自分の救いを達成するとは

ピリピ人への手紙2章12-18節

ロビソン・デイヴィッド
2022年02月 6日

ピリピ人への手紙2章12-18節

「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。 同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」

 

 クリスチャンがたましいの救いについて語るとき、救いを得る方法に焦点が当てられることが多いと思います。神の赦しを受け、神の家族の一員となり、神の王国の一部として受け入れられるためには何をすべきかについて、多くの時間を費やして語られます。言い換えれば、私たちは 「どうしたらクリスチャンになれるのか 」という質問に答えることに焦点を当てることが多いのではないでしょうか。プロテスタントのクリスチャンである私たちは、聖書が「救いは行いによってではなく、信仰によって受けるものだ」と教えていることを固く信じています。パウロは、エペソ2章8-9節で次のように述べています。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

また、ローマ人への手紙3章28節で、パウロはこう言っています。

「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」

そして、おそらく聖書の中で最も有名な一節で、イエス様はこう言っておられます。ヨハネの福音書3章16節:

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 聖書は、救いを得るために私たちができることは何もなく、ただイエス様を信じるだけで、神様からの贈り物として赦しと救いを受け取ることができると教えています。これは驚くべき真理であり、私たちがこの真理に注目するのは自然なことです。

 しかし、私たちはしばしば、救いを受けた後のことを見落としているのではないでしょうか。クリスチャンになったら、次は何をすればいいのでしょうか。もし私たちの救いが、行いではなく信仰によって与えられる賜物だとしたら、クリスチャンになった後、良い行いをする必要はあるのでしょうか?もし、私たちがイエス様を信じることによって神様のもとに来たとしても、その後、罪深い人生を送り続けた場合はどうなるのでしょうか?そのまま死んでも救いを受けることができるのでしょうか?もしそうでなければ、私たちの救いは結局は私たちの行いに依存しているということにならないでしょうか?これらは難しい質問ですが、今日見ていく箇所は、救いにおける私たちの役割と、神様の役割の両方をよりよく理解する助けになると思います。

 パウロは、ピリピ2章12節と13節で私たちにこう命じています。「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」

 この箇所を読むと、救いには私たちが果たす役割と、神様が果たす役割があることがはっきりとわかります。救いは、私たちが自分で成し遂げるものではありませんが、神様が私たちの関与なしにただ与えてくださるものでもありません。救いを受けるためには、私たちがしなければならないことがあり、神様がしなければならないこともあるのです。

 今日は、私たちが救われるためにどのような役割を果たしているのか、そして、神様がどのような役割を果たしておられるのか、じっくり考えてみたいと思います。そして、最後に今日の箇所の後半を見て、神様がご自分の民にどのような生き方を望んでおられるのか、具体的な例も見てみたいと思います。

 まず、救いの中で私たちが果たす役割とはどのようなものでしょうか。ピリピ2章12節をもう一度見てみましょう。

ピリピ2章12節

「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」

 聖書に書かれている他のことや、パウロが他の書物で述べていることを考慮せずに、この節だけを見ると、パウロは私たちの救いが私たちの行いにかかっていると言っているように思えるかもしれません。しかし、すでに見てきたように、これは、救いは行いではなく、信仰によるものだという聖書の明確な教えに真っ向から反するものです。なぜなら、パウロは私たちに自分の救いを実現するように命じたすぐ後に、神様が私たちの内に働いて、神様のみこころを行いたいという願いと、その行いそのものを生み出す方であると言っているからです。ローマ人への手紙8章30節で、パウロはさらにこう言っています。

「神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」

 ここでは、神様は私たちの救いのすべての面に関わっておられるだけでなく、救いの働きのすべての段階において、責任を負っておられる方であることがわかります。神様は誰を救うかを決め、その人たちを救いに呼び、呼び寄せた人を義とし、赦されたことを宣言されます。そして、人がクリスチャンになった時に始まり、永遠の命に引き上げられた時に完了するプロセスを通して、完全で罪のない、栄光に満ちた人にしてくださるのです。これらはすべて、神様が始められ、実行されることです。

 しかし同時に、神様はその知恵をもって、私たちが自分自身の救いにおいて役割を果たすことを望まれたことが、ここに記されています。神様は、私たちが自分の救いを実現するように命じておられます。これは何を意味するのでしょうか?

