私たちはクリスチャンとして、聖書が神様のみことばであると信じています。そして聖書のことばのすべてが正しいと信じています。もし誰かが聖書の教えと違うことを教えていたら、聖書が正しくて、他の教えは正しくないと判断しなければなりません。私たちは、神様が聖書を通して、ご自分のことをとてもはっきりと明らかにしてくださったと信じています。
しかし、聖書を知らない人や、聖書が完全に正しいと信じていない人に、どうやって神様のことを説明すればいいのでしょうか。私たちが、聖書にはイエス様が世界の救い主と書いてありますと伝えても、そもそも聖書を信じていない人は、聖書に書いてあるからと言ってどうして信じるべきなのか、自分にとってなぜ救い主が必要なのか、分からないと思います。そのような人に対しては、別のアプローチが必要かもしれません。
前回、パウロがベレアに住んでいたユダヤ人に福音を伝えた場面を学びました。その時、パウロとベレアのユダヤ人は多くの点で同じことを信じていました。両方とも、旧約聖書は神様のみことばだと信じていたし、世界を創造した唯一の全能の神が常に働かれていることも信じていました。また、パウロとベレアのユダヤ人は、神様が救い主を与えると約束されたことについても同意していました。このように多くの共通点があったので、パウロはすぐに聖書の預言を指し示して、イエス様がその預言を成就されたということを伝えればいいだけでした。
しかし、今日の箇所の中では、パウロはまったく違う聴衆に話しています。それはアテネに住んでいるギリシャ人でした。彼らはユダヤ教の聖書を信じていませんでした。彼らの宗教とパウロの宗教との間にはたくさんの違いがありました。
哲学がさかんだったアテネの街の人達は、パウロの信仰と何一つ共通点を持っていないように見えました。アテネ人は、神は唯一ではなくて、いくつもの神々がいると信じていました。また、その神々はこの世界のことにはあまり関心がなく、神々の間の不和や戦いの方に気を取られていると考えられていました。アテネの人々は旧約聖書をよく知らず、真理として受け入れていませんでした。もしパウロがいきなりアテネ人に向かって「ユダヤ人の聖書にはイエスが救い主と書いてあるので、あなたたちもイエスを信じなければならないのです。」と言ったら、アテネ人はどのような反応をしたでしょうか。聖書を信じていなかった彼らは、なぜ自分達はユダヤ人でもないのにイエス様を信じなければならないのか、という反応だったかもしれません。
そこでパウロは、アテネ人に対して福音を伝えた時、聖書からではなくて、アテネ人が信じていることを引用しながら福音を語りました。パウロはアテネ人に同じ福音を伝えましたが、彼らがその福音を理解して受け入れられるように、ユダヤ人に対して語ったのとは別の視点から語りかけたのです。パウロはまず、聖書とアテネ人の考えの共通点から話し始めました。真(まこと)の神様を知らず、神様のみことばを読んだことがないアテネ人と聖書の間に、共通点はあったのでしょうか。
パウロのメッセージを読むと、びっくりすることが分かります。アテネ人は聖書を知らず、預言者の言葉を聞いたこともなかったのに、神様についての正しい知識をもう持っていたのです。もちろん、アテネ人は神様に対してたくさんの間違った考えも持っていましたが、いくつかの正しい理解も持っていました。なぜでしょうか。それはパウロがアテネに来る前から、すでに神様はご自分の創造された世界を通して、また御霊の働きを通して、アテネ人にご自分のことを表しておられたからです。
色々な意味で、アテネの人々は現在の日本人と似ていると思います。聖書に親しんで、聖書を信じている日本人は多くありません。ほとんどの人は、仏(ほとけ)や様々な神々を拝んでいます。しかしその神々が本当に人間の事を気にかけているのかどうかわからない人や、宗教は迷信や伝統でしかないと考えている人も多いと思います。
私たちが宮古に住んでいる友人に福音を伝えようとする時に、パウロのアテネ人に対する姿勢から学ぶことがたくさんあると思います。また、パウロのメッセージからとても励まされると思います。それは神様が、すべての時代の、すべての地域の人々に、ご自分についての真理をすでに表(あらわ)され、ご自分の元へ引き寄せてくださっているからです。
まず、パウロが聖書の知識が全然ないアテネ人にどのような切り口で福音を伝えたのかを考えましょう。パウロの伝え方を見ると、二つのことが見えてきます。
一つは、パウロがアテネ人の考え方との共通点を見つけて、その共通点を用いて真理を語ったということです。
