神を恐れる者

ルカの福音書1:26-56

ロビソン・デイヴィッド
2020年12月13日

 今日はアドベントの三週目です。私たちはアドベントの期間を通して、イエス様が来られる時を待ち望んでいます。クリスマスにイエス様の誕生をお祝いすることだけではなくて、イエス様が将来この世に戻られることも待ち望んでいます。

 同じように、イエス様がお生まれになる前、神の民は何世代(なんせだい)にもわたって、神様が約束された救い主を待ち望んでいました。イエス様の誕生は、神様の約束の成就(じょうじゅ)でした。今日はルカの福音書1章を学ぶことを通して、イエス様がどのように神の民の希望を実現されたのかを学びたいと思います。

 この場面で、たくさんの素晴らしいことが起こりました。神様はご自分の天にある王位から、素晴らしい使者である御使いガブリエルを、ナザレという田舎町(いなかまち)に住んでいたマリアという若い女性のところに送って、イエス様の誕生を知らせました。ガブリエルはマリアに、彼女が息子を産むこと、そして、その息子がイスラエルの王になって、永遠に天と地を支配するということを知らせました。

 マリアはこれを聞いて、信じました。それから、いとこのエリサベツを訪ねて行きました。先週エリサベツの場面を読みましたが、エリサベツも神様から息子を生む約束が与えられていました。エリサベツの息子がイスラエルの救い主、つまりマリアの息子のイエス様の前に来て、道を準備することを約束されました。

 エリサベツとマリアは、どちらも謙虚な信仰を持っている女性でしたが、世間的(せけんてき)にはあまり重要でない人たちでした。ですから、神様からそのような素晴らしい約束が与えられたことに、二人とも感動していました。神様がご自分の約束の通りに、イスラエルが待ち望んでいる救い主を送ろうとしていることを知っていたのは、その二人だけでした。マリアはエリサベツに会ってこの計り知れない出来事に思いを馳せて、神様に対する歌を歌いました。この歌がルカの福音書1:46-56で記録されています。この歌は、のちにマニフィカートと呼ばれるようになりました。今日はこのマリアのマニフィカートに焦点をあてたいと思います。

ルカの福音書1:46-56
 マリアは言った。

「私のたましいは主をあがめ、
 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
 この卑しいはしために
 目を留めてくださったからです。
 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も
 私を幸いな者と呼ぶでしょう。
 力ある方が、
 私に大きなことをしてくださったからです。
 その御名は聖なるもの、
 主のあわれみは、代々にわたって
 主を恐れるものに及びます。
 主はその御腕で力強いわざを行い、
 心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
 権力のある者を王位から引き降ろし、
 低い者を高く引き上げられました。
 飢えた者を良いもので満ちたらせ、
 富む者を何も持たずに追い返されました。
 主はあわれみを忘れずに、
 そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
 私たちの父祖たちに語られたとおり、
 アブラハムとその子孫に対するあわれみを
 いつまでも忘れずに。

 

 これは神様に対する誉め歌です。これを読むと、旧約聖書に記録された歌や祈りと似ているように見えると思います。多くの人が、マリアのマニフィカートと第一サムエル記2章で記録されたハンナの歌が似ていると考えます。ハンナは、マリアやエリサベツと似た状況に置かれていました。ハンナもエリサベツのように不妊の女で、息子を授かるために神様に祈りました。そして神様はハンナの祈りを聞いてくださいました。また、詩編のいくつかにも、マニフィカートと似た言葉やテーマが出てきます。しかし、マリアがこの言葉を神様に対して歌った時、旧約聖書のものとは違う、さらに深い意味になりました。

 マリアは、神様の救い、あわれみ、また力について歌いました。しかしこの時マリアは、自分のお腹の赤ちゃんが神様のご性質を私たちに新しい方法で明らかにしようとされていることを知っていました。神様は、ご自分がどのようなお方を旧約聖書を通して少しづつ現わされ、説明されてきましたが、イエス様の誕生を通してついに、ご自分をすべての人に完全に明らかにしようとしておられたのです。

使徒ヨハネがイエス様の来臨について、ヨハネ1:17-18でこう言っています。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられる一人子の神が神を説き明かされたのである。

 ですから、マリアの歌を理解するためには、この歌がイエス様について歌った歌だということを頭に置いておかなければなりません。マリアが神様に感謝している理由は、神様がイエス様を送ってくださっているからです。マリアは、神様がイエス様を通してついに実現してくださるすべてのことを考えて、神様を賛美しています。

