ピリピ人への手紙2章5~11節
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
神様はどのようなお方なのでしょうか。私たちが悪いことをしたら罰を下す、おそろしい裁判官のような方でしょうか?それとも、私たちに贈り物をくれる、愛情深い父親のような存在なのでしょうか?
今日、私たちが見ている箇所では、神様のご性質について深い洞察が記されています。ここに、神様についての驚くべき真実が明らかにされています。この箇所で私たちは、イエス様が天を離れて人となり、大きな苦しみと恥に耐えるために、へりくだってご自身を捧げられたことを知ります。愛のゆえに屈辱を受けるこの行為は、私たちがいかに神様への義務を果たせなかったかを明らかにすると同時に、私たちの完全な失敗にもかかわらず、神様の私たちへの愛が信じられないほど深いものであることを示しています。
この箇所は、初期のキリスト教徒がイエス・キリストについて信じ、真実であると告白したことを まとめたもの で、キリスト教の中心的な教義の一つです。しかし、これらの節の意味を理解するためには、まず、神様とそのご性質についての聖書の他の教えを確認する必要があります。
聖書は、唯一の神が存在していること、そしてその神が永遠なる存在で、他の何かに創造された者ではなく、存在するすべてのものを創造されたと教えています。したがって、存在するすべてのものは、創造する者と創造された者という、2つのカテゴリーに分けることができます。創造する者のカテゴリーには神、そして創造された者のカテゴリーには、他のすべてのものが入ります。
イザヤ書46章9節で、神様はこう宣言しています。「わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」
聖書は、私たちが「神」と呼ぶ唯一の存在が、物理的な宇宙や霊的な領域を含むすべてのものの創造主であると教えています。神様は、地球、太陽、月、星を創造されました。すべての植物、すべての動物、すべての人間を創造されました。天国と地獄を創造され、天使と呼ばれる霊を創造されました。また、神様がお造りになった天使の中には、神様に反抗して、私たちが悪魔と呼ぶ悪霊になった者もいます。しかし、天使も悪魔も、すべての霊は神様とは別のカテゴリーに属しています。彼らは神によって創造されたものであり、力、栄光、権威において神様に並ぶことはできません。
聖書は、神様のような存在は他にないと教えています。一つのカテゴリーには、力、知識、栄光において無限であり、万物の永遠の源である神様がおられます。もう1つのカテゴリーには、人間、動物、天使、悪魔などの他のすべての存在があります。これらの存在はすべて神とは別の存在であり、神とは違って力に限界があり、知識も不完全で、栄光もなく、神によって創造されたため、その存在を神に依存しています。
このような理由から、聖書は、唯一の神 のみ が礼拝に値すると教えており、神を礼拝することは被造物の義務であるとしています。イザヤ書48章11節では、神様は「わたしの栄光を他の者に与えはしない」と言っておられます。また、詩篇148篇2節では、「主をほめたたえよ、すべての御使いよ。主をほめたたえよ、主の万軍よ」とあり、10-13節にはこうあります。
「獣よすべての家畜よ。這うものよ翼のある鳥よ。地の王たちよすべての国民よ。君主たちよ地をさばくすべての者たちよ。若い男よ若い女よ。年老いた者と幼い者よ。主の御名をほめたたえよ。主の御名だけがあがめられる。その威光が地と天の上で。」
言い換えれば、すべての人類、そして神様が創造されたすべての霊は、神様の栄光を見、神様を喜び、神様を礼拝するために造られたのです。霊的なものであれ、物理的なものであれ、存在するすべてのものは、それを創造した唯一の神に敬意を表し、栄光をもたらすために存在しているのです。神様は礼拝に値する唯一の存在であり、他のすべての存在は神を礼拝する義務があります。神様はすべての被造物から独立しており、神と同等の存在は一つもありません。
このことを覚えておかないと、今日の箇所でイエス様が別の神であるとか、劣った神であるとかいう間違った印象を受けてしまうかもしれません。しかし、それでは、聖書が神様について教えていることや、キリスト教徒が昔から神様について固く信じてきたことと矛盾してしまいます。そのことを念頭に置いて、あらためて今日の箇所を見ていきましょう。