 この箇所で「達成するように努めなさい」と訳されている言葉がヒントになると思います。それは、「完全に成し遂げる」、「完成させる」という意味の言葉です。この言葉は、パウロが語っている「救い」について、非常に重要なことを示しています。「救い」とは、一度だけ起こって終わりというものではなく、多くの段階を経たプロセスだということです。多くのクリスチャンにとって、これは意外な事かもしれません。私たちは、救いとは、単に永遠の命が与えられることだと考えがちです。救われるということは、死んだら天国に行けるということです。しかし、私たちは死んだ後に地獄から救われるだけではなく、この地上での生活の中で、今すぐに救いを必要としているのです。

 聖書は、私たちが罪深く、破滅的で苦しみにつながる傾向を持っていることを教えています。聖書の中で、私たちの罪深い性質は、病気の人に例えられています。また、目の不自由な人や、刑務所に入れられている人にも例えられます。病気の人、目の見えない人、監禁されている人に永遠の命を約束することは素晴らしいことですが、その人を今すぐに元気にし、目を見えるようにし、自由にし、その上に将来の永遠の命を約束する方が、はるかに素晴らしいことです。イエス様がくださる救いは、死後の世界で良いことを約束するだけでなく、現在の生活をも変えてくれる救いです。神様の救いの御業は、私たちが完全で、罪のない聖なる者となり、神の御前に住み、神を永遠に楽しむことができるようになるまで完了しません。

 パウロがピリピの人々に救いを達成するように努めなさいと命じているのは、このことを指しているのです。私たちは、神様が私たちのために用意されている、この完成された状態に自分の救いを導くために、自分の意志と行動を用いるように求められています。私たちは、この地上での生活を通して、イエス様に似た者になり続けるために、正しい生活を送ることに全力を尽くすのです。しかし同時に、私たちが救いを完成させ、完全になることができるかどうかは、私たちではなく、神様にかかっているのです。

 では、私たちの救いにおける神様の役割を見てみましょう。13節を見てください。

ピリピ人への手紙2章13節

「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」

 このすぐ前の12節で、パウロは「自分の救いを達成するよう努めなさい」と命じていますが、13節では、同時に神様が私たちの中に働いておられることを教えています。少し分かりにくいようですが、神様は私たちに良い行いをするように働きかける方でありながら、同時に、私たちがその良い行いを実際にすることを求めておられるのです。パウロは、神様の働きは二重であると指摘しています。神様は、私たちに良い行いをさせるのと同時に、それを行いたいという願望や意志をも与えてくださいます。神様が私たちの心に聖霊を送る時、神様は私たちの願望と意志を変え始めます。神様は、私たちをご自分の方へ、そしてすべての良いこと、正しいこと、純粋なことの方へと引き寄せてくださいます。聖霊は、私たちが善を行うように励まし、悪を行う時にはそれを正してくださいます。私たちが自分の救いに積極的に参加しなければならないように、神様も私たちの救いを完成させるために積極的に働いてくださるのです。パウロは、1章6節ですでにこの偉大な真理をピリピの人々に伝えています。

「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」

  神様が私たちの中で働いておられ、始められた事を忠実に完成してくださる方なので、私たちが救いが達成しないということはないのです。

 私たちの行いと神様の働きとのこの関係は、分かりにくいかもしれません。このような話が理解の助けになるかもしれません。

 みなさんが仕事を持たないホームレスだと想像してみてください。毎晩、暖かい寝床を探すのに苦労し、毎日、食べるものを探すのに苦労しています。しかし、あなたには建設会社を経営している友人がいたとします。その友人が、あなたのために家を建てたいと言い出します。彼は、土地を購入し、家を建てるために必要なすべての材料を買って、労働者を連れてきてあなたの家を建てると言うのです。しかし、彼はあなたに1つのお願いをします。あなたに建設現場に来て、家を建てるのを手伝ってほしいと言うのです。手伝ってくれたら、家の建て方を教えるし、建てた後は、その家をプレゼントするだけでなく、会社で雇って、生活するのに十分なお給料を払うとまで約束してくれます。私たちの救いとは、この話しの中で友人が約束してくれた、家と仕事のようなものです。あなたは確かに家を建てるのを手伝いましたが、家を建て仕事に就けたことは、自分の手柄にはなりません。あなたがしたことは、この友人がいたからこそ可能だったのです。

