悲しみを喜びに

ルカの福音書1:5-25

ロビソン・デイヴィッド
2020年12月 6日

 今日はアドベントの二週目です。アドベントがイエス様の誕生をお祝いする準備時間だということは、みなさん知っていると思います。アドベントは、ラテン語で「来る」という意味の「アドベンタス」という言葉から来ていて、イエス様が来ることを待ち望む期間です。そしてアドベントには、イエス様の誕生を待ち望むだけではなくて、イエス様がもう一度この世に来られることを待ち望むという意味もあります。私たちはこの季節に、イエス様がこの世にお生まれになってくださったことを覚えるだけでなく、イエス様が将来また来られることにも思いを向けたいと思います。

 今日からクリスマスまで、ルカの福音書の1章と2章を学びたいと思います。この箇所から分かることの一つは、イエス様が来られた時代のユダヤ人たちが、神様が約束された救い主を強く望んでいたということです。神様はご自分の約束を守って、イエス様を送ってくださり、ユダヤ人の希望を実現してくださいました。私たちも今、その実現された祝福をお祝いし、また、その時代のユダヤ人と同じように、神様がご自分の約束を守って、ご自分の王国を確立するためにもう一度イエス様を送ってくださることを心から待ち望みます。

 これからの三週間の間に、ルカの福音書1章と2章で記録された、イエス様の誕生の場面を学びたいと思います。今日はバプテスマのヨハネの両親である、ザカリヤとエリサベツの話を見たいと思います。旧約聖書の預言者たちは、救い主が現れる前に、エリヤのような預言者が来て、救い主を迎える道を準備すると預言しました。バプテスマのヨハネは、その預言の成就でした。

 イエス様の誕生の場面を読むと、一つの大きなテーマが見えてきます。それは、神様がご自分の素晴らしい計画を達成するために、謙虚でいやしい身分の人々を通して働かれたということです。神様は、この世で見下されている人を選んで、一番素晴らしい祝福を与えられました。

 今日の箇所の中で、この真実を表わす二つの例を見ることができます。一つはイスラエルの国です。イスラエルはローマ帝国に征服されて、抑圧されていた民族でした。周りの民族は、ユダヤ人を見下していました。ユダヤ人は、ローマ帝国から解放されたいと強く望んでいました。ルカの福音書1章5節から、この状況を読み取ることができます。

ルカの福音1:5

ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

 その時代、イスラエルはヘロデ王によって支配されていましたが、ヘロデはユダヤ人の王ではありませんでした。ヘロデは実はローマ帝国が選んだエドム人でした。エドム人というのは、イスラエルの昔からの敵の一つでした。イスラエル人が強く望んでいたことは、神様が自分たちを救って、独立国家としての地位を回復するということでした。神様は昔からイスラエルに素晴らしい事を約束されました。イスラエルを偉大な国にすると約束され、また、イスラエルから偉大な王が出てきて、永遠の国を確立し、すべての国々を祝福するとまで約束されました。しかし、イスラエルは神様の律法に従わず、神様が送った預言者を殺して、神様の代わりに他の神々を礼拝してしまいました。イスラエルは神様を拒んでしまったのです。その結果、神様はイスラエルを罰して、彼らが敵に征服されるのを許されました。イスラエルは自分の罪によって恥を受けました。

 しかしその後、彼らは神様に立ち返ろうとしました。神様の神殿を建て直して、神様の律法に従い始め、神様だけを礼拝するようになりました。そして神様に、ご自分の約束を思い出して、救い主を送ってくださいと、叫んでいました。しかし何百年もの間、神様は黙っておられました。イスラエルの人々は恥の中にとどまり、神様の救いを待ち望んでいました。しかし今日の箇所の中で見られるのは、神様がやっとイスラエルの救いをもたらしてくださる、という場面です。

 神様が謙虚で卑しい身分の人々を通して働かれるということの二つ目の例が、ザカリヤとエリサベツです。

ルカの福音書1:6-7
 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落ち度なく行っていた。しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

 ザカリヤとエリサベツは子供を切望していましたが、エリサベツは不妊の女性で、長年子供をもうけようとしましたが、与えられませんでした。この時には二人とも老人になっていたので、子どもを産む機会を逃したように見えました。なぜ神様は、ザカリヤとエリサベツに子供をくださらなかったのでしょうか。ザカリヤとエリサベツは神様の前に正しい人達で、主のすべての命令に従っていました。彼らは子どもをくださいと神様によく祈っていましたが、神様は沈黙されていたようです。