使徒の働き17:22-23
パウロは、アレオパゴスの中央に立って行った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。
アテネ人は聖書の知識を全く持っていませんでしたが、神様に関してのいくつかの真理を理解していました。たとえば、目に見えないことや、手で触(さわ)れない超自然的なことがあって、そのようなことが人間の生活に影響を与えていると信じていました。また、神々からの祝福を受けるために、捧げものを捧げる習慣がありました。そして、自分達が知らない神がいるはずだとも信じていました。これらの信仰や行いには、神様の真理が部分的に混ざっていたので、パウロはこのことから始めました。
パウロは説教を始めるにあたって、アテネの人の信仰のいくつかを肯定しています。みなさんはあらゆる点で宗教心に熱い方々で、知られていない神のことまで礼拝しているほど熱心だ、とアテネ人を称賛したのです。その上で、パウロはアテネ人が礼拝していた知られていない神について教えました。これはとても良いアプローチだと思います。知らない神を祀(まつ)っていたということは、彼らはその神について興味があったはずですね。そこでパウロは、この世界を創造された唯一の神について伝え始めました。
次に、28節を見てください。
「私たちは神の中に生き、動き、存在している」のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、「私たちもまた、その子孫である。」と言ったとおりです。
ここでパウロは二つの引用をしています。これは聖書からではなくて、ギリシャの二人の詩人の引用でした。しかも、その詩人たちがパウロの神について語っていたことではなくて、ギリシャ人が礼拝していたゼウスという神についての引用です。ギリシャ人は、ゼウスが神々の王だと信じていました。パウロは、ゼウスとパウロの神様が同じ神だと言っているのでしょうか。そうではなく、ギリシャ人が信じていたゼウスに関する真理が、実は、正しい唯一の神様に関する真理だった、ということです。この詩人たちは神様に関する深い真理を悟ったのですが、それを間違った神に帰してしまったのだというのです。ギリシャ人はこのように、聖書も神様の預言者も知らないまま、正しい神に関する真理のいくつかを知るようになっていたのです。
現在でも、聖書を知らない人が、神様についての真理を悟ることがあるかもしれません。私たちが相手に福音を伝えようとする時、相手に神様に関する真理を正しく伝えることから始めたらいいと思います。神様は、すべての人にあらゆる方法で、ご自分を表されています。たとえば、もし相手が、愛と思いやりはとても素晴らしいことだと信じているなら、その真理は神様からのことです。もし相手が、超自然的な領域があって、日常生活に影響を与えていると信じているなら、それを起点として、神様についての会話を始めることができます。また、仏教の教えとキリスト教の教えの共通点を見つけて、その共通点を会話の始まりにすることができると思います。日本の民間伝承や伝統なども、神様の真理を説明するための例として用いることができるかもしれません。そのような切り口から神様がみことばの中で表された真理を伝えると、相手にとって親しみやすく、分かりやすくなることもあると思います。
続けて、パウロの伝え方から学ぶことのできる二つ目の点を考えましょう。それはパウロが創造主として神様を紹介したということです。
使徒の働き17章24-26節
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で作られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を作り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
パウロはアテネ人に、アテネ人が知らない神というのは、実は究極の神様なのだと伝えました。アテネ人が知らなかったこの神が、すべての物、すべての人を創造されて、すべてのことを支配しておられます。これがアテネ人が知らない真理で、彼らにとって新しい情報でした。しかしパウロがまず、彼らが宗教心にあついことや、知らない神まで祀っていたことを賞賛したので、パウロの話を拒絶するのではなく、考慮することができました。パウロが彼らの信念や姿勢を否定せず、理解を示したので、パウロの言っていることが正しいかもしれないという姿勢で聞くことができたのだと思います。
