人はどうやって救いに導かれるのか

使徒の働き8:26-40

ロビソン・デイヴィッド
2019年12月29日

今日は「人はどうやって救いに導かれるのか」ということを考えてみたいと思います。別の言い方をすると、何が人をクリスチャンにならせるのか、ということです。それはとても大事な質問ですね。私たちには皆、キリストから離れているために、罪によって霊的に死んでいる状態の親戚や友人がいると思います。その人たちはキリストを受け入れなければ、神様の恐ろしい裁きに向かっています。私たちはその人たちが救いを受けることを望んでいますので、人がどうやって救いに導かれるのかを学ぶことは大事なことだと思います。

 人はどうやって救いに導かれるのでしょうか。私たちが相手に分かりやすく上手に福音を伝えることによってでしょうか。神様なんて必要ない、と言うような人ではなくて、もっとクリスチャンになりそうな人に福音を伝えることによってでしょうか。これらのことは人が救いに導かれる時の要素ではありますが、実は人を救いに導くのは聖霊の働きなのです。上手に福音を宣べ伝えるのは大事なことですが、聖霊は口下手な人を通して人を救いに導くことができます。聖霊は、神様なんて必要ない、という頑固な人の心をやわらかくして、救いに導くことがおできになります。

 今日は、神様がエチオピアの宦官を不思議な方法で救いに導いた時の話しを見たいと思います。

 この話しを読んだ時、私が2017年の夏に盛岡教会で働いていた時に起こったことを思い出しました。その夏、私たち夫婦と盛岡教会の人たちは、アメリカから夏の間だけ来ていた二人の学生の助けを借りて、新しい人が教会につながるようにマンツーマンの英語クラスをやることにしました。私が聖書の文章をテキストにした英語のカリキュラムを見つけて、それを使うことになりました。ところがアメリカの学生のうちの一人がちょっと変わった人で、他の人と働くのに少し難しさがありました。また、彼はそのカリキュラムを上手に使うことができなくて、私たちはこの人が教会の外の人に英語を教えるのは良くないかもしれないと心配し始めました。彼はこの大切な働きにふさわしくないのではないか、と思ったのです。

 彼の生徒の一人は、初めて教会に来た年配の婦人でした。最初の授業の時、教会で別のことをしていた私に、彼らの話す声が聞こえてきました。その婦人の方が、カリキュラムが聖書の文章を使っていると気づいて、「やっぱりクリスチャンの授業なんですね。そうじゃないかと思った。」と言っているのが聞こえました。それを聞いて、その婦人の方が気分を害したのじゃないか、私が選んだカリキュラムがよくなかったかもしれない、と不安になりました。

 ところがその方はすべての授業に出席して、コースが終わったあとに、盛岡教会のイングリッシュカフェにも来てくれました。イングリッシュカフェで誰かがその方を日曜の礼拝に誘って、その方は礼拝にも来ました。ところがその日の近藤先生の説教は、創世記の中から「割礼」をテーマにしたものでした。それは初めて日曜礼拝に出席する人にはとても分かりにくいテーマだったので、その方はもう教会に来ないかもしれないと思いました。近藤先生も、せっかく来てくれたのにあの説教を聞いてどう思っただろう、と心配していました。

 ところが数日後に、その方から近藤先生に電話がありました。そして、私もイエス様が言ったように敵を愛することができるようになりたいので、クリスチャンになりたいと伝えたのです。私たちはそれを聞いてびっくりしましたが、実は、その説教の中のとても小さな部分がその方にとても大きな印象を与えていたことが分かりました。近藤先生はその説教の中で、「神様は時々、割礼のようにとても難しい命令をします。たとえば、イエス様が自分の敵を愛しなさいと命令しました。それはとても難しいことですが、神様の力を通してそのような難しいこともできるようになるのです。」というようなことを言いました。それはその説教のメインテーマではなかったのですが、その小さな部分がその方に大きな印象を残したそうです。彼女はその時から聖書の学びを始めました。途中で秋田に引っ越しをしましたが、秋田でも教会につながって学びを続けて、一年後にその教会でバプテスマを受けました。

 この話しの中で、誰が彼女を救いに導いたのでしょうか。多くの人がこの婦人の救いへの道のりに出てきましたが、実は彼女を救いに導いたのは人ではなくて聖霊ご自身でした。人を救いに導かれるのは神様だけです。色々な人が彼女が救いに導かれるお手伝いをしましたが、救いまでのすべてのステップを導かれるのは御霊の働きです。そして、福音を聞いた時、彼女の心が福音を信じるように働かれたのも聖霊でした。彼女がクリスチャンになったのは、神様が彼女をご自分のもとへ引き寄せてくださったからなのです。

ヨハネの福音書6:44

 誰かがクリスチャンになる時はいつでも、神様がその人を引き寄せってくださっています。もちろん、神様はご自分の民、つまり、私たちを用いて、救いのみわざに参加させてくださいますが、最終的には神様の働きです。しかし神様が人を救いに導かれる方法は必ず、ご自分の民を福音を宣べ伝えるために送って、福音を聞く人が福音を受け入れるように御霊を送ることなのです。

 今日の箇所では、それが劇的な形で起こったのを見ることができます。

使徒の働き8:25-26

 この話しの最初の部分では、ピリポはサマリアにいました。以前の使徒の働きの説教で、神様がピリポを通して多くのサマリア人を救いに導いたのを見ました。ピリポの働きを通して、サマリアで新しい教会が建てられていました。ピリポはその働きのキーパーソンだったので、ピリポがサマリアにとどまってこの大事な働きを続けるのが神様のみこころのはずだと、みんなが思っていたと思います。

