福音にふさわしい生活

ピリピの信徒への手紙1章27~28節

ロビソン・デイヴィッド
2021年12月26日

ピリピの信徒への手紙1章27~28節
「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」

 

 私がこれまでの人生で気づいたことの一つは、物事は決して単純ではないということです。困難な状況に直面している時は特にそうですが、比較的平穏な時でも、私たちは様々な責任に圧倒されてしまいがちです。神様に仕える時間が足りないと感じたり、神様は私たちに何を望んでおられるのだろうと考えたりすることもあります。また、試練に直面した時には、この状況で私たちに何ができるというのですか、と神様に問うこともあります。

 これは、個人のレベルだけではなく、教会全体にも言えることだと思います。多くの日本の教会は、私たちの教会は小さすぎて、キリストに与えられた大きな使命を達成できないと感じているかもしれません。私たちは、働きが期待したような実を結ばないと、落胆するかもしれません。 個人的な生活においても、教会生活においても、私たちはしばしば、どうしたらいいのか分からなくなってしまうことがあると思います。

 そのような困難な状況の中で混乱する時に、私たちが最も必要としているのは、信仰の基本的な教えを思い出すことです。今日の箇所でパウロがピリピの教会に与えたのは、まさにこのことでした。パウロの励ましは非常にシンプルなものでしたが、実行するのは難しいかもしれません。しかし、悩んでいる人にとっては、このような励ましは、暗闇の中で輝く光のようなもので、神様が望まれる場所へと導いてくれます。 

 ピリピの教会は、いくつかの困難に直面していました。教会の外からの迫害と、教会の中での対立です。迫害は、パウロが教会を設立してすぐに始まりました。パウロが福音を伝えたことで、ローマの法律を破ったとして逮捕されたのです。それ以来、ピリピ教会には多くの敵がいました。

 さらに、教会の内部にも分裂がありました。パウロは、ピリピ4章2節で、教会の二人の女性に、主にあって互いの意見の相違を解決するようにと言っています。外部からの反対や内部での対立に直面していたピリピの人々は、励ましや知恵を必要としていました。

 今日見ている箇所で、パウロはピリピの人たちに、これらの課題にどう立ち向かうべきか、短いけれども力強いアドバイスをしています。パウロがピリピ人に伝えているのは、このような状況下で行うべき3つのことです。

1.           キリストの福音にふさわしい生き方をしなさい

2.           福音の信仰のために、一致して堅く立ち、共に戦いなさい。

3.           相手を恐れてはいけない

 この励ましは、2,000年前のピリピのクリスチャンにも、現代の宮古で生きるクリスチャンである私たちにも、同じように当てはまると思います。

 まず、パウロはピリピの人々に、キリストの福音にふさわしい生き方をするように教えています。

ピリピ人への手紙1章27節a
「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」

 ここでパウロは興味深い表現を使っています。「ふさわしく生活しなさい」という所で使われているギリシャ語は、「立派な市民として行動しなさい」という言葉です。ピリピはローマ帝国の植民地だったので、そこに住む人々はローマ市民権という名誉と特権を与えられていました。このことは、ピリピの人々にとって誇りでした。パウロはこのことに関連づけて、クリスチャンが神の国とどのように関わっているかを説明しているのです。パウロは、ピリピ3章20節で再びこの同じテーマを取り上げます。

ピリピの信徒への手紙3章20節
「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」

 ピリピの人々は、ローマ帝国の良き市民であることを誇りに思っていました。彼らはローマの法律を守り、ローマの文化と秩序の良い代表者であろうとしていました。しかし、パウロはピリピの人々に、彼らの本当の市民権、つまり国籍は、天にあることを思い出させているのです。彼らがローマ市民の模範となろうとしたように、彼らは天の模範となるべき市民であり、彼らが宣教のために召された福音のメッセージにふさわしい者でなければならないと言っているのです。

 福音にふさわしい生き方には2つの目的があると思います。まず第一に、それはキリストへの私たちの愛と献身を表す方法です。イエス様の教えに倣って正しい生活をすることは、それ自体が礼拝の行為であり、イエス様への献身を示すことです。それは、神の王国の市民とされた名誉に対する感謝の気持ちを示すものです。

