は、「謙虚な思いを持つ」という意味のギリシャ語から来ています。私たちは「謙虚」という言葉を聞くと、ポジティブなイメージでとらえると思います。「謙虚」は美徳です。しかし実は、この箇所で使われているもともとの言葉は、自分を奴隷のように考えたり、自分が人よりも劣っていると考えるといった、自己卑下的な意味合いを持つことが多い言葉です。自分が周りより劣っていると考える態度は、非常にネガティブな考え方と言えます。しかし、キリストはパウロを通して、そのような考え方が真の偉大さにつながると教えているのです。
パウロは、他人を自分よりも重要な存在と思わなければならないと教えています。これは、6節にある、キリストのご自身に対する見方とつながっています。
ピリピ人への手紙2章6節
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、」
キリストは、神としてのあり方を手放せないものとはみなしませんでした。ここで「考えず」と訳されている言葉は、3節でパウロが、「人を自分よりすぐれた者と思いなさい」と言っている箇所の「思う」と同じ言葉です。
事実、キリストは神との完全な対等性を持っていました。三位一体の第二位格である子なる神として、キリストは神と完全に等しいのです。しかし、キリストの心は、その平等は、父に従い、父の目的を実現するために喜んで脇に置くものと考えられたのです。
私たちにも、教会の一致を実現するために、同じようなことを求められています。教会の中でも、社会的な地位の高い人・低い人、収入がより高い人・低い人、年長者と若者や子供、クリスチャン歴の長い人・短い人、といった様々な違いがあるかもしれません。しかし、私たちは心の中でそのようなことを脇に置き、世の人とは違う考え方をし、行動しなければなりません。現実には、キリストにあって私たちはみな平等です。しかし私たちは一人一人、心の中では、自分は他の人のしもべで、他の人は目上の存在だ、と考えるべきです。自分の役割は他の人の必要を満たすことであると考えるべきなのです。4節でパウロが教えているのは、私たちが自分の必要だけでなく、他の人の必要にも目を向けなければならないということです。
これは、8節にあるキリストの模範と平行しています。
ピリピ人への手紙2章8節
「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」
キリストは神に等しい方でしたが、ご自分を父の前にへりくだらせ、本来、神のしもべとして造られた人間の姿を取られました。人として神のみこころに完全に服従し、屈辱的で苦痛に満ちた十字架の死を受けるまで従われたのです。
それだけでなく、キリストはさらにご自分をへりくだらせ、父に完全に仕えるだけでなく、自分の弟子たちにさえ仕えました。
ヨハネの福音書13章12~14節
「イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」
キリストは、実はこれよりもさらに一歩進んで、私たちの命を救うためにご自分の命を犠牲にされました。ご自分をすべてのクリスチャンのしもべとされたと言えます。神であるご自分の命は、私たちの命よりも限りなく純粋で貴重で価値のあるものなのにもかかわらず、そのようには考えず、私たちすべてを救うためにその命を捧げてくださったのです。
これが、キリストが望んでおられるような一致を実現するために必要な心です。私たち一人一人が、キリストの心を持つように召されています。自分が他の人よりも上だとは思わず、仕える者の心を持つ謙虚な心です。パウロがローマ人への手紙12章10節で述べているように、教会にいるすべてのクリスチャンがこのような心を持っているなら、私たちは救い主と同じ心を持つようになったと言えるでしょう。そして、この謙遜には栄光が伴います。9節で、私たちはキリストのへりくだりの結果を見ることができます。
ピリピ人への手紙2章9節
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」
キリストは神の前にへりくだりましたが、その結果、神はキリストを最高の特権と栄誉のある場所に引き上げられました。キリストは今、すべての被造物の上におられ、再び神と同等の存在として高められ、尊ばれ、神の右に君臨されています。そして同様に、キリストと同じ心を持ち、教会の中で完全な一致と愛を目指して努力するすべての人は、キリストによって高められ、尊ばれるのです。キリストは、これが真の偉大さへの道であると教えられました。
マルコの福音書9章35節
「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。』」
私たちはクリスチャンとして、すべての利己主義や、他の人より上に立とうとする考えを捨てなければなりません。その代わりに、キリストがこの世にいた時に持っておられたのと同じ心を持つように努めましょう。すべての人が互いに仕えていれば、すべての人が高められ、尊ばれます。一人が仕え、もう一人が他の人の上に立つならば、キリストご自身が、仕える人を高めて尊び、自分を人の上に置く人を低くしてくださいます。このように、キリストにあっては、人に仕えることに危険や恐れはなく、報酬と栄誉だけがあるのです。
私たちが皆、キリストの心を持つようになればなるほど、喜びと平和と調和に満ちた一体感を共有するようになります。
私たちは、共に生き、共に働くことを喜びます。そしてキリストが私たちの中で、また私たちを通して、ご自身の目的を達成されるのを見て、私たちの救いの現実に、希望を持って進んでいくのです。