はたしてその通りかどうか

使徒の働き17:1-15

ロビソン・デイヴィッド
2020年11月 8日


 最近、妻と何か議論をする時に、インターネットやスマートフォンがよく登場するようになりました。結婚したばかりの時は二人ともスマートフォンを持っていなかったので、話している時に詳しく分からない話題が出てくると、結局誰が正しいのか分からないことが多かったです。でも今は二人ともスマホを持っているので、議論する時間がだいぶ短くなったと思います。お互いの言ったことが間違っていると思うと、すぐにスマホで調べて、相手の間違いを指摘することが多くなりました。
 インターネットやスマホによって、歴史に関することや、科学、地理、他にも多くのトピックに関して、すぐに正しい情報を調べることができるようになったのは、とても便利なことです。また、何かを修理したい時や、何かを作りたい時にも、インターネットですぐに調べられます。インターネットには、人間の知識のほとんどすべてがあるかもしれません。
 しかし、インターネットには答えられない質問もあります。グーグルで「人生の意味とは」と検索したら、色々な答えが無限に出てきて、一つの答えを得ることはできないでしょう。また、神様はいるのか、正しいことと正しくないことはどうしたら分かるのか、というような大切な質問にも、インターネットは一つの答えを与えてはくれません。人間の知識では、このような質問への答えを出せないからです。このような質問に答えてくれるものがあったら、とても助かると思います。

 私たちクリスチャンは、このような質問に答えてくれるものを実はすでに持っていますね。聖書は、人間の知識に基づくものではなくて、神様が直接、ご自分の完全なる知識を表してくださったものです。この神様のみことばが、人生の一番深い質問に答えを与えてくれるのです。神様のみことばなしにはこのような疑問を解決することはできないので、議論が永遠に続いてしまいますが、完全な知識を持っておられる神様が、それを私たちに表してくださいました。

 今日の箇所には、ベレアという小さな町に住んでいたユダヤ人たちが聖書に信頼して、救いに導かれた場面が出てきます。使徒の働き17:11にフォーカスしたいと思います。

 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

 この節で、使徒の働きを書いたルカは、ベレアに住んでいたユダヤ人たちがテサロニケにいるユダヤ人よりも素直だと、彼らを賞賛しています。私たち現代のクリスチャンにとっても模範となる、ベレアにいたユダヤ人たちの姿が書かれています。
 今日は、テサロニケのユダヤ人とベレアのユダヤ人を比べて、私たちの模範とすべき姿を学びたいと思います。
 まず、テサロニケのユダヤ人について考えましょう。
使徒の働き17:2-5
 パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、『キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証した。彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

 使徒パウロはテサロニケに入った時、他のすべての場所と同じように、まずユダヤ人の会堂に入って、福音を伝え始めました。ユダヤ人に話しているので、ユダヤ人が信じている旧約聖書に基づいた説教をしました。旧約聖書によると、神様は救い主を送ると約束され、その救い主は苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないと記されているので、イエス様こそが約束された救い主のはずだと論証しました。ユダヤ人は旧約聖書が完全な神様のみことばと信じていたので、もし旧約聖書がイエス様を指し示しているなら、イエス様を信じるはずでした。
 最初に、何人かのユダヤ人がパウロの話を聞いて、福音を受け入れましたが、そこにいたギリシャ人も福音を受けいれました。すると、アブラハムの子孫ではないギリシャ人が、ユダヤ人に約束された救い主を受け入れることに対して、テサロニケのユダヤ人はねたみに駆られてしまいました。パウロが語った福音は、神様はご自分の民であるユダヤ人たちだけではなくて、異邦人でも、救い主イエス様を信じれば救いを受けるということでした。ですから、多くのギリシャ人がこの福音を聞いて、罪を悔い改めて、喜んでイエス様に信頼しました。しかしその結果、妬みに駆られたユダヤ人たちは、パウロ達がテサロニケを離れることを要求しました。

