罪の問題

創世記2:15-17、3:1-8

ロビソン・デイヴィッド
2019年02月 3日

先週、どうして神様が人間を創造されたのか、また、人間の目的は何なのか、ということを考えました。人間は、神様の栄光をあらわして、神様と深い関係を持つために創造されたと学びました。しかしこの世界を見ると、人間はその目的を果たしていないとすぐにわかります。多くの人は神様の栄光に対して全然興味がなくて、神様との関係を持とうとしません。世界は、神様の栄光にも、神様との関係を持って喜んでいる人にも満ちていません。むしろ、世界は苦しみや、戦いや、悲しみに満ちています。今日のテーマはとても耳が痛いことなんですが、私たちがどれほど神様の許しが必要な存在なのか、また神様の愛がどんなに素晴らしいのかが分かるためには、自分の罪をしっかり理解する必要があります。
    創世記にもどって、罪とはどういうことなのか学びたいと思います。二つのポイントを見ます。
1.罪というのは神様の命令に従わないこと。
2.罪の根は心の中にある
まず1つ目のポイントを考えたいと思います。罪というのは神様の命令に従わないことです。
創世記2:16-17
アダムとエバは善悪の知識の木から食べてはいけないという神様の命令に従わず、罪を犯しました。神様は人間の創造主なので、人間に命令する権威があります。政府に法律を作る権威があって、国民はその法律に従う責任を持つように、神様も人間に従わなければならないのです。神様は人間に、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、嘘をついてはならない、人を悪く言ってはならない、など、たくさんの命令をしました。また、悪いことをしてはならないというだけではなく、良いことをしなさい、という命令も与えました。神様だけを賛美して、心から愛しなさい、まずしい人を助けたり、外国人をもてなしなさい、という命令もしました。実は神様のすべての命令について考えていくと、神様は、私たちが神様を完全に尊敬して、人にまったく害を与えず、完璧な人として生活しなさいと言っていることが分かります。そして、政府が法律に従わない犯罪者を罰するように、神様も神様の命令に従わない人を罰することを約束しています。
創世記2:17
    神様は罪の罰は死であると言いました。使徒パウロはローマ人への手紙6:23で、同じことを言って、「罪からくる報酬は死です」と書いています。政府の法律に従わなかった時の一番厳しい罰は死刑ですが、神様の命令に従わないと、もっと厳しい罰が待っています。
マタイの福音書10:28
政府は体を殺せても、たましいを殺すことはできません。しかし神様は、体も、たましいも、ゲヘナ、つまり、地獄で滅ぼすことができる方です。これより厳しい罰は考えられません。恐るべきことには神様の命令は人間が完璧に守ることができないほどきびしくて、すべての人間はその厳しい罰に向かっているということです。
これは厳し過ぎると考える人もいます。守れないほどきびしい命令を与えるのは正しくないという人もいます。しかしそもそもは、神様は人間を完全なものとして創造し、神様の命令を完璧に守る力を与えていました。しかしアダムとエバが罪を犯した時、人間は完全ではなくなってしまって、神様に従う力をうしなってしまいました。つまり、人間が神様に従えないのは人間の責任だということができるんです。
ローマ人への手紙5:12
しかし、神様が人間に完璧に生活しなさいと命令するのは不当だと思う人はいます。神様が嘘をつくぐらいの小さい罪を犯した人を地獄に送るのは厳し過ぎると思う人もたくさんいます。しかしこのような考え方はとても人間的な考え方です。何が正しくて、何が正しくないか、何が正当な罰なのか、自分が決める権威を持っているという考え方です。つまりそのような考え方の根底にあるのは、自分に神様より知恵があるという考えです。では私たちはどのように考えればいいでしょうか。まず第一に、神様より知恵がある方はいないこと、神様がいつも正しい方であることを信じる必要があります。つぎに、もしその神様が、小さい罪でも地獄という罰が正当だときめるなら、それは正しいはずだと信じます。さいごに、もし自分にとってその罰が不当に思えるなら、それは多分、自分が罪ということを正しく理解していないからだ、という考えに進むことができます。それは今日の二番目のポイントにつながることです。それは罪の根は心にあるというポイントです。
創世記3:5-6
見方によっては、アダムとエバはそんなに悪いことをしていないように思えます。アダムとエバの罪は、子どもが親にキャンティを食べてはダメと言われたのに食べてしまった、というような軽いことに思えます。しかし、今読んだ箇所には実はエバの心の状態が表れています。
