福音が反感を買う時

使徒の働き16:16-24

ロビソン・デイヴィッド
2020年10月 4日

 7月から毎週English Play Timeをやっています。その活動を通して毎週多くの人と会う機会があります。たくさんの子供たちとお母さん達を迎えることができるのはとてもうれしいことです。子ども達は楽しそうですし、英語の力も上がっていると思います。もう一つやりがいを感じていることは、子ども達の親御さんとも知り合いになれることです。私たちは宮古に来てまだ少ししか経っていませんが、こうしてたくさんの出会いを与えられているのは、神様からの祝福だと思います。
 宮古にある教会として、私たちの目的の一つは、町の人々に仕えることです。私たちはイエス様に、隣人を愛するように召されています。イエス様は、神様がこの世界を愛しておられるので、私たちも神様に従う者として、同じように人々を愛するべきだと教えられました。私たちがイエス様に従うというのは、教会の人々と共に働いて、隣人の必要のために仕えることです。
 しかし、神様の愛を一番はっきりと表すことができるのは、人々の身体的、情緒的、または教育的な必要を満たすことではなくて、人々の深い霊的な必要に応えることです。人の一番深い霊的な必要とは、イエス様を通して罪から救われることです。イエス様はこの世に来られた時、人々を教えたり、病気を癒したりすることだけではなくて、人々の罪のために、ご自分の命を十字架で捧げてくださいました。
 またイエス様は、ご自分の弟子たちに隣人を愛しなさいと教えただけでなく、救いの福音を伝えなさいとも命令されました。福音のメッセージは、すべての人々が神様に背いて罪を犯しているのに、神様が赦しと救いを受けるための道を作ってくださった、ということです。その道とは、イエス様による信仰です。この福音が、人間の一番深い霊的な必要に応えるものです。それによって私たちは、創造者であられる神様から赦しを受けて、神様と和解し、神様と正しい関係を持つことができるようになります。この福音を通して、人は神様の最高の祝福を受けるのです。ですからクリスチャンが隣人のためにできる最も愛に満ちた行為とは、福音を伝えることなのです。
 ある医者に、末期症状の友人がいると想像してみてください。その医者が、その病気の治療法を発見したとしましょう。その場合に友人を愛するというのは何をすることでしょうか。お金をあげることでしょうか。庭仕事を手伝うことでしょうか。その友人の子供を見てあげることでしょうか。そのようなことはすべてとても良いことで、友人に対する愛を表すことですが、この医者が友人を本当に愛しているなら、友人に対して、「病気の治療法を発見したよ。この治療を受ければ、あなたは死ぬことはないんだよ」と伝えることではないでしょうか。
 私たちクリスチャンにとっての福音も、それと同じことだと思います。すべての人間が罪という病気の末期状態です。しかし、神様がこの病気の治療法を示してくださいました。その治療法が福音です。私たちが罪の赦しを受けるために、イエス様が十字架の上で私たちの代わりに死んでくださいました。私たちクリスチャンは、神様から罪の治療を受けたのです。そして神様は私たちに、その同じ治療をすべての人に届けるように召してくださっています。
 しかし多くの場合は、福音を伝えるのは簡単なことではありません。多くの人が福音に心を開いていないように思えます。教会がやっている活動が周りの人に認められることはもちろんありますが、多くの人は自分がクリスチャンになることを勧められるのを嫌がるのではないでしょうか。教会が支援活動や英語教室やコミュニティイベントをすれば、周りの人に感謝されますが、イエス様の話しをしたり、クリスチャンになることを話すと、嫌がられることもあります。また公共の建物では多くの場合、宗教の話しを禁止するルールがあります。
 私たちクリスチャンにとっては、この障壁が難しい問題になるかもしれません。私たちは、イエス様が教えられたように隣人を愛して、人々の日常生活をサポートするだけではなくて、人々の霊的な必要に福音を通して応えたいと思っています。しかし同時に、人に迷惑をかけたくないし、もちろんルールや法律にも従いたいんです。しかし現実には、私たちが誰かに福音を伝えようとする時、誰も怒らせずに、誰にも迷惑をかけずにすることは、難しいことです。難しいだけでなく、それが無理な時もあると思います。私たちが常に福音を伝えるなら、時々は誰かの気分を害することは避けられないでしょう。
 私たちは使徒の働きの学びの中で、パウロの第二回宣教旅行について学んでいます。今日の箇所の中で、パウロとシラスは自分の出身地から遠く離れた海外の町ピリピで福音を伝えました。パウロとシラスはユダヤ人でしたが、ピリピの町にはローマ人が多く、二人の国とは違う習慣とルールがありました。また、キリスト教はまだとても新しい宗教だったので、ピリピに住んでいる人々は福音を聞いたことがありませんでした。ですから、パウロとシラスの教えをあやしんでいる人がたくさんいました。しかし神様は、二人にピリピの人々の霊的必要を示して、その地方で福音を伝える召しを与えられました。二人がその召しに従うと、その結果ピリピの偉い人と衝突して、逮捕されむちで打たれる事にまでなってしまったのです。パウロは何を非難されたのでしょうか。
 使徒の働き16:20-21
