クリスチャンっぽさ

使徒の働き16章25-35節

ロビソン・デイヴィッド
2020年10月25日

 宮古に住んでいるアメリカ人として、よく周りの人が私を注意深く見ているような気がしています。たとえば、私と妻が外食をするとき、英語で話すと、他のお客さんが私たちの方向をちらっと見る気がします。知らない子供たちのグループとすれ違う時に「外国人だ!」と言われたり、子ども達が私を見ると「ハロー!」と大声で挨拶してくれたりすることもよくあります。
 また、アメリカ人がアメリカでよくやることが、日本では失礼になることもあります。例えば、アメリカでは多くの人が、暑い日には車の窓を開けたままで大音量で音楽を聴くことがよくあります。だから、他の人の車から大音量の音楽が聞こえるのはとても普通なことです。私もそれをするのが好きなんです。暑い日には車の窓を開けて運転するのが気持ちがいいのですが、窓を開けたまま音楽を聞くために音量を大きくしてしまいます。しかし、日本ではそれは周りに迷惑になることだそうです。それでも私は夏になるとたまにやってしまいます。日本人である妻が一緒にいる時は必ず怒られて音量を低くされて、「近所迷惑になるから音量を下げないとダメですよ。」と言われます。私は少し不満ですが、妻は正しいのだと思います。私のアメリカ人としての習慣や態度が、時には日本人にとって迷惑になったり失礼になったりするかもしれません。ですから、周りの人に思いやりを持って、私のアメリカ人っぽさを隠した方がいい時があると思います。

 日本のクリスチャンも、同じような気持ちをたまに感じるかもしれません。もし私たちがクリスチャンの信仰に関してオープンすぎるとしたら、周りの人を不快に感じさせる恐れがあります。社会に溶け込んで、自分に注意を向けないようにするのが自然なことだと思います。ある意味で、それは良い事だと思います。使徒パウロもローマ人への手紙12:18で「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」と言っています。私たちはクリスチャンとして、軽率で思いやりのない印象を与えたり、失礼なことをしたくないのは当然のことです。代わりに、イエス様がマタイの福音書5:16で言われたように行動したいと思います。「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようになるためです。」
 私たちがイエス様の証人として、良い行いをすることによって、イエス様の素晴らしさを表わすのは良いことです。しかし、イエス様が言ったように、私たちの光を人々の前で輝かせるためには、良い行いをすることに加えて、クリスチャンであることを公(おおやけ)にして生活する必要があります。もし人々が私たちがクリスチャンだと知らなければ、私たちの良い行いを見ても、私たちのことをいい人だと思うだけで、天におられる父をあがめることにはならないからです。

 今日の聖書箇所を見ると、使徒パウロとシラスが人々の前で自分の光を輝かせて、自分のクリスチャン生活を公(おおやけ)にする歩みを通して神様の栄光を表したことが分かります。この箇所の中で、パウロとシラスはとてもつらい状況に陥っていました。二人がどのようにこの状況に陥ったのかを振り返りましょう。

使徒の働き16:20-24
「そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。『この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも赦されていない風習を宣伝しております。』群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。」

 パウロとシラスは、ピリピの町をかき乱して、町に住んでいる人たちが受け入れることも行うことも赦されない風習を宣伝したと非難されました。そして衣をはぎ取られて、むちで打たれて、牢に入れられていました。このつらい経験が、パウロとシラスに二つの問題を提示したと思います。
 まず、彼らの信仰が揺るがされていたと思います。彼らは神様に従って大胆に福音を伝えたのに、捕らえられて屈辱を受け、むちで打たれて、牢にまで入れられてしまいました。神様は彼らがこのつらい経験をすることをなぜ許されたのでしょうか。パウロとシラスは神様を疑う誘惑と戦っていたと思います。
 二番目の問題は、クリスチャンの評判の問題です。パウロとシラスは当時のクリスチャンの中でとても有名でした。しかし、彼らの奉仕の結果が、町をかき乱したと非難されて、牢に入れられたということだったのです。周りの人々に、クリスチャンについてどのような印象を与えたでしょうか。クリスチャンはトラブルメーカーだという印象でしょうか。クリスチャンは地域の習慣を見下しているという印象でしょうか。
 パウロとシラスは、さらにもう一つの不安を抱えていたかもしれません。それは、自分たちが行ったことによって神様に不名誉をもたらしたので、神様が自分たちを罰していると考えたくなったかもしれません。
 もしパウロとシラスと同じ状況に置かれれば、私はこのような考えや疑いを抱くと思います。ですから、私がそのような状況にあったら、私は静かに神様に祈って、神様の返事を待つと思います。しかし、パウロとシラスはそうではなく、驚くべき行動に出ました。