 この話しは、神様と私たちの救いと同じようなものだと思います。私たちは救いを完成させるために努めることを求められていますが、この働き自体が、神様からの贈り物の一部なのです。神様が私たちの助けを必要としているのではありません。神様は、その偉大な知恵によって、私たちに永遠のいのちを与えてくださるだけでなく、イエス様のように、常に良いこと、正しいことだけをするように、少しずつ変えてくださるという計画に、私たちを参加させてくださっているのです。神様の計画は、私たちが死んだ後に永遠の命を得るだけではなく、私たちを永遠に神様の王国の一部とし、神様に仕え、神様の素晴らしい計画と目的を達成することなのです。

 最後に、このことを念頭に置いて、パウロがピリピの人々に命じている具体的なことを見てみましょう。このことは、神様が私たちにどのような働きをさせてくださるかを明らかにしています。ピリピ人への手紙2章14~18節を見てください。

「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでください。」

 

 この聖句から、私たちがどのようにして実際に「自分の救いを達成する」ことができるかについて、いくつかのポイントを読み取れます。

 第一に、私たちはすべてのことを不平を言わずに行うべきだということです。神様の命令にただ従うだけでなく、喜んで、他のクリスチャンと協調しながら行うことが大切です。これは、キリストに従う者の最も特徴的な印の一つです。私たちは、単に一定の道徳的規範に従って生きるのではなく、喜びと謙遜の態度を持って、神様の働きに取り組む者でなければなりません。

 第二に、私たちは世の光として輝かなければなりません。私たちの態度や行動は、私たちを取り巻く世界とは対照的なものでなければなりません。この世は腐敗し、苦しみと邪悪さに満ちています。しかし、神様はこの腐敗から人々を救うために世界で働いておられます。神様が私たちに求めている偉大な働きの一つは、人々を神様のもとに導く光となることです。私たちが喜んで、一致した態度で神様の命令に従順に従う時、私たちは周りの世界に、神様にはこの世界を回復し、神様のもとに来るすべての人に救いを与える力があることを示すことができるのです。

 第三に、私たちはいのちのことばをしっかり握らなければなりません。神様に従い、神様が誰であるか、神様の救いがどのようなものであるかを世界に明らかにするためには、神様が私たちに何をしてほしいのか、どうなってほしいのかを知らなければなりません。私たちは、みことばを通してこれを学びます。私たちは、みことばを忠実に、熱心に学ぶ者でなければならず、みことばに従うことに背を向けることがあってはなりません。

 最後に、私たちは犠牲を喜びとしなければなりません。クリスチャンの人生は、犠牲によって特徴づけられるものです。私たちは、自分にとって大切なものを神様への献げ物として献げ、神様への愛と、神様の私たちへの善意への感謝を表します。 愛する人に高価な贈り物をするのは、とても喜ばしいことです。神様に仕えるために、自分の人生や時間、快適さや安全性を犠牲にするとき、それは喜ぶべきことなのです。それと同じように、神様も私たちのために犠牲を払うことに大きな喜びを感じておられます。私たちに救いをもたらすために御子を与えられた神様は、その犠牲を喜びとされるのです。 

 私たちのクリスチャンとしての生活には、矛盾することが多いように聞こえるかもしれません。私たちは、自分の救いを実現するように命じられていますが、同時に、神様が私たちの中で働いておられることを忘れてはいけません。神様への恐れとおののきの中で生きるように命じられていますが、同時に、神様に愛されていることを忘れてはいけません。歪んだ時代の中にあって、人々をキリストに引き寄せる、完全で罪のない光として生きなさいと命じられています。すべてを犠牲にしても、それを喜びなさいと命じられています。神様が私たちに与えてくださる人生は、神秘と豊かさに満ちています。

 救いを得るためには、困難な道を歩まなければなりません。しかし、私たちはその道を一人で歩くのではなく、神様が無事に目的地にたどり着けるようにしてくださることに励まされます。神様は、私たちを導き、一歩一歩 道を示し、危険から守ってくださいます。ですから、私たちは出て行って、恐れとおののきをもって、私たちの救いを達成していきましょう。