まず、エバは神様が良い方であることを疑ってしまいました。サタンが神様は良い方ではないとエバを思いこませたのです。まるで神様が心が弱くて、嫉妬深くて、良いものを出し惜しみするような方だと思いこませました。それによってエバは、神様は人間が自分のように知恵を持ってほしくないから、善悪の知識の木から食べることを禁じたと信じるようになりました。しかしそれはまったくの嘘です。神様は人間を創造されて、人間の住む世界も創造されて、世界を従える責任を与えました。美しい園を作ってくださって、食べ物も与えてくださった神様です。自分たちと一緒に歩んで、会話してくださった神様です。しかしアダムとエバが善悪の知識の木から食べると決めた時 神様が良い方であることを疑う心が生まれました。この心こそが実は重大な罪なんです。これは神様に対して大変失礼で悪いことです。
同じように私たちが神様の小さな命令に従わない時、実は私たちの心の中にもアダムとエバと同じ疑いや不信感が生まれているんです。もし神様を本当に信頼していたなら、神様が自分より知恵があって、自分にとって良いことを与えてくださると信じていたら、神様の命令に必ず従うはずですね。ですから、どんなに小さい罪であっても、そこにあらわれるのは、自分の心の中で神様が良い方であることや、知恵のある方であることを完全に信頼していないということなのです。
創世記3:6をもう一度見てください。エバが見ると、その木が食べるのに良さそうで、目に慕わしかったと書いてあります。その木の実はとてもおいしそうで、エバはそれが欲しくてしょうがなくなりました。その時、エバは神様よりもその木の実を愛して、欲しました。ある意味でエバはその木の実を、心の中で神様に取って代わるものとして拝んでいたと言えます。エバは神様との関係がどうでもよくなるぐらいその木の実を欲してしまいました。神様の厳しい罰を受けてでもそれが欲しい、という心の状態になってしまいました。そのような欲望は自分の人生を支配し始めます。
同じように、私たちが罪を犯す時、私たちは何かを神様より上に置いています。心の深いところで、神様より素晴らしい何かを得ることができると思っているので、罪を犯してしまいます。私たちはお金、まわりの人、権力、自分の評判を神様より愛してしまいます。そして、それを守るために罪を犯してしまうんです。
しかしアダムとエバが神様からすべての良い物をいただいたように、私たちも神様からすべてをいただきました。だからこそ、私たちには神様を愛する責任があります。神様を何よりも愛さなければならない理由は三つあると思います。一つは、私たちの命は神様からいただいたもので、生きるのも死ぬのも神様次第だからです。二つ目には、神様は何よりも素晴らしく、完全で聖である方だからです。三つ目には、私たちを完全な愛で愛してくださっているからです。ですから、神様を拒んで、神様の代わりに別のことを愛するのはとてもおそろしいことです。
最後に見たいのは、エバがその木は自分を賢くしてくれそうだと信じていたということです。このことから、エバの心の中に高慢があったことが分かります。エバは神様ぬきで自分が賢くなりたかったんです。神様の道を歩むのではなくて、自分で自分の道を決めて、歩きたかった。つまり、神様に従うのではなくて、自分の意思に従いたかったんです。同じように私たちも、罪を犯すとき、自分の心の中に高慢がかならずあります。私たちは罪を犯す時、神様が私たちを創造された目的や、神様の権威を拒んで、自分の目的を作って、自分が自分の主になってしまいます。それは本当の主である神様に対する反逆と言えます。それは愛してくださる御父に対する背信なのです。罪の問題は、単に神様の命令に従えないということではなくて、神様の権威をいやがって、神様の命令に従いたくないという心の中の問題です。悪いことをすることだけが問題なのではなくて、神様を拒絶する心が問題なのです。
ローマ人への手紙3:9-18
これが神様から見た私たちの姿です。これは私たちの心の本当の状態です。私たちは、多くの場合、周りの人から見て自分がいい人なら、私は大丈夫だと考えますが、神様は私たちの心を見ています。神様は、私たちの心の中の高慢や、怒り、憎み、悪い欲望、そして神様ご自身を憎む心を見ています。ですから、神様は罪に対する罰は死であると言いました。厳しい罰ですが、正当な罰だと言えるのです。
ローマ人への手紙1:18-25
これを考えると私たちの状況はとても危険です。聖書によると私たちの邪悪な心が生み出す生活はとても悪いので、体の死だけではなくて、たましいも地獄で滅びるのが私たちの受けるべき罰です。私たちの心は神様の敵になりました。私たちには神様が私たちを助けたいと思うような良い点は全然ありません。
しかし神様は、素晴らしい恵み、そしてその恵みだけによって、私たちを救うためにイエス様を送ってくださいました。この素晴らしいことを通じて神様は、ご自分の愛と恵みが私たちの罪より大きいことをしめしてくださいました