 福音にふさわしい生き方の二つ目の目的は、私たちの周りにいるクリスチャンではない人々に、天の御国がどのようなものかを明らかにすることです。ピリピの人々は天の市民でしたが、地上の王国に住んでいました。彼らは故郷から遠く離れた国に住む外国人のようなもので、天の御国という故郷の代表として生活していたのです。

 私は、クリスチャンとしての人生のこの側面にとても共感しています。私はアメリカの国民ですが、日本の宮古市に住んでいます。宮古で出会うほとんどの人にとって、私は唯一のアメリカ人です。ですから、宮古の人たちは、私を見て私の国全体を判断するのではないでしょうか。もし私が失礼で大声を出していたら、アメリカ人はなんて失礼なんだと思われるでしょう。しかし、私が親切にすれば、アメリカ人全体に対して好意的な印象を持つようになるかもしれません。

 パウロはピリピの人々に、自分たちが伝えている福音が良い評判を受けるような生き方をしなさいと教えています。ピリピの人達は、ピリピのクリスチャンの生き方を通してしか、キリストのことを知ることがないからです。現代の私たちにも同じことが言えます。

 クリスチャンとして私たちは、キリストとその福音に対する深い愛と献身を持ち、キリストのすべての良さを示す生き方をしなければなりません。私たちは、自分が宣べ伝える福音と矛盾しない人生を送らなければなりません。私たちは、キリストの義を反映した、義の生活をしなければなりません。私たちは、私たちの王であるイエス・キリストがいかに尊い存在であるかを明らかにする、熱心なクリスチャンでなければならないのです。

 パウロがピリピの人々に伝えている第二のことは、完全に一致して、福音の信仰のために堅く立ち、戦わなければならないということです。

ピリピの信徒への手紙1:27b
「あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、」

 ここでパウロはピリピの人々に、彼らが何をすべきか、そしてそれをどのようにすべきかを、教えています。すなわち、福音の信仰のために堅く立って戦うこと、そして、一つの霊と一つの心で共にそれをすることです。ピリピの人々は、自分たちの町で福音を宣べ伝えるという任務を与えられていましたが、厳しい反対に遭っていました。これは、一人の力ではどうにもならない大きな問題でした。教会の他のメンバーと一緒に働くことで得られるサポートが必要だったのです。

 まず、パウロがピリピ人に伝えていることを見てみましょう。パウロは、「堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦う」ことを教えています。「堅く立つ」というのは毅然とした態度をとるということで、自分たちに向かってくる反対勢力に抵抗しなければならないということです。彼らは、自分の信仰について黙っているか、あるいは完全に放棄するように迫られていました。その要求に負けたり、沈黙に追いやられたりする誘惑に抵抗しなければなりませんでした。しかし、ただ立っているだけでは十分ではありません。パウロはまた、福音の信仰のために戦わなければならないと伝えています。ここで「戦う」と訳されている言葉は、ギリシャ語でスポーツの競技を表す言葉としてよく使われます。スポーツの試合では、負かそうとする相手がいて、勝つために努力をします。キリストに従うという召しは、ある意味で勝負に参加することを意味します。私たちは、人間の敵や霊的な敵と戦うことになり、それらの敵に勝つために努力しなければならないのです。福音のために戦うことは、多くの部分を含んでいます。それは、私たちが教義の純粋さを守り、誤りのない福音の真理を知り、教えるために努力することです。また、対立する意見に対して、福音の真理を主張することです。そして、私たちを黙らせようとする人がいても、福音を宣べ伝え続けることです。これらのすべてのことにおいて、私たちは色々な人達と対立することになり、それはとても難しいことですが、これこそがキリストが私たちに求めていることなのです。実際、次の節でパウロはそのことを指摘しています。

ピリピ人への手紙1章29節~30節
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。かつて私について見て、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、あなたがたは経験しているのです。」

 

 キリストは、パウロを苦闘に召されたように、私たちを苦闘に召されたのです。私たちは、競技、戦い、そして苦闘に召されており、勝利するために努力するように召されました。しかし、この戦いは、ある方法で戦わなければなりません。それは、同胞である他のクリスチャン達と一致して戦うことです。