ピリピ人への手紙2章5節と7節を見てみましょう。
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、」
この節では、イエス・キリストのことが語られており、その真の姿が明らかにされています。私たちは、イエス様が「神の姿をしていた」ことを知ります。この「姿」という原語のギリシャ語は、訳すのがやや難しい言葉です。この言葉には、形が似ているという意味だけではなく、本質や性質という意味も含まれています。別の言い方をすれば、イエス様は本質的に神であり、神の本質を持っていたということを表わす表現です。さきほど、神様について復習したことを考えると、人間であるイエス様についてこのような言葉が使われたのは驚くべきことだと思います。
イエス様が唯一の神の本質と性質を持つことができるのは、イエス様が唯一の神ご自身であられる場合だけです。このことは、イエス様が「神としてのあり方を捨てられないとは考えず」と書いてあることからも分かります。日本語で「あり方」と訳されているこの言葉には、「平等 」という意味もあります。つまりイエス様は、神であること、あるいは神との平等という状態を持っていたのにも関わらず、それを捨てたというのです。すでに学んだように、神と同等の存在は存在しません。神と呼べる存在は唯一であり、神と同等の存在は他に何一つないのです。したがって、イエス様が神様と同等であるならば、イエスは神様だ、ということになるのです。これが、この節を読んだ最初のキリスト教徒にとっての明確な理解であったと思われます。
この節の一部から、キリスト教の三位一体の教義の根拠が見えてきます。キリスト教徒は、神は唯一の存在であるが、父、子、聖霊の三位一体で存在していると信じています。この三者は完全に一体化した存在でありながら、互いに関係し合い、それぞれが様々な役割や責任を負っています。これは、私たちが知っている他のどんなものとも違うので、私たちにとっては非常に不可解です。しかし、すでに述べたように、神は創造された他のすべてのものと全く異なる存在なのです。
神の中では、三位一体は完全に平等です。この聖句が教えてくれるのは、子なる神が、一時的に父なる神との平等を脇に置き、ご自分をへりくだらせ、父なる神の権威の下に置かれたということです。父なる神と同等の力と権威を持っておられたにもかかわらず、それを脇に置いて、人となられたのです。
7節では、「ご自分を空しくして」とあります。これが具体的に何を意味するのかについては多くの議論がありますが、7節によれば、イエス様はしもべの形をとり、人の姿で生まれたことがわかります。イエス様は、神の形をしていたときは、子なる神として、すべての力とすべての栄光を持ち、すべての被造物の最高支配者でした。肉体的な制限や時間に縛られない、霊の存在でした。しかし、そのすべてを捨てて、奴隷の姿をとり、人間の赤ん坊として生まれてこの世に来られたのです。人間である私たちから見ても、イエス様が人間になられたことが大きな損失であったに違いないとわかります。父なる神と同等の存在であり、宇宙の支配者であったのに、天を離れて人間となり、私たちの間で生きるようになったのですから、それは大きな損失であったはずです。
では、イエス様は、神と人の間にある超えられないはずの隔たりを越えて、神ではないものになられたということでしょうか。実はそうではないのです。イエス様は、人となって私たちの世界に入られたにもかかわらず、ご自分の神性を完全に保たれました。大いなる神秘の中で、イエス様は完全に神であり、完全に人間でもあられるのです。神様はその偉大な知恵の中で、神の姿と人間の姿が両立できないとは考えられませんでした。
さらに、イエス様の払われた犠牲は、人間になられたというだけではありませんでした。イエス様はさらに、私たち人間に代わって、神に完全に従う義務を果たされたのです。さきほど確認したように、神に創造された存在である全人類は、神に完全に従い、神を礼拝する義務があります。イエス様はこの従順さのゆえに、最も苦しく屈辱的な死、すなわち十字架の上での死を通られました。それは、神であられるイエス様にとって、究極的な犠牲でした。