 これは深刻な告発です。パウロとシラスはピリピでの働きの結果、町の影響力のある人たちを敵に回してしまいました。二人は、「町をかき乱し、ローマ人である私たちが受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝している」と非難されました。その非難が正しかったとすれば、パウロとシラスの働きはふさわしくないものだったのでしょうか。ローマ人の習慣やルールを守るためにもっと注意すべきだったのでしょうか。パウロとシラスは、町の影響力のある人を敵に回して逮捕されることを通して、キリスト教の評判を傷つけたのでしょうか。
 彼らが実際に何をしたのか、もっと詳しく見てみましょう。
 使徒の働き16:17-19
 ここから分かることは、パウロとシラスが町の偉い人たちを怒らせたのには理由が2つあったということです。一つ目は、福音を公に伝えたということでした。占いの霊につかれた若い女奴隷の主人たちは、パウロとシラスを役人たちのところに引き立てて行くと、二人の素性や彼らが何を教えているのかを糾弾しました。ピリピ中(じゅう)の人が、パウロとシラスがピリピ人にイエスに従うように勧めていることを知りました。しかし、町の中の多くの人はその教えを拒絶して、パウロとシラスを断罪しました。そして役人たちは裁判なしで彼らを罰しました。パウロの教えは多くの人々を敵に回してしまったのです。
 パウロが街の人々を怒らせた二つ目の理由は、悪霊につかれた若い女奴隷から、悪霊を追い出したことでした。これが、女奴隷の主人たちが怒っている本当の理由だったと思います。パウロが外国人で、自分たちが良く思っていない教えを教えていたので、彼らはパウロとシラスのことを良く思っていませんでしたが、パウロが悪霊を追い出すまでは何も言いませんでした。しかし、パウロに悪霊を追い出されてしまうと、女奴隷を利用して金儲けをすることができなくなってしまったので、激怒したのです。女奴隷の幸福より、悪霊から利益を得ることの方を優先していたからです。
 しかしこの若い女奴隷の立場になってみてください。彼女は何を望んでいたでしょうか。イエス様も地上での働きの中で、悪霊の問題に何度も遭遇されました。人が悪霊に抑圧されている状態は、とてもみじめでつらいものです。悪霊が人の考え方や行いを支配して、彼らの人生を台無しにしていました。イエス様の愛された者の一人、マグダラのマリアは、イエス様によって七つの悪霊から解放されました。彼女はその後(ご)イエス様への感謝の心から、イエス様の女弟子の一人になりました。
 同じように、パウロはこの女奴隷のために素晴らしい事をしました。聖書には書かれていませんが、彼女もマグダラのマリアのようにクリスチャンになって、ピリピの教会のメンバーになったかもしれません。
 パウロが町の人々を怒らせた二つの理由は、ピリピで福音を公に伝えたこと、また女奴隷を悪霊から解放したことでした。町の人を怒らせるぐらいなら、この二つのことをしない方がよかったのでしょうか。いやむしろ、パウロが神様のみこころに従ったことで、神様の栄光が現わされたのだ、と私たちは結論づけるべきだと思います。
 神様はピリピの人々への深い愛によって、彼らが赦しと救いを受けることを望まれました。ですから、ピリピで福音を伝えるためにパウロとシラスを送り出したのです。また、神様は悪霊に抑圧された女奴隷をご覧になりました。周りの人は彼女の幸せをまったく考えず、自分の得のために彼女を利用していましたが、神様は彼女を愛して、パウロを通して彼女を自由にしてくださったのです。
 パウロの目的は、町をかき乱すことではありませんでした。パウロの動機は、神様に従うこととピリピの人々に対する愛でした。ピリピの人々の深い霊的ニーズに応えようとした時、パウロは何人もの人々と衝突しましたが、それはしようがないことでした。イエス様は実に、このようなことが起こると語られていました。
 マタイの福音書10:16-22
 イエス様は、弟子たちがご自分の命令に従って福音を伝える時、多くの人が弟子たちに反発して迫害すると警告されました。これは避けられないことです。イエス様は、避けられないどころか、それが祝福であるとおっしゃいました。マタイによる福音書5:10でイエス様はこう言われていました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人達のものだからです。」
 私たちがイエス様に従って福音を伝える時に必ず起こってくることは、一部の人が気分を害するということです。時にはそれは法的な対立にさえつながるかもしれません。私たちクリスチャンは、できるだけ、住んでいる所の法律に忠実に従うべきです。しかし政府が私たちに、神様が禁止されたことを強制しようとする時や、神様が命じられたことを禁止する時には、私たちは神様の方に従うべきです。
 福音を聞くと気分を害する人もいますが、喜んで受け入れる人がいるのも事実です。
 1コリント人への手紙1:18
 福音は、様々な方法で様々な人々に影響を与えます。ある人が福音を聞くと、愚かで無礼なことと受け取りますが、他の人が福音を聞くと、神様が彼らの心を開いて、ご自分の力を明らかにし、救いに引き寄せてくださいます。私たちには、誰がどのように福音を受け入れるかを事前に知ることはできません。それでも、私たちはキリストに従って、周りの人々を愛し続けていかなければならないのです。
 これは難しいことかもしれませんが、イエス様はご自分の弟子たちを守り祝福すると約束されました。もし私たちがイエス様に従って福音を忠実に伝えれば、イエス様は私たちを用いて、周りの人を救いに導いてくださると私は確信しています。