恵みのゆえに、信仰によって、良い行いをするのために、救われた

エペソ人への手紙2:1-10

ロビソン・デイヴィッド
2019年02月10日

先週は罪の問題についてみました。そこから学んだことは、アダムとエバが最初の罪を犯した時から、完全に罪のない生活をした人間は一人もいないということでした。人間の心は汚れていて、たとえ小さい罪であっても、それは心の中で神様を信頼していないことや、愛していないことの表れです。ですから、神様は罪を犯した人間は必ず死んで、体の死だけではなくて、たましいも滅びることになると言いました。
自分の罪について考えて、話すのは難しいことですが、今日は、神様の素晴らしい恵みである、キリストの福音を見てみたいと思います。その福音は、私たちが罪びとだったのに、神様が自分の完全なひとり子であるイエス様を、罪びとの代わりに罪のない生活をして、最後はむごたらしい死刑の罰を受けるために送られた、ということです。その結果、誰でもイエス様を信じるなら、イエス様によって義とされて、イエス様が彼らの罪を引き受けてくださいます。イエス様は十字架で人間の罪のために犠牲になることによって、神様の怒りを受けてくださいました。それにより、神様が私たちクリスチャンを見る時、もはや私たちの罪や、汚れた心を見ずに、自分の愛する子であるイエス様の完全な義を通して私たちを見てくださるのです。
    この素晴らしい救いを受けるためには、どうしたらいいでしょうか。イエス様を信じることが必要ですね。しかしもし先週学んだように、すべての人間が汚れた心で神様を憎んでいるなら、イエス様を信じようとする人は誰もいないはずではないでしょうか。
また、救いを受けてから、また罪を犯してしまうなら、どうでしょうか。救いは取り消しになるのでしょうか。今日はこのような疑問に答えていきたいと思います。
    エペソ人への手紙2:1-10から、三つのポイントを考えたいと思います。
1.恵みのゆえに救われる
2.信仰によって救われる
3.良い行いは救いの結果である
    まず、エペソ人2:8に、私たちは恵みのゆえに救われたと書いてありました。恵みということばはどんな意味だと思いますか。このエペソ人の手紙が書かれたギリシャ語では、ほかの人に好意や、恩恵をあたえることです。聖書の中で神様の恵みというのは、それに値しない人間に好意や、恩恵を与えるくださるという意味です。これは神様からの賜物です。
    去年の11月に、エスピノス・アントニオさんという人が、日本政府から旭日章という勲章を受けました。エスピノスさんは世界空手連盟の会長で、空手が2020年のオリンピック競技になるために、一生懸命働きかけたので、この活動が認められて、旭日章が与えられました。日本政府がエスピノスさんに勲章を与えるのはとても好意的なことで、エスピノスさんは日本政府にとても感謝していると思いますが、このように勲章を与えられるのは恵みとは違います。
それはエスピノスさんが日本のために良いことをしたからもらえたのであって、その勲章を誇る権利があります。しかし、救いの恵みは勲章を受けることとはまったく違うものです。
    では恵みとはどういうものでしょうか。想像してみてください。あなたが一人でうちにいると、インターホンがなります。ドアを開けると、ちょっとこわいボディーガードが二人立っています。ボディーガードの後ろを見ると、なんとイギリスのエリザベス女王が荷物を持って立っています。女王は入ってもいいですか、と聞きます。もちろん、すぐに家の中に案内して、お茶を出します。お茶を飲んでいると、女王が持ってきた荷物をあなたに渡して、これはイギリス王家に代々つたわる宝石で、これをあなたに贈り物としてさしあげます、と言います。とっても高価で名誉のある贈り物です。自分はそれをもらうのに値するような働きをまったくしていません。もし友人に、なんでエリザベス女王がそんな立派な贈り物をくれたの?と聞かれたら、答えることができません。自分は何もしていないんです。イギリス人ですらないんです。エリザベス女王の完全なる好意で、何の理由もなく贈り物をくれたんです。
私たちの救いはこれに似ていると思います。でも、救いはもっともっと素晴らしいものです。神様はこの世の王様よりはるかに偉大な方で、キリストの死を通じて与えられる救いは、世界で一番高価な宝石よりもはるかに素晴らしいものです。
しかし、私たちは神様からそのような素晴らしい物をいただくようなことは何もしていません。恵みだけのゆえに与えられたのです。
しかし、救いや神様の恵みを、自分の努力によって得られると思う人は多いと思います。道徳的な生活をすることによって、救いを得ることができる。特別な祈りの言葉を言うことによって、神様の許しを得ることができる。もっと強い信仰を持てば、神様からの祝福を得ることができる。と多くの人が考えるかもしれません。しかしそれは、私たちがエリザベス女王からイギリス王家の宝石をもらおうと努力するようなものです。救いというのは自分の行動や努力によって得ることのできるものではないのです。
エペソ人への手紙2:1,5
私たちは罪の中に死んでいた者だったと書いてありました。もう死んでしまった人は何かをすることができますか。自分を救うことができるでしょうか。助けを求めることができるでしょうか。死んでしまったら、何もすることができませんね。ですから、もし救いを受けるために、罪の中に死んでいる人間が何かをしなくてはいけないなら、救いを受けられる人は誰もいないことになります。私たちの心は罪によって汚れているので、自発的に神様のことばを聞こうとしたり、神様を探し求めたりすることはもちろん、自分の罪を悔い改めて、良い行いをすることはできない存在なのです。