使徒の働き16:25
「真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。」
 この短い節からたくさんのことを学ぶことができます。

 まず、彼らは祈りだけではなくて、賛美の歌も歌っていました。クリスチャンなら誰でも、そのような状況になれば神様に祈るでしょう。それはとても自然なことだと思いますが、この時のパウロとシラスは賛美もしていました。彼らは殴られた怪我のまま牢にいたのに、神様を礼拝していたのです。これは彼らの深い信仰を表しています。神様が彼らに屈辱と痛みの経験を許されたのに、それでも彼らは神様に信頼して、神様を愛して、神様を賛美しました。
 次に分かることは、他の囚人たちがパウロとシラスの祈りと賛美に聞き入っていたということです。私が思うに、これがパウロとシラスの意図だったのではないでしょうか。パウロとシラスの祈りと賛美は、自分たちの信仰の表現として自分自身のためにしていただけではなくて、牢にいた他のすべての人達のためだったと思います。彼らは他の囚人たちに自分たちの祈りと賛美を聞かせようとしました。これは公(おおやけ)の礼拝行為で、二人はこの礼拝を通して他の囚人たちに、自分たちがどんなにイエス様に信頼して、イエス様を大事にして愛しているかを表したのです。パウロとシラスはこのようにして、自分の信仰を周りの人に示しました。
 また、パウロとシラスは真夜中ごろまで、他の囚人が聞こえるぐらいの大声で祈りと賛美をし続けました。これについてはどう思うでしょうか。他の囚人が眠れなくなるから迷惑なことだったでしょうか。もっと静かに祈って賛美した方がよかったかもしれません。しかしこの時パウロとシラスがあえて大きな声で祈りと賛美をしたのは、神様がその夜に何か奇跡的なことをしてくださると期待したからだと思います。その時に他の囚人たちに神様の働きであることが分かるように、準備をする意図があったのではないでしょうか。
 パウロとシラスの祈りと賛美の内容は聖書に書いてありません。彼らはこの時神様に何を頼んだのでしょうか。牢から救い出すことでしょうか。そうではないと思います。神様はパウロとシラスの祈りを聞いて、牢の扉を全部開けてすべての囚人の鎖を外してくださいましたが、彼らは牢から出ないで待っていました。もしパウロとシラスが、私たちをこの牢から自由にしてくださいと祈っていたのだったら、神様が牢から出るチャンスを与えてくださったのだから出たはずです。しかし、彼らは脱獄しませんでした。彼らは一体何を神様に求めていたのでしょうか。
 私の考えは、彼らが牢の中のすべての人がイエス様を信じて救いを受けるように祈っていたのではないかということです。二人はこの状況でも自分自身のことではなく、牢にいたすべての人がクリスチャンになることを祈り求めたのだと思います。
 彼らは屈辱を受けて、怪我を負わされた上に牢に投げ込まれましたが、逃げるチャンスが与えられた時、看守を救うために牢で待ちました。殴られた傷は癒えていませんでしたが、自分の健康よりも福音が拡がることを考えていました。彼らは自由の身だった時に、神様が求めておられることは彼らが福音を伝えることだと確信しました。そしてそれは牢にいる時も変わらないと確信していました。彼らは、自由の身であった時には自由な人に福音を伝え、牢にいた時には牢にいた人に福音を伝えたのです。

その結果、何が起こったでしょうか。

使徒の働き16:26-31
「すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で『自害してはいけない。私たちはみなここにいる』と叫んだ。看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。そして二人を外に連れ出して、『先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った。二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』」

