カトリックとプロテスタントの違い

ローマ人への手紙3章28節

ロビソン・デイヴィッド
2020年10月18日

 10月31日は宗教改革記念日です。私たちもプロテスタント教会なので、世界中の他のプロテスタントのクリスチャンと共にお祝いします。宗教改革は、プロテスタントのクリスチャンがカトリック教会から出て聖書の真実に戻ったという、キリスト教の歴史の中でとても重要な運動でした。
 私たちがクリスチャンですと言うと良く聞かれる質問が、プロテスタントとカトリックの違いは何ですか、という質問です。実は、その違いは別々の宗教ではないかと思うぐらい大きなものだと思います。教会の建物の建築など表面的な違いもありますが、もっと深い、信仰の基本原則に関する違いがあります。

 たとえば、一つの紛らわしい違いは、カトリック教会のリーダー達は神父や司祭と呼ばれますが、プロテスタント教会のリーダーは牧師と呼ばれます。どうしてでしょうか。この違いはそんなに重要ではないように見えますが、実はとても深い意味があります。それは、カトリックとプロテスタントの、教会のリーダーの役割に対する考え方からきています。
 カトリック教会のリーダー達は、神父か司祭と呼ばれています。日本語の「司祭」という言葉は、聖書の中でよく使われている「祭司」という言葉と同じ意味で使われています。聖書によると、イエス様が生まれる前には、神様がご自分の民の中から、祭司を選んでいました。祭司は普通の人とは違う存在でした。普通の人は罪にけがれているので神様のもとに直接行くことができませんでしたが、祭司はきよい人と認識されていたので、神様と人間の間の調停人として仕えていました。祭司が他の人の代わりに動物のいけにえを献げたり、祈ってくれたりしました。また、神様の祝福と赦しを人々に届けるのも祭司の仕事でした。
 カトリック教会では、教会の現在のリーダー達も、聖書の祭司と似たような役割を持っていると教えています。ですからカトリックのクリスチャンは、司祭は普通のクリスチャンの代わりに代表して神様の前に行く人と考えています。たとえばカトリック教会には、罪を犯した時は神様の赦しを得るために、司祭に罪を告白しなければならないという教えがあります。そして司祭の指示に従って、赦しを受けるために苦行、つまり特別な儀式や祈りをしなければなりません。それをすることによって、罪が赦されるのです。

 しかし、プロテスタント教会はこのことに関して、まったく違う考え方を持っています。プロテスタントの考え方は、イエス様が死んで復活された後は、祭司は必要なくなったということです。その理由は、聖書によると、イエス様が天国ですべてのクリスチャンのために完全な祭司として仕えてくださっているので、人間の祭司はもう必要ないからです。ですからプロテスタントのクリスチャンは、人間と神様の間の調停人はイエス様一人だけで十分で、人間の調停人は必要ないと信じています。またプロテスタントのクリスチャンは、罪を犯した時には、人間の祭司を間にはさまないで、イエス様ご自身を通して神様から赦しを受けると信じています。プロテスタントのクリスチャンは、イエス様がご自分を信じるすべての人のために、十字架の死を通して罪の罰をもうすべて受けてくださったので、クリスチャンが罪を赦されるために苦行(くぎょう)をする必要はないと信じています。プロテスタント教会のリーダー達を司祭と呼ばないのには、そのような理由があるのです。代わりに、牧師と呼ばれています。牧師という言葉には、羊を導く羊飼いのように人を導く人という意味があります。プロテスタントの牧師の責任は、他のクリスチャンに神様について教えたり、良い生活を模範として歩んだりすることで、神と人間の間に入ることではないのです。

 これは、たくさんあるカトリックとプロテスタントの違いの一つですが、これらの違いの根底にあるものは何でしょうか。なぜカトリックのクリスチャンとプロテスタントのクリスチャンは、神様と人間との関係に関して、そんなに違う考えを持っているのでしょうか。
その答えは、神様が望んでおられること、つまり「みこころ」がどうしたら分かるのかということとつながっていると思います。キリスト教の歴史の初めから、プロテスタントもカトリックもすべてのクリスチャンは、神様がご自分のみこころを聖書を通して表されたと信じてきました。しかし時間が経つうちに、教会のリーダー達は、神様は聖書だけではなくて、教会のリーダー達の教えを通しても、ご自分のみこころを表していると教えるようになりました。そのうちに、ローマ教皇の声明にも、聖書と同じくらい権威があると考えるようになったのです。カトリック教会は今現在も、聖書だけでなく、カトリック教会や教皇の声明も、神様のみこころを完全に表していると教えています。一方でプロテスタント教会は、聖書だけが神様のみこころを完全に表していると教えています。