唯一の神がすべてを創造して、すべてのことを支配しているという教えは、キリスト教の教えの一番基礎的な真理かもしれません。キリスト教の教えのすべてが、この真理に基づいています。聖書の一番最初の言葉が「はじめに神が天と地を創造された」ということで、この教えから他のすべてが出てきます。もし相手がこの真理を受け入れないなら、福音も受け入れることはできないと思います。
多くの人はこの真理を聞いて、あり得ることだと考えると思います。誰でもこの世界を見れば、世界はどうやってできたのだろうと思わない人はいないと思います。そして一つの可能性として、何者(なにもの)かが創造したのかもしれないと思う人も多いはずです。もし唯一の神が世界を創造したのであれば、創造した理由があるはずでしょう。また、もし唯一の神がすべてを創造して、その中に自分も含まれているなら、この神は自分に何を求めているのだろう。多くの人が一度はこのように考えると思います。哲学に親しんでいたアテネ人たちも、このような問いをよく考えたと思います。福音にはこの問いに対する答えがあります。
24-26節
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で作られた宮にお住みにはなりません。また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を作り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
パウロはここで、すべての人が神を求めるために、神様がすべての人に決められた時代と住まいの境界を定められたと言っています。つまり、すべての人間がご自分を求めるように、神様がすべての人の人生を整えたということです。人間の責任は、自分を創造された神を求めることです。パウロは、神様を求めている人に、良い知らせを届けました。確かに、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。神様はすぐ近くにおられます。いま私たちの周りのすべてにおられます。誰でも、いつでも、どこででも、神様に叫んで、罪を悔い改めて、イエス様を信じるなら、神様はすぐにその人の祈りを聞いて、受け入れられます。これがパウロが語った福音です。
これはとても素晴らしい真理です。私はこれを考えると、とても励まされます。神様が、すべての人を一人一人見て、その人がいつ生まれて、どこに住むのか、定められました。私たちが、今、宮古にいる理由は、神様がそれを定められたからです。宮古に住んでいる他のすべての人もそうです。なぜ神様はそう定められたのでしょうか。それは、私たちが神様を手探りで求めて、神を見出すことがあるからです。神様はすべての人を、神様を求めることのできる場所に置かれました。神様はすべての人に、ご自分の創造されたこの世界を通して、また御霊の働きを通して、常にご自分を表してくださっています。
詩編19編でダビデがこう言いました。
「天は神の栄光を語りつげ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
すべての人が毎日神様のわざに囲まれて、毎日神様の創造された世界を見て、神様を知らなくても、神様の力と美しさに感動しています。すべての人は神様に関する真理の一部分をもう知っていますが、福音を聞かずに、この真理の全体を理解することはできません。しかし、神様は実に、私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
パウロのアテネ人へのメッセージはこのようなことだと思います。あなたがたの間に、神を求めて、神を捜して望んでいる人がいるはずです。あなた方が神はどういうお方なのかを知らないのに、神がいるはずで、神には自分のための目的があると信じている人がいるはずです。あなた方が求めている神にどうやって受け入れらるのかを知らせるために、この神が私をあなたがたに送りました。
神様がアテネ人の中で働かれていたのと同じように、宮古の人の中にも働いておられると私は確信しています。また、神を求めている人に福音を伝えるためにパウロを送ったように、私たちのことも送ってくださっていると確信しています。私の祈りは、神様が私たちを神を求める人のもとに導いて、私たちの人生と、また言葉で伝えることを通して、ご自分を表してくださることです。