 キリストが私たちに与えてくださった召しをスポーツに例えるなら、陸上競技のような個人競技ではなく、チームスポーツに近いと思います。戦いに例えるなら、1対1の剣闘士の戦いではなく、軍隊同士の戦いのようなものです。チームの作戦から外れて個人の技で勝とうとしたり、軍隊と離れて一人で戦おうとすれば、必ず負けてしまいます。

 キリストはパウロを通して、ご自身に従う者たちに一つの霊、一つの心を持つように呼びかけておられます。つまり、キリストが具体的に私たちに何をするように求めているのか、そのためにどのように協力していくべきなのか、ということについて、合意しなければならないということです。自分の安全と利益だけでなく、お互いの安全にも気を配らなければなりません。私たちは一人一人、長所も短所もある人間です。好みや考えもそれぞれです。しかし、敵に立ち向かうために、また、キリストが召された戦いで勝利を得るためには、私たちの考えや行動が統一されなければなりません。

 この一致は、キリストによってのみ得ることができます。私たちは、単に同じ計画に同意するのではなく、キリストの計画に従うことに同意することを目指しています。バラバラの私たちが同じ考えを持つようになるためには、私たち一人一人がキリストの考え方に合わせることが必要です。パウロはこのことを次の章ではっきりと述べています。

ピリピ人への手紙2章5節
「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」

 また、第一コリント2章16節では、「私たちはキリストの心を持っています」と大胆に述べています。

 私たちがキリストの教えに思いをめぐらし、キリストの命令に従い、キリストを礼拝し、キリストの導きを求めて祈る時、私たちの心はキリストに似てきます。このプロセスの重要な部分は、教会の他のメンバーとの交わりです。私たちは、神のみことばから互いに励まし合い、罪に陥っているのを見たら愛をもって警告し合い、みこころにかなった助言やアドバイスを与え合うのです。私たちがキリストの教えを自分の生活の中で実践し、仲間のクリスチャンからキリストの教えを繰り返し聞き、また他の人にキリストの教えを伝えることによって、私たちはキリストの心を持つようになり、聖霊において一つになるのです。そうして初めて、私たちは一致して福音の敵に立ち向かい、福音の信仰のために共に戦うことができるのです。

 最後にパウロはピリピの人々に、敵を恐れてはいけないと語ります。

ピリピの信徒への手紙1章28節
「どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。」

 ピリピの人々が福音の立派な市民として生活し、キリストのもとで霊と心を一つにして、福音の信仰のために堅く立ち、共に戦っているなら、向かってくるどんな敵も恐れる必要はないというのです。実際、キリストの教会がこのような生き方をするようになれば、福音に反対する人々の心に畏怖を与えるようになります。このような大胆さや、団結力と力は、福音の真理を明らかにし、福音に反対する人々にキリストに服従するように呼びかけます。

 福音は、良い知らせと救いのメッセージです。しかし、それは同時に、耳を傾けようとしない人たちに訪れる危険の警告でもあります。多くの人は、福音が語られるのを聞いただけでは、深く考えずに拒絶するでしょう。しかし、聖霊がクリスチャンの人生を変え、一致させ、反対に直面しても大胆に勝利して福音を宣べ伝えるように力づける時、福音の敵はそれが真理であると認めます。そしてクリスチャン達は、自分たちの中でキリストが働いており、自分たちの救いが真実であるという確信に満たされるのです。

 私たちは日々、敵や反対勢力に直面しています。それは人生における困難な状況で、キリストとその善良さから目を離すように私たちを誘惑するかもしれません。また、福音を語ることで他の人から何か言われたり、心の中で拒絶されるのではないかという恐れもあります。そのような時には、キリストが私たちに与えてくださった大きな栄誉を思い出しましょう。キリストは私たちに天の市民権を与えてくださり、最も輝かしく力強い王国での永遠の命を約束してくださったのですから、その市民権にふさわしい生き方をして、私たちの偉大な王の栄光を、周りの世界に示していきましょう。