 16世紀の多くのクリスチャンは、カトリック教会の教えが聖書の教えと矛盾していると思うようになりました。その一人が、カトリックの僧侶だったマルチン・ルターという人です。ルターは聖書をよく学んでいて、その中で、カトリックの教えが多くの場合は聖書の教えと全然違うと考えるようになりました。ルターは、カトリック教会の教えの一部は、聖書と違うだけではなくて、とても不道徳なことであるとも考えました。
 ルターは、当時のカトリック教会がやっていたことの一つを特に問題視していました。それは贖宥状(しょくゆうじょう)、または免罪(めんざい)符(ふ)を売るということでした。贖宥状というのは、ローマ教皇によって承認された証書のようなもので、その証書を買うと、亡くなった親戚の罪が許される、というものでした。
 カトリック教会は、クリスチャンが亡くなると、その人の霊は直接天国に行くことはできないと教えています。天国に入る前に、司祭に告白しなかった罪の罰を払わなければならないからです。ですから、亡くなったクリスチャンの霊はまず煉獄(れんごく)という所に行って、すべての罪の罰を払うまで苦しみに耐えなければならないという教えです。これもプロテスタントにはない教えです。
 ルターの生きていた時代のカトリック教会は、煉獄に行った人のためにまだ生きている親戚が贖宥状を買うと、その人が早く煉獄を出て天国に入れると教え始めました。ルターは、これはとても悪いことだと思っていました。教会が、もし教会にお金を出さなければ亡くなった親戚が苦しみ続けると脅(おど)して、貧しい人々を利用していると考えたのです。またルターは聖書の学びを通して、罪の赦しを得るために必要なのは、イエス様に信仰を持つことだけなのだと信じるようになっていました。

 聖書の中のローマ人への手紙3:28にはこう書いてあります。「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」

 ルターはこの箇所を読んで、人が信仰を持つなら、その信仰によって、神様がすべての罪を赦してくださるのだから、信仰に加える良い行いや儀式や、祭司に懺悔(ざんげ)の告白をすることは必要ないのだと考えました。

 もう一つの聖書箇所を見てみましょう。へブル人への手紙10:11-14

 この箇所には、イエス・キリストが人間の罪のために、一つの完全な犠牲を献げたとあります。その犠牲とは、ご自分の命でした。イエス様の前に仕えた人間の祭司たちが献げる生贄(いけにえ)は、完全に罪を取り去ることはできなかったので、何度も何度も繰り返し生贄(いけにえ)を献げ続ける必要がありました。しかし、イエス様が完全な祭司として、完全な犠牲である、罪のないご自分の命を生贄(いけにえ)としてささげられたのです。ですから人がイエス様を信じるなら、イエス様の犠牲によって罪が完全に贖(あがな)われて、イエス様以外の祭司が必要なくなりました。
 ルターは、カトリック教会が神様が聖書に表してくださった真実から離れて、宗教を通して人を支配しようとしていると批判しました。そして、当時のカトリック教会の司祭たちとローマ教皇が、神様より、富と力を礼拝していると告発しました。その結果、カトリック教会はルターと、同じ考え方を持っているクリスチャン達を破門したのです。その人達が、「抗議する人達」という意味の「プロテスタント」と呼ばれるようになりました。

 現在のカトリック教会は、16世紀とはまったく違います。現在のプロテスタントとカトリックは良い関係にあって、敵意はありません。しかし、信仰に関する信念は、今でも大きく違っています。特に教会の役割や、人がどうやったら神様に受け入れられるのかに関しては、大きな違いがあります。
 プロテスタント教会である私たちは、聖書だけが神様が表わされた権威ある真理だと信じています。救いは神様からの贈り物なので、救いを受けるために行いは必要ないとも信じています。救いはイエス様への信仰だけによることだと信じています。私たちは、誰も自分自身の価値によって神様に受け入れられることはなく、神様の恵みだけによって受け入れられると信じています。つまり、救いを得るための良い行いや儀式もありません。代わりに、イエス様がご自分を信じるすべての人を代表して、すべてを完成させてくださいました。イエス様が、ご自分を信じるすべての人のために、罪のない完全な人生を送られ、また私たちの代わりに死んでくださったことによって、私たちの罪は赦されたのです。
 プロテスタントの私たちは、私たちが神様の恵みによって、イエス様による信仰を通して救われていると信じています。そして神様から赦しを受けて、神様に受け入れられるために必要なのはこの信仰だけだと信じています。