イエス様の時代には、十字架による処刑は最も罪の重い犯罪者にのみ許されていました。それは、尋常ではない苦痛と屈辱を伴うように設計された刑罰でした。イエス様は殴られ、裸にされ、十字架に釘で打ち付けられ、群衆が見ている前で吊るされました。嘲笑され、唾を吐きかけられ、馬鹿にされ、信じられないほどの痛みに耐えながら、一日かけてゆっくりと死んでいったのです。人類の発明の中で、十字架刑ほど残忍なものは他にないのではないでしょうか。しかし、イエス様は父なる神への従順の行為として、自ら進んでこのような死に身を投じられたのです。
これが何を意味するのか、立ち止まって考えてみましょう。それは、天におられる神、すなわち、唯一の永遠の神、すべての被造物から区別され、触れることのできない不滅の存在である神が、一時的にご自分の神性を脇に置き、ご自分をへりくだらせて奴隷の性質を身にまとい、人間として私たちの肉体の世界に来られたということです。それだけでなく、人間としてのイエス様は、最も屈辱的で苦しい死を受け入れてまで、神に従順になるためにご自身を捧げられたのです。
イエス様は、天の神という最高の立場から、十字架にかけられた一人の人間という最低の立場になられました。このような恐ろしい運命を考えれば、当然、私たちは恐怖におののくはずです。
しかし、これは悲劇ではなかったのです。イエス様は何かの間違いで神の座から転落したのではありません。何か他の存在が神を打ち負かして、このような屈辱を与えたのでもありません。これは神が自ら進んで選んだ道なのです。神はこの道を見て、それが良い道であるとされただけでなく、最良の道であると判断されたのです。私たちには究極の恥と悲劇にしか見えないものを、神は究極の栄光の道として見ておられるのです。なぜでしょうか。なぜ神はそのような道を選ばれたのでしょうか?
その答えは、9節から11節にあります。
ピリピ人への手紙2章9~11節
「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
イエス様は、この節にあるような結果をもたらすために、この道を選ばれたのです。イエス様は、服従、へりくだり、従順の行為を通して、被造物のすべてが、造られた役割に回復することを保証されたのです。
さきほど、神が他のすべてのものと異なる特徴の一つは、神だけが礼拝にふさわしく、神のすべての被造物が神を礼拝するようになっていることだと言いました。しかし、現実には、神の被造物すべてが神を礼拝しているわけではありません。そして、神を礼拝している人でさえ、そのやり方は不完全です。神様はその被造物から、受けるべき栄光を受けておられません。神様の立場からすると、これは解決しなければならない問題です。もし被造物が造られた目的を果たすことができず、また果たそうとしないのであれば、神は神ではないということになってしまいます。被造物が、創造主の目的をくつがえすことができるということになってしまうからです。
私たち人間の立場から見ても、私たちが創られた目的を果たせないことは、破滅的な事態です。私たちが、他の何よりも唯一の神だけを礼拝しないことは、この世のすべての罪と苦しみの原因です。私たちは、神様を礼拝するようになり、神様が受けるべき栄光をお返しすることによってのみ、癒され、完全なものとされ、真の喜びに満たされることができます。私たちを充足させることができるのは神様だけです。
イエス様は、神としての栄光を保持し、私たち人間を堕落した状態から愛をもって救い出すために、究極のへりくだりと苦しみの道を選ばれました。このへりくだりの道を歩まれたイエス様は、私たちが造られたそもそもの目的をまっとうできる生き方を私たちに示してくださいます。私たちのために苦しみ、私たちを救うためにご自身を犠牲にすることによって、私たちをどれほど愛しているかを明らかにしてくださっています。そして、真の偉大さへの道は、へりくだりと苦しみの中にあることを明らかにしてくださっています。
人間は、奴隷になることや、自分を低くして人に仕えることに嫌悪感を抱きます。しかし、これは宇宙の創造主であり支配者である神ご自身が、その素晴らしい目的を実現するために、喜んで愛をもって行われたことなのです。イエス様は、ご自身に従う者たちも同様に、へりくだりと奉仕と苦しみを通して、偉大さと栄光を追求しなければならないと教えられました。そうすれば、いつの日か神様は私たちを引き上げ、天の御国で永遠のいのちと栄光を与えてくださるのです。