共に苦しむために来られた

イザヤ書53章4-6節

ロビソン・デイヴィッド
2021年12月19日

 あと数日で、世界中の人々に祝われているクリスマスがやってきます。私の出身地であるアメリカでは、クリスマスは一年で最も楽しいお祝いの時です。道も、お店も、家々も、色とりどりのイルミネーションやオーナメントで飾られ、クリスマスソングがあちこちから聞こえてきます。人々は友人や家族と一緒に過ごし、お互いにプレゼントを贈り合います。そして、みんなで「メリー・クリスマス!」と言い合います。「メリー」とは、英語で「幸せな」「喜びに満ちた」という意味の言葉です。

 ですから、故郷のアメリカから遠く離れたここ宮古でも、人々がクリスマスを祝っているのを見ることは、私にとってとても嬉しいことです。宮古でも、あちこちでクリスマスの飾りを見かけますし、お店に行くとクリスマスソングが流れています。

 クリスマスは一年で一番幸せな時だと言われる一方で、実は多くの人にとっては、寂しさや悲しさを感じる時でもあります。自分が辛い思いをしているのに、他の人が祝っているのを見ると、より孤独を感じてしまうかもしれません。しかし、クリスマスの本当の意味、つまりイエス・キリストの誕生を祝うということの意味に目を向けると、クリスマスは苦しんでいる人々にこそ、大きな希望と慰めを与えてくれることに気づくことができます。

 今日は、なぜイエス・キリストの誕生を祝うことがすべての人にとって喜びの時となるのか、そして、特に苦しんでいる人たちにどのように希望を与えるのかについて、今から少しの時間、考えてみたいと思います。

 今日ご紹介する聖書の箇所には、イエス様について驚くべき真実が語られています。イエス様の人生は、地上に生まれた時に始まったのではない、というのです。

 

ピリピ人への手紙2章6-7節
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」

 この箇所から分かることは、イエスは生まれる前から神の姿をしており、神と同等であったということです。ヨハネによる福音書1章にも、他のすべてのものが存在する前に、イエスは神と共におられ、また神であったと記されています。これは謎めいたことですが、私はクリスチャンとして、すべてを創造された唯一の神がおられ、この唯一の神が父、子、聖霊という3つの位格で存在されることを信じています。この子なる神というのが、イエス・キリストのことです。

 聖書は、神であるイエス様は永遠に存在しておられると教えています。イエス様は神によって創造されたのではなく、私たちを含むすべてのものを創造された神ご自身だというのです。はるか昔に、良いものとして造られた人間は、罪によって堕落してしまいました。そして罪のために、苦しみと死が私たちの世界に入ってきました。しかし、イエス様は天から人間の堕落と苦しみを見て、私たちを救うために地上に来ることを選ばれました。そして、驚くべき方法で、それを実行されたのです。

 今日お読みした箇所には、イエス様は神の御姿であられるとありま す。つまり、肉体を持たず、無限の力と栄光に満ちた霊なのです。イエス様は霊ですから、衰えたり死ぬことがなく、何 もの にも傷つけられたり、脅かされたりすることがありません。飢えや渇きを感じることもなく、どんな必要も経験することがありません。むしろ、私たちのすべての必要を満たしてくださるお方です。豊かに満たされ、善意に溢れているお方です。しかしイエス様は、その素晴らしい姿を捨てて、代わりにしもべの姿をとり、人間の赤ん坊として生まれることを選ばれたのです。

 クリスマスに私たちが祝っているのは、神が私たちの苦しみを見て、全能の霊としてではなく、弱く、無力な赤ん坊として私たちの世界に入ることを選んだということです。神様は、私たちの世界に入り、私たちと一緒に苦しむことで、私たちを苦しみから救おうとされました。

 イエス様は生涯を通して、飢えと渇きを経験されました。親しい友人の死による悲しみも経験されました。病気や、病気がもたらす破壊的な影響を目の当たりにされました。周りからの大きな期待や要求に直面し、親しい友人からの裏切りも経験されました。そして、人間としての生活の最後に、イエス様は犯しても いない 罪の 濡れ衣を 着せられ、拷問を受け、公然と辱めを受け、公開処刑されたのです。イエス様は、人が経験したことのないような痛みと苦しみを、死の間際に経験されました。しかし、そのような苦しみに負けることはありませんでした。そして、死と罪と苦しみを打ち破り、私たちのために勝利して、よみがえられたのです。

 なぜでしょうか?なぜ神であられる方が、わざわざ天を離れて、私たちのように弱い存在になられたのでしょうか?聖書のイザヤ書という書物の中に、その答えがあります。

イザヤ書53章4-6節
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」

 イエス様は、私たちと同じように苦しみ、私たちの悲しみと嘆きを背負うために来られました。苦しみは、しばしば非常に孤独なものです。私たちは苦しみの中にある時、誰もそばに来たがらないように感じることがよくあります。あるいは、自分の苦しみから人を守るために、みずから孤立しようとするかもしれません。しかし、イエス様は私たちの苦しみを知っておられ、私たちと共に苦しんでくださり、苦しみから救い出してくださるために来られたのです。

 聖書に記されているイエス様のもう一つの名前は、「インマヌエル」です。それは「私たちとともにおられる神」という意味です。イエス様は、その名前の通り、私たちとともにおられるためにこの世にお生まれになりました。

イエス様は私たちと共に歩み、私たちの苦難を共にし、私たちを愛し、私たちが完全な者となることを願い、私たちが永遠に神と共にいることを望んでおられます。クリスマスにクリスチャン達は、その希望がもたらされたことをお祝いしているのです。

イエス様は私たちと同じように苦しまれました。イエス様は私たちの罪が原因で苦しまれました。そしてイエス様が苦しまれたのは私たちをその罪から救うためだったのです。

イエス様は、私たちが経験するすべての苦しみ、そしてそれ以上の苦しみを経験されました。 私たちの罪の結果である罰をご自身で受けて、苦しまれたのです。イエス様は私たちを愛し、私たちを救いたいと願っておられるからこそ、私たちのために苦しまれました。

 イエス様は天を離れて私たちと同じようになり、私たちのすべての痛みと弱さを経験されました。私たちを、ご自分のように、いのちと不滅と完全な喜びに満ちた者とするために、天を去って地上に来られました。これこそ、クリスマスが私たちに与えてくれる希望なのです。イエスは私たちの苦しみを知っておられます。ご自身もそれを経験されたからです。私たちが苦しみを経験するとき、イエス様は私たちの近くにおられます。またそれだけでなく、私たちに代わって苦しみをすでに克服してくださったのです。この喜ばしいクリスマスの時期に、苦難を経験している人にも、楽しい時を過ごしている人にも、キリスト・イエスにある平安と喜びがありますように、祈りたいと思います。