 これはエリサベツにとって特につらいことでした。その時代、不妊であることは恥すべきこととされていました。ユダヤ人は家系を続けることをとても大事にしていたので、不妊の人は見下されていました。ユダヤ人にとって、結婚して子どもを産んで、子どもに神様の命令を教えることは、非常に重要なことでした。子どむを生むことができないことはエリサベツのせいではないのに、エリサベツは恥を感じていました。二人は、なぜ神様は自分達の祈りを聞いてくださらないんだろうと悩んでいたと思います。

 彼らは老人になり、神様が子どもをくださる希望を無くしていたかもしれません。そしてイスラエル人も、同じように感じていたと思います。長い間、神様の救いを求めて祈ってきましたが、神様は祈りに答えてくださいませんでした。神様が沈黙されているように思えました。

 しかし今日の箇所で、神様がついに沈黙を破って、ゼカリヤとエリサベツの祈り、また同時に、すべてのイスラエルの祈りにやっと応えてくださるのです。

 この箇所から神様について、三つの真理が分かると思います。

 一つ目は、神様の忠実さです。神様はご自分の民を決して忘れず、ご自分の約束を必ず守るお方です。民が忠実でなくても、神様はご自分の民に忠実なお方です。神様はゼカリヤに対しても、またイスラエルに対しても、忠実に約束を守られました。

ルカの福音書1:13
 御使いは彼に言った。「恐れることはありません。ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネをつけなさい。」

 神様は、忠実にゼカリヤの願いを聞き入れました。しかし、ゼカリヤは神様に忠実だったでしょうか。18節によると、彼は神様を疑っていたようです。神様に祈ってはいましたが、神様がその祈りに応えてくださると信じる信仰を持っていませんでした。何年も前に、子供のために祈ることを辞めていたかもしれません。

 不思議なことに、ゼカリヤが神様の前で正しく、神様の命令を守る人だったと書いてあるのに、御使いガブリエルから神様の言葉を聞いた時、彼は神様を疑ったと記録されています。ゼカリヤは良い人でしたが、弱さと不信仰にも満ちている人でした。神様が御使いを送ってくださったのに、ゼカリヤは神様が子どもを下さることを疑いました。ゼカリヤは、それは無理なことだと考えたのだと思います。私と妻のエリサベツは子供を産むには年を取りすぎているし、神様でもそれはできないだろうというように、神様の力を疑ってしまったのです。

 しかし、一番不思議なことは、ゼカリヤが不信仰で神様を疑ったのにも関わらず、神様がゼカリヤの祈りを聞いてくださったことです。神様はご自分の約束に忠実にゼカリヤを祝福し、その祝福を通して彼の信仰を強めて、回復してくださいました。

 これは私たちにとって大きな励ましとなることだと思います。私たちの中にも、神様に長い間祈って願っているけれども、神様が応えてくださらないように見えて、祈ることをあきらめかけている人がいるかもしれません。または、神様に祈って何かを願っていても、神様が祈りを聞いてくださると信じる信仰がないかもしれません。しかし、神様はいつもご自分の民の祈りを聞いてくださっているのです。

 神様が私達の願いを聞いてくださらない理由は、二つだけあると思います。一つは、私たちがみこころにかなわないことを願っているからです。神様は私たちを愛しているので、私たちに良くないものをお与えにはなりません。二つ目の理由は、今は相応しくないタイミングだけど、今ではなくて将来にその願いが与えられた時に、私たちがもっと素晴らしい祝福を受けるからです。神様は私たちに一番良い祝福を与えてくださるので、その機会を待っておられることがあると思います。

 同じように、イスラエルの願いも、神様はふさわしいタイミングで与えてくださいました。ゼカリヤは神様の応えを数十年待っていましたが、イスラエルは神様が救い主を与えてくださることを何世紀も待っていたのです。

ルカの福音書1:17
 彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。

 ここでガブリエルは、マラキ書4:5-6を引用しています。これはユダヤ人によく伝わっていた預言の一つでした。マラキによると、神様が救い主を送ってくださる前に、エリヤのような預言者を送って、その預言者が救い主の道を準備するという約束がありました。ガブリエルがここで言っているのは、ゼカリヤの子どもがその預言者になるということです。つまり、神様が約束された救い主、イスラエルの永遠の王がもうすぐ来るということです。神様は、ゼカリヤが個人的に強く望んでいたことと、イスラエル全体が長年にわたって深く望んでいたことを、こうして同時に与えてくださったのです。