 この箇所から三つのことを考えたいと思います。

1.      イエス様は神様を恐れる者にあわれみを与えてくださる。

2.      イエス様は傲慢な人を引き下ろし、低い者を高く引き上げられる。

3.      イエス様は飢えた者を満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返される。

 マリアのマニフィカートを読むとはっきりわかることは、イエス様の来臨はある人にとっては良いことですが、他の人にとってはとても悪いことだ、ということです。イエス様は、ある人を高くして、他の人を下げるために来られました。またイエス様は、ある人にあわれみを与えて、他の人に罰を与えるために来られました。ある人にとってはイエス様の来臨は何よりも喜ばしいことでしたが、他の人にとってはとても恐ろしいことでした。イエス様の地上の奉仕の間に、多くの人がイエス様を愛し、多くの人がイエス様を憎みました。ある人はイエス様の到来を喜び、他の人はイエス様を殺そうとしました。

 これを頭に置いて、マリアのマニフィカートを考えていきたいと思います。まず、イエス様が神様を恐れる者にあわれみを与えることについて考えましょう。

ルカの福音書1:50
 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れるものに及びます。

 イエス様は、神様を恐れる者にとっては良い知らせです。マリアは神様を恐れる者の一人でした。その時代の多くのイスラエル人も同じでした。神様を恐れることは、神様のご性質を深く知ることから出てくると思います。神様を恐れることは、神様に対して、尊敬と畏敬の念を持つことに基づいています。神様を恐れない人は、神様を尊敬していないか、神様を知らない人です。

 私は、神様に対する正しい恐れは、神様の力ときよさを思い知ることから出てくると思います。神様がどれほどの力を持っている方かが分かると、神様に対する畏怖に満ちるようになります。神様は宇宙のすべてを創造する力を持っておられます。私は神様が創造した太陽を考えると、畏敬の念を感じます。太陽は地球より数十万倍大きくて、いつも激しい火を燃やしていることで、何百万キロも離れたところからその熱を感じることができます。これはすごい力です。しかしそのようなものを創造された神様の力は、太陽より大きいのです。しかも太陽は、神様が創造された何百万もの星のうちの一つにすぎないことを考えれば、神様の力が信じられないぐらい大きいことが分かります。自分を神様と比べると、本当に小さな存在であることが分かります。神様の前に立つのは、宇宙のすべての星の力より大きな力の前に立つことです。そのような力と出会うのはとても恐ろしいことです。

 しかし、神様に対する正しい恐れは、神様の力を分かることだけを通することではありません。神様のきよさを理解することからも出てくると思います。神様は完全にきよいお方です。神様は正しくないことを一つもされません。正しくない思いを一つも持たれません。神様は私たちと違って、完全な道徳的純粋さを持っておられます。私は罪人なので、そのようなきよい神様の前に立つ権利がありません。神様は出エジプト記33:20で、こう言われました。「私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。

 神様に対する正しい恐れは、神様がどういうお方か、自分がどういう者かを知ることから出てきます。神様を恐れる者は、自分の弱さと小ささを思い知り、また神様の力と栄光も思い知っている者です。

 主を恐れる者は、神様から何を受けるのでしょうか。主のあわれみです。主を恐れる者は、主のあわれみが自分に必要だということが分かります。あわれみとは何でしょうか。一つの定義は、同情の心を行動に移すことです。誰かがあわれみが必要とする時というのは、その人がつらい状況にいる時でしょう。たとえば誰かが犯罪を犯した時、その人は裁判官からのあわれみを必要とするでしょう。また、浮気した夫は妻からのあわれみが必要でしょう。また物乞いをする人は、そばを通りかかる人々からのあわれみが必要でしょう。そして、誰もあわれみが必要な状況に陥りたくはないのです。あわれみが必要な人は、あわれみを与える人の下にいます。あわれみが必要になることは恥ずかしいことだと私たちは考えます。一方で、あわれみを受けた結果は最もうれしいことでしょう。つらくて恥ずかしい状況から救われるのはとても素晴らしいことです。

 すべての人が神様のあわれみを必要としていますが、神様を恐れる人がそれを受けます。イエス様が神様のあわれみを明らかにされました。神様は私たちの罪や弱さ、また恥を見て、私たちをあわれみ、イエス様を送ってくださいました。イエス様が、神様を恐れる者に必要なものを与えてくださったのです。イエス様が私たちの罪の罰を受けて、十字架で死んでくださいました。そして神様を恐れる人の恥を取り除いてくださいました。マリアは、自分のお腹の中に与えられたイエス様が、神様のあわれみをもたらすことを喜び、神様に感謝しました。

 しかし、神様のあわれみが必要だということを認めるのはとても難しいことですね。それをするためには、謙虚になる必要があります。それが二つ目の点です。

 イエス様は傲慢な人を引き下ろし、低い者を高く引き上げられる。

ルカの福音書1:51-52
 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。

 傲慢はとても重大な罪で、神様が非常に嫌われるものです。多くの神学者は、傲慢が最初の罪だと考えています。サタンが神様より自分が栄光を持っていると考えて、その傲慢ゆえに罪を犯したということです。神様が傲慢を嫌われる理由は、神以外の者が、神様の栄光でなく自分の栄光を求めることだからです。私たちは神様に創造された者で、私たちの存在する目的は創造者の栄光を現すことです。ですから、神様の栄光ではなく私たち自身の栄光を求めるのは、最も相応しくないことなのです。それだけではなく、傲慢は周りの人を侮辱したり、支配したり、傷つけることをさせます。ですから神様は傲慢の罪を憎んでおられ、イエス様に、心の高ぶる者を追い散らせて、権力のある者を王位から引き下ろす権威を与えられました。