 神様は突然、大きな地震を起こして、扉を開けて囚人の鎖を外されました。使徒の働きの他の箇所でも、神様は似たようなことをされました。例えば、神様は使徒ペテロを二回も奇跡によって牢から救い出されました。二回目の時には、ペテロが牢から離れた後、ヘロデ王が怒って牢の番兵を処刑するように命じました。今日の箇所に出てきた看守も、囚人が逃げたと思った時、自分も処刑になると思って自殺しようとしました。
 しかし、パウロとシラスとすべての囚人たちは逃げていませんでした。そこがペテロの話しと違います。神様がパウロとシラスに逃げるチャンスを与えたのに、彼らは逃げませんでした。不思議なことに、パウロとシラスだけではなくて、他のすべての囚人も、逃げるチャンスがあったのに逃げなかったというのです。どうしてでしょうか。
 聖書にはその答えは書いてありません。しかし、この不思議な話しの結末を見ると、なぜ皆が逃げなかったのか推測することができます。この話しの結末は何でしたか。

使徒の働き16:29
「看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。」

 神様はこの出来事を通して、看守を救いに導かれたのです。神様の不思議なご計画で、パウロとシラスがたくさんの苦しみを経験することを通して、ピリピの牢の看守が信仰に導かれました。彼ら自身も、ピリピに入った時、神様がこのように働かれると予測していなかったと思います。
 しかし神様のご計画は、看守を救うに限ったことではありませんでした。牢にいた他の囚人たちはどうでしょうか。彼らはパウロとシラスの祈りと賛美を真夜中まで聞いていて、彼らの神様に対する愛と尊敬が分かりました。そのあとさらに奇跡を目撃したことによって、パウロとシラスの神の真実さと力も分かるようになりました。逃げるチャンスがあったのに、彼らがパウロとシラスと共に留(とど)まったのはなぜでしょうか。
 私が思うのは、他の囚人たちが逃げなかったのは、牢から自由になることより素晴らしいことを見たからだということです。牢から逃げてしまえば、パウロとシラスが次にどんな素晴らしいことをするか見られなくなってしまいます。つまり、パウロとシラスが礼拝した神様をもっと深く知りたいという思いから、逃げなかったのだと思います。そして神様は、囚人たちにも信じるチャンスを与えられます。誰が囚人たちにイエス様について伝えたのでしょうか。それは看守です。
 看守はその夜救いに導かれてバプテスマを受け、パウロから福音を詳しく聞きました。そのあと、この看守はピリピの教会のメンバーになったはずです。神様はピリピの牢にいた囚人すべてにご自分の力を表し、また牢の看守を救いに導かれました。これらのことがあったあと、この看守の牢は、福音を聞きたい人でいっぱいになっていたと思います。
 神様は、新しくクリスチャンになったピリピの牢の看守に、自分の信仰を囚人たちに分かち合う素晴らしい機会をくださったのです。この看守の証しを通して、牢の中の囚人が何人救いに導かれたでしょう。聖書には書いていませんが、多くの囚人が救いに導かれて、牢を出たあと、看守と共にピリピの教会のメンバーになったかもしれません。
 この不思議な話しは最初から最後まで神様のご計画の一部でした。神様は、たくさんの素晴らしい事をパウロとシラスの忠実な生活を通してもたらされました。パウロとシラスは自分のクリスチャンっぽさを隠さないで公(おおやけ)に福音を伝え、公(おおやけ)に祈り、公(おおやけ)に賛美を歌いました。彼らは自分たちのクリスチャン信仰がすべての人に見えるように生活していました。ある人は彼らの信仰を見て気分を害しましたが、別の人はその信仰を見て、救いに導かれました。
 私たちが、私たちのクリスチャン信仰を公(おおやけ)にして生活するとすれば、神様がどんなに素晴らしいことをしてくださるでしょうか。私たちが、クリスチャンではない人に私たちの祈る姿や、神様を賛美し礼拝する姿を見てもらったら、神様はどのように働かれるでしょうか。まだクリスチャンではない人が、イエス様が私たちに良くしてくださること、私たちがイエス様にどんなに感謝しているかを見たら、どのような影響があるのでしょうか。
 私たちは、私たちの光を人々の前で輝かせましょう。