 しかし神様には違うご計画があったようです。神様は、主の使いを通して、サマリアを出てエルサレムとガザの間の道に出なさいとピリポに命令しました。うまくいっている働きをやめて、他の町ですらなく、町と町の間の道に行きなさいということを命令したのです。神様が御使いたちを送った理由は、そのような印象的な方法で命令しなければ、ピリポがその命令が神様から出ていると信じられなかったからかもしれません。ピリポはその命令を聞くと、忠実な使用人のように、すぐに従いました。

使徒の働き27-28

 ピリポが御使いに言われた場所に着くと、エルサレムから馬車で下ってきたエチオピア人の宦官が見えました。ピリポはまだ知りませんでしたが、その人はエチオピアの偉い人で、また神様に興味のある人でした。彼はエチオピアの神々やお寺に満足できなくて、主なる神様を礼拝するためにエルサレムにまで出かけていました。神様が彼をご自分の元へ引き寄せておられたからです。

使徒の働き8:29

 この時点では、ピリポはこのエチオピア人のことを全然知らないし、相手もピリポについて何も知りませんでした。もし神様がピリポに語っていなかったら、ピリポはこの人が通り過ぎるのを見て終わったはずです。しかし神様が御霊を通して静かな声でピリポの心に語りかけ、「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われました。ピリポはここでも、ただ神様に従いました。

使徒の働き8:30-34

 状況はさらに奇妙な展開をしていきます。ピリポが馬車に近づくと、なんとエチオピア人が、イザヤ書のイエス様の死についての預言を声に出して読んでいるのです。この時、ピリポはもう神様からの命令がなくてもするべきことが分かりました。その人に話しかけて、イザヤ書の預言について語り始めたのです。

使徒の働き8:35

 ここでやっと、ピリポが彼自身でやったことを見ることができます。それは彼が福音を伝えたことです。しかしこれも、ある意味で神様の働きでした。ピリポが説明している聖書を書いたのは神様ですし、ピリポが聖書を分かるように目を開けてくださったのも神様です。ピリポはこの時、神様が下さったこれらの賜物を用いて、ためらうことなく福音を宣べ伝えました。

使徒の働き8:36-38

 最後にまた神様の働きを見ることができます。エチオピア人の宦官は初めて福音を聞くと、福音の真実を理解してイエス様を信じるようになり、バプテスマを受けたいと思いました。それは確かに御霊の働きでした。本人には見えなかったかもしれませんが、彼が生まれた時からこの瞬間まで、御霊は彼を神様の元へと導いていたのです。そして神様はバプテスマを授ける水も与えてくださいました。

 この話しと、さきほど話した婦人の話しを振り返ると、人間的な視点からはとても予期できない一連の出来事があったと思います。私たちが計画できないようなことがいっぱいが起こりました。私たちが計画を失敗したと思うこともいっぱい起こりました。しかし伝道は最終的に私たちの働きではなく神様の働きで、神様が計画されたことだということが分かります。今のこの瞬間も神様は私たちの周りで、私たちの目には見えない、想像もできないことを行っておられます。

 この話しの中のピリポの役割を考えると、私たちの伝道における役割も分かってきます。ピリポがやったことは二つだと思います。

1.ピリポは神様の命令に従った。

 ピリポがやった一番大事なことは、神様の命令に従ったことです。ピリポは、将軍の命令に従う最低ランクの兵士のような、また父親の命令に従う子どものような人でした。私たちが伝道する時、そのような姿勢でできたらいいと思います。すべての他のことの前に、神様がもう計画しておられて、私たちを用いることができると信じて、神様が命令することに従うと決めることが大切です。神様のみこころが分かるように聖書を学んで、御霊が働いてくださるように祈ります。そして自分の生活の中で神様が何をされているかを見つけようとします。神様が自分を通してなさろうとしていることがあるかもしれません。福音を伝えるべき人がいるかもしれません。神様はもうすでに働いておられます。私たちは神様の視点で自分の生活を見るようにならなければなりません。神様が、私たちには見えないし分からないような方法で、私たちの周りで今も働いておられると信じることが必要です。

 

2.ピリポは福音を宣べ伝える準備していた。

 神様はとても不思議な方法でピリポをエチオピア人の宦官に引き合わせましたが、神様が福音を伝える機会を与えるとピリポはすぐに伝えました。彼はそのような機会のために日頃から準備していたのだと思います。第一ペテロによるとそれはすべてのクリスチャンの責任です。

第一ペテロ3:15

 ピリポは確かに、自分のうちにある希望についていつでも誰にでも弁明できる用意をしていました。誰にでも福音を伝えられるように、ピリポは聖書をよく学んでいました。私たちも、そうするべきだと思います。聖書は、誰かに福音を伝える機会を神様が私たちにお与えになるのは当然のことだと教えています。その機会が与えられた時に準備ができていることが必要です。

 私たちが伝道しようとする時に、この二つのことはとても大切なことだと思います。もし神様が私たちに誰かに福音を伝えなさいとおっしゃったら、神様に従わなければなりません。その機会を待っている間に、聖書をよく学んで、いつでも誰にでも自分のうちにある希望について説明できる用意をしていきましょう。