テサロニケ人への手紙第二1:7-10
 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れる時に起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に、罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることになります。その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。

 イエス様の来臨は、神様の上に立とうとしている人、神様に敵対する人の裁きをもたらすものでした。イエス様は地上の奉仕の中で、傲慢に満ちた律法学者と議論し、彼らを裁かれました。将来イエス様が戻られる時には同じように、神様を認めない人を引き下ろして、裁かれます。しかし、低い者を高く引き上げてくださいます。

 先ほど、神様のあわれみを受けるためには謙虚さが必要ということを学びました。神様に対する正しい恐れも、謙虚な心から出てきます。私たちの本当の状態は、とても低い状態です。それを告白して、神様を恐れ、神様のあわれみを求める者が、イエス様から高く引き上げていただけるのです。

 それを考える時に私たちの中に自然に出てくる疑念は、もし自分を高く上げないで謙虚な心を持ったら、尊敬や名誉を得られなくなり、周りから見下されるのではないか、ということです。また、もし恥ずべき罪を犯して、その弱さと罪を告白したら、恥を負わされるのではないか、ということです。しかし、イエス様を通して罪を告白することのできる、神様のあわれみを受ける人は、イエス様から卑下(ひげ)と恥ではなく、赦しと名誉をいただきます。

 多くの場合、傲慢は自分の恥を隠すためのものだと思います。私たちが自分を恥ずべきものと感じる時、自分の罪と弱さに向き合いたくなくて、周りの人間から尊敬されるために、自分の強さを誇示してしまう時があります。しかし、これは間違った考え方です。私たちの恥を取り除き名誉を受けるためには、神様の前にへりくだり、イエス様からの名誉を受けるしかないのです。私たちの恥を消して高くしてくださるのは、イエス様だけです。

 最後に、イエス様は飢えた者を満ち足らせ、富む者を何を持たせずに追い返される、ということについて考えたいと思います。

ルカの福音書1:53
 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。

 イエス様は地上の奉仕の間、富や権力を持っている人ではなくて、貧しい人、病気の人、見下(みくだ)され村八分(むらはちぶ)にされている人と多くの時間を過ごされました。ルカの福音書16章でイエス様が話された、興味深い話が記録されています。ラザロという物乞いの人が、あるお金持ちの人の家の外に置かれました。ラザロは病気や飢えに苦しんでいましたが、お金持ちの人は贅沢な暮らしをしていました。しかし二人が死んだ後、ラザロは天国に行き、お金持ちの人は地獄に行きました。お金持ちの人は、自分の今の人生の幸せだけを求めて、神様を恐れることをせず、自分は神様から何も必要としていないと考えていました。しかしラザロは神様からあわれみを求めて、神様に信頼しましたので、地上の人生の中では苦しみを経験しましたが、最後には神様がイエス様を通してラザロの罪を赦し、天国まで高く上げてくださいました。お金持ちの人は最終的にすべてを失って、永遠の苦しみを受けましたが、地上の人生で苦しんだラザロは永遠の充足を与えられて、神様の救いと喜びを受けたのです。

 イエス様は貧しい人に手を差し伸べ、病気の人を癒すために来られました。地上の奉仕の間に、たくさんのみわざによって人間の苦しみを癒されました。しかし、イエス様は私たちの肉体的な必要を満たすためだけに来られたのではありません。肉体的な必要より、霊的必要を満たすことの方が大事なことです。神様を知り、神様に愛されることは、体の必要が満たされることより私たちにとってはるかに必要です。イエス様は、この霊的必要を満たすために来てくださったのです。

 この世は、自分は神様から何も必要としていないと思っている人に満ちていると思います。イエス様は、このような人を追い散らされると聖書は言っています。しかし神様への飢え渇きを持っている人は、イエス様によって満たされることができるのです。

 マリアはこのようなことを考えて、喜びました。マリアは、神様が彼女のお腹の赤ちゃんを通してこれらすべてのことをついに実現してくださることを理解していました。自分のお腹の赤ちゃんが、神様を恐れ、神様を待ち望んでいる謙虚な人に、あわれみと名誉と充足をもたらすことを確信していました。それだけではなくて、お腹の赤ちゃんが、神様を尊敬しない人を裁き、傲慢な人を引き降ろして、神様ではなく富に満足を見いだしている人々の富を取り除くことも確信していました。マリアは神様をそのすべてのことのゆえにほめたたえました。