 この素晴らしい恵みが、神様についてもう一つの真理を表していると思います。それは、神様は悲しみを喜びに変えてくださる方だということです。

ルカの福音書1:14
 その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。

 ゼカリヤとエリサベツは長年悲しみを感じていました。この悲しみを親戚や友達から隠して、何もないふりをしていたかもしれません。しかし心の中では、悲しみ、恥、神様に対する疑いと戦っていたはずです。しかし、神様は二人の悲しみと恥じを取り去って、それを喜びに換えてくださいました。

 神様は悲しんでいる人に寄り添って、顔を上げることを喜ばれる方です。神様は、貧しく心の折れた人を祝福することを喜ばれます。また神様は、悲しみを喜びに変えることを喜ばれます。この真理は、聖書全体を通して見られることですが、この真理を一番はっきりと見ることができるのが、イエス様の復活だと思います。イエス様はとてもつらい苦しみ、恥、また敗北を経験して、死の苦しみすら受けましたが、死から復活され、たくさんの人々を救って、命と名誉、威厳と栄光を受けられました。

 ゼカリヤとエリサベツは、長年の悲しみを経験したからこそ、最後に受けた喜びは大きなものだったと思います。もし神様が、ゼカリヤとエリサベツが結婚したばかりの時に子どもを与えられたとしたら、彼らはそれは普通のことだと思ったはずですが、子どもを産む望みが無くなった後に神様から子供を授かることは、とても素晴らしい驚くべき出来事でした。また、彼らの子どもが神様のご計画の中でとても重要な役割を与えられて、彼を通して人々に祝福が与えられることを知らされて、ゼカリヤとエリサベツの喜びはさらに増したことでしょう。そのタイミングで神様の祝福を受けたことによって、それまでの悲しみに深い意味があったこと、神様の素晴らしいご計画を実現するために必要なことだったことが分かったと思います。そして、その苦しみを振り返って神様の素晴らしい恵みを覚えて、神様にある喜びをさらに感じたでしょう。神様は恵み深いお方なので、愛するゼカリヤとエリサベツにこの最高の喜びを与えるために、このタイミングで、この方法で、彼らの願いを与えてくださったのだと思います。

 しかし、神様の目的は、ゼカリヤとエリサベツが子どもを授かることだけではありませんでした。それは神様の究極の意図ではありませんでした。この箇所で、神様についてもう一つの真理が分かると思います。それは、神様は人々をご自身の元に立ち返らせる計画を持っておられるということです。

ルカの福音書1:16-17
 イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。

 これが神様の計画のメインの部分です。私たちが神様に祈る時、色々な理由があると思います。私たちは人生の中で様々な難しさに直面するので、神様の助けが必要です。ですから私たちの祈る目的は、多くの場合は、自分にとって必要なことを受けることです。神様は良い父親のようなお方で、私たちを助けることを喜ばれるので、私たちの祈りを聞いて、答えてくださいます。しかし同時に、神様はご自分の素晴らしい目的も持っておられます。今日読んだ箇所の中では、神様はゼカリヤの願ったものを与えることを通して、ご自分の最も素晴らしい計画を実現されました。ゼカリヤは神様のご計画を知らず、ただ子どもを望んでいましたが、神様の計り知れない恵みによって、ご自分の目的とゼカリヤの望みを同時に実現されたのです。

 神様のご目的は何でしょう。神様の大きなご目的は、罪人を救うことを通して、ご自分の栄光を表すということです。不思議なことに、神様はご自分の栄光を表すために、罪を犯した私たちの一番深い必要を満たしてくださいました。すべての人にとって一番深い必要は、自分の罪を赦されて、自分の創造者、また自分の救い主である、神様を知ることです。神様は人の悲しみを喜びに変えることを喜ばれる良いお方なので、神様がご自分の目的を実現される結果、私たちの喜びが増し加わるのです。人間が体験することのできる最大の喜びは、神に受け入れられることだからです。

 私たちには、そのような喜びを知る望みがありませんでした。私たちは神様に対して罪を犯して、神様を怒らせていました。私たちはイスラエルのように、また、ゼカリヤのように、神様から私たちの必要を満たしていただく希望のなかった者ですが、神様は恵み深いお方なので、私たちを救うために、イエス様をこのように送ってくださいました。イエス様が私たちの罪と恥を受けて、私たちのために死んでくださいました。以前の私達は、自分の罪を考えると恥を感じましたが、イエス様の救いを受けて罪が赦された今、自分の罪を考える時に、それを覆ってくださった神様の愛と恵みを覚えて、喜びを感じます。神様が私たちの悲しみを喜びに変えてくださったのです。

 クリスマスに向かうこの季節に、イエス様の誕生が表わしている神様の忠実さと、恵みと愛を特に覚えて、感謝しましょう。