つまり、もし神様が、イエス様を私たちの罪のために十字架で死ぬために送って、誰でもイエス様を信じるならその人は滅びることなく、永遠の命を持つようになる、と言っただけだったら、信じようとする人は誰もいないはずなのです。それは、亡くなった人のお墓に向かって、イエス様を信じなさいと話しかけるようなものです。私たち罪びとは、信じることができる前に、まず神様から命を与えていただくことが必要なのです。
パウロが私たちは恵みゆえに救われたと言った意味は、救いは最初から最後まで神様の働きであって、完全に神様次第だということです。神様は、私たちの代わりに十字架で死んでくださるためにイエス様を送りました。そして、誰でも罪を悔い改めて、イエス様を信じるなら、救ってくださると約束しました。でもそれだけではなくて、私たちが福音を聞くとき、悔い改めて、信じることができるように、私たちに命を与えてくださったのも神様です。さらに神様は、私たちが救われてからも、私たちが与えられた信仰の中に生きることができるように助けてくださるとも約束してくださいました。
ピリピ人への手紙1:6
ですから、もし神様が私たちを救ってくださったなら、その救いを失うことがないように保証してくださるのも神様なのです。私たちは自分の行いによって救いを受けたのではなく、ただ神様の恵みゆえに救われたので、同時に、自分の行いによって救いを失うこともできません。
神様は救いをくださってから、それを取り去られることはないのです。私たちは救われたあと罪を犯しても、救いを失うことはありません。イエス様は十字架で、信じる人すべての罪のために死んでくださいました。クリスチャンになる前の罪だけではなくて、クリスチャンになってから犯すすべての罪のためにも、もう犠牲をはらって、赦してくださいました。それが恵みです。
しかし聖書は、救われるためには信仰を持たなくてはいけないと教えていますね。救いのためには悔い改めが必要だ、と書いてあるんではないでしょうか。それは今日の2番と3番目のポイントです。
2番目のポイントは私たちは信仰によって救われたということです。
エペソ人への手紙2:8
この言い方はとても興味深いと思います。恵みゆえに、あなた方は信仰によって救われたのです。つまり、私たちが救われたことは神様の恵みによるのですが、その救いの方法は私たちの信仰なのだと教えているのです。ですから、誰も努力によって救いを得ることはできませんが、救いを受けるためには信仰を持つ必要があるのです。そして、実はこの信仰も神様からいただいたもの、つまり賜物なんです。神様は福音を伝えるためにご自分の民を送られます。そして私たちは、救いを受けるためにイエス様を信じなさい、と伝えます。
神様は、ご自分が選んだ者が福音を聞く時、その人のたましいを生かしてくださって、信仰を持ち悔い改める力を与えてくださいます。ですから、その人は神様の恵みのゆえに、信仰によって、すくわれるのです。つまり救いを受ける時はイエス様を信じる時です。
このように、イエス様への信仰があるかどうかだけが、クリスチャンとクリスチャンでない人とを分けるものです。神様はだれかがイエス様を信じたら、その人はすぐに救われると約束しました。もしその人が信じてから1秒後に亡くなったとしても、神様の裁きを受けず、永遠の命をいただくことになります。洗礼を受けていなくても、特別の祈りをしなくても、牧師に伝えていなくても、教会に一回も行ったことがなくても、イエス様を信じたなら、救われているのです。洗礼や、祈り、教会などはクリスチャンにとって非常に大切なことで、成長のために必要ですが、救われるために必要な事ではありません。私たちが救われるのは信仰のみによるのです。
では、救われるための信仰とはどういうものでしょうか。まず信仰は、私たちが神様の恵みを必要とする罪びとであることを認めます。イエス様の死だけが私たちの罪をあがなうことができると認めて、イエス様に信頼します。また、イエス様が私たちの主であり、イエス様こそ従うべき方だと信じます。さらに、神様の命令にそむいたことに気が付いて、そのような生活をやめ、罪を悔い改めて、神様の助けを求めます。信仰はそのような心です。
では最後に、良い行いについてはどう考えたらいいでしょうか。良い行いが救いにまったく関係ないなら、信仰さえあれば何をしてもかまわないのでしょうか。それが3番目のポイントです。良い行いは救いの結果である、ということを考えてみましょう。
エペソ人への手紙2:10
私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリストイエスにあって作られたのだと書いてあります。つまり、神様が人間を救われる理由の一つは、良い行いをする民を作ることなのです。もし誰かがイエス様を本当に信じていて、神様の恵みゆえに救われたなら、神様がその人の心を新しく造りかえてくださいます。その結果、心の中の欲望が変わり、罪よりも神様を愛するようになります。救われる前の私たちの心は、神様に背を向けて、罪からくる色々な欲望に満ちていました。しかし神様が私たちを救ってくださった後は、神様がくださる御霊が私たちの心に入って、心を変えてくださいます。ですから、以前は汚れた心から罪が出たように、御霊によって新しくされた心からは、良い行いが生み出されます。
    神様は私たちが創造された目的を達成することができるように私たちを救われました。救われた者は神様の栄光をあらわす力を取り戻すことになります。神様に創造された目的を達成するためには、自分の意思や能力に頼るのではなく、イエス様の働きに信頼することが必要です。自分の正しさではなく、イエス様の義に信頼することが必要です。
私たちが神様に受け入れられるのは、自分の中から出てくる良い行いによってではなく、イエス様が、私たちが今まで犯した罪のためにも、これから犯す罪のためにも、すでに代価を支払ってくださったことに信頼することによるのです。
恵みのゆえに、信仰によって、良い行いをするのために、救われた