 このことから私たちは何を学べるでしょうか。テサロニケのユダヤ人の間違いは何だったと思いますか。彼らの間違いは、聖書に聞き従う代わりに、自分たちの罪に満ちた心に従ってしまったことでした。彼らは妬みに駆られて、神様が彼らに約束された祝福を異邦人と分け合うことを望みませんでした。そして彼らはパウロに腹を立てて、彼を敵視しましたが、パウロが語ったことはすべて、旧約聖書に基づいたことでした。彼らは自分たちがパウロに敵対していると思っていましたが、実は信じていたはずの聖書を拒絶していたのです。
 旧約聖書は、救い主について何を記していたでしょうか。この17章では書いていませんが、13章で、パウロがピシディアのアンティオキアで、同じような状況に直面した時に語った説教が記されています。

使徒の働き13:24-37
 この方が来られる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、悔い改めのバプテスマをあらかじめ宣べ伝えました。ヨハネは、その生涯を終えようとしたとき、こう言いました。「あなたがは、私を誰だと思っているのですか。私はその方ではありません。見なさい。その方は私の後から来られます。私には、その方の足の履き物のひもを解く値打ちもありません。」
 アブラハムの子孫である兄弟たち。ならびに、あなたがのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。そして、死に値する罪が何も見出せなかったのに、イエスを殺すことをピラトに求めたのです。こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。イエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人たちに、何日にもわたって現れました。その人たちが今、この民に対してイエスの証人となっています。
 私たちもあなたがたに、神が父祖たちに約束された福音を宣べ伝えています。神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩編の第二篇に、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。」と書かれているとおりです。そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。
「わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなた方に与える。」ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。「あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。
 ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。

 ここで、パウロは旧約聖書を引用して、神様が約束された救い主は死者の中からよみがえらなければならないと証明しました。すると、アンティオキアでも、これを聞いたギリシャ人が福音を受け入れ、ユダヤ人たちはねたみに駆られてしまいました。パウロはそれを見て、旧約聖書からもう一つの驚くべき箇所を引用しました。

使徒の働き13:47
 主が私たちに、こう命じておられるからです。
「わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。」

 旧約聖書で約束された救い主は、ユダヤ人だけではなくて、異邦人にもご自分を表して、地の果てにまで救いを広げられると書かれているのです。ですから、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人たちも、テサロニケのユダヤ人たちも、旧約聖書の教えに従って、喜んでイエス様を受け入れて、異邦人も受け入れるべきでした。しかし、彼らは聖書に従わずに、自分の罪深い心に従いました。
 これは、私たちクリスチャンも気を付けなければならないことだと思います。神様は私たちに、ご自分のみことばをくださいました。それはとても貴重な贈り物です。神様のみことばは、人生の最も深い真理を表していますが、多くの場合その真理は、私たちのすでに持っている考え方に逆行するものです。神様のみことばの中には、私たち罪深い人間が聞きたくないことがたくさんあると思います。また、聖書は私たちの罪や欠陥も明らかにします。そのような耳の痛い聖書の教えを聞く時に、私たちはどう反応するべきでしょうか。
 テサロニケのユダヤ人たちは、聞きたくない聖書の教えを聞いて、拒んでしまいました。その結果、待ち望んでいたはずの救い主を受け入れられず、救いを得ることができませんでした。テサロニケのユダヤ人たちは、自分たちが神様の特別な民だと信じていましたが、神様のみことばに逆らって、神様の敵になってしまったのです。それは私たちも注意すべきことだと思います。

 では、ベレアに住んでいたユダヤ人たちに目を移して、彼らの模範から何を学ぶことができるか見てみましょう。
使徒の働き17:11
 この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。

 この短い節から、いくつかのことが分かると思います。まず、ベレアのユダヤ人たちが非常に熱心にみことばを受け入れたということを考えましょう。それはテサロニケのユダヤ人たちにはなかったことでした。代わりに、パウロからみことばを聞いた時、彼らはねたみに駆られてしまいました。しかし、ベレアのユダヤ人たちは同じ福音を聞いて、喜んで受け入れました。なぜでしょうか。ベレアのユダヤ人たちは、すべてのユダヤ人が待ち望んでいた救い主がやっと与えられたと聞いて、大きな喜びを抱きました。彼らは、救い主が与えられたことは、他の何よりも素晴らしいことだと考えたのだと思います。
 次に、「はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」ことについて考えましょう。テサロニケのユダヤ人たちは、もしパウロの教えが自分たちの聞きたいことと合えば受け入れるという姿勢でしたが、ベレアのユダヤ人は違いました。彼らは、もしパウロの教えが聖書の言っていることと合えば受け入れるという視点を持っていました。
 ベレアのユダヤ人たちが、パウロから福音を聞いてすぐに受け入れなかったのは悪いことでしょうか。パウロを信じないで、パウロが言ったことが正しかどうかを調べるのは、神様のしもべであるパウロに対して失礼なことでしょうか。ルカによると、そうではないのです。むしろ、ベレアのユダヤ人たちの行いは、称賛に値することだと言っています。

 私たちクリスチャンにとって、これが模範となります。私たちは、どんなに立派な人でも、人間の教えを神様のみことばと同じように考えてはいけません。どんなに偉い牧師であっても、どんなに素晴らしい聖書の教師であっても、もし彼らの教えが聖書と噛み合わないなら、その教えを受け入れてはいけないのです。忠実なクリスチャンは、自分が教えられたことが正しいかどうか、定期的に聖書を調べなければなりません。

 最後に、ベレアのユダヤ人たちが毎日聖書を調べたことを考えましょう。おそらく、彼らが毎日聖書を調べるのは、パウロの教えへの応答に限らず、毎日の習慣だったと思います。ベレア人は毎日聖書を読んで、毎日神様のみことばを受けて、毎日神様の約束を考えていました。だからこそ、使徒パウロがベレアに来て、イエス様が聖書の預言のすべてを成し遂げたと教えた時、ベレアのユダヤ人たちはすぐにそれが聖書と噛み合うことだと気づくことができたのです。
 私たちがベレアのユダヤ人の模範に従うとすれば、毎日聖書を調べなければなりません。私たちは一人一人聖書を読んで、自分の生活に適用するべきです。また、間違った解釈にならないように、他のクリスチャンと共に聖書を学んだり、話し合うのもいいと思います。
また、私たちは問題に直面した時、すぐに聖書を開いて、神様がその問題についてどのような真理を教えてくださっているかを調べることができます。問題に直面した時だけではなくて、私たちの生活がいつも聖書によって形づけられるように、毎日聖書を読んで考え、従うべきです。
 使徒パウロは、弟子テモテへの手紙の中で、みことばの力について書いています。

第二テモテへの手紙3:14-17
 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 テモテは幼いころから聖書について教えられて、みことばを通してイエス様による救いに導かれました。しかしテモテは、クリスチャンになるまでの間、聖書を勉強しただけではなくて、クリスチャンになってからも、みことばを学び続けました。テモテをイエス様に導いた同じ聖書が、イエス様を信じてからも、テモテをすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者とさせてくださったのです。
 聖書は神様からの贈り物の中で、一番大事なものの一つです。聖書を通して神様はご自身を表され、また、ご自分が創造された世界に対するご計画も表してくださいました。神様は聖書の中で、神様を喜ばせる人生を生きるために必要なすべてのことを書いてくださいました。ですから、私たちに質問や、疑いや、心配があれば、すぐにみことばを開いたらいいと思います。しかし、聖書は、問題への答えを調べるものとしてだけ与えられているのではありません。良い時にも、神様に自信がある時にも、毎日みことばを受けなければなりません。私たちが体の命を保つために食事をするように、みことばの糧(かて)を受け続けなければなりません。イエス様もこう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きると書いてある。」

 聖書は、クリスチャンが信じるべきことに関する最高の権威です。聖書には、神様の真理(しんり)のことばが記されています。聖書は私たちに、何が正しくて、何が正しくないかを完全に表しています。また聖書は、私たちの日常生活にも知恵を与えて、神様ともっと近くで生活できるように導いています。聖書は私たちを、神様に仕える人として形造り、神様の働きのために十分に整えてくださいます。私たちはベレアのユダヤ人のように、この素晴らしい聖書を毎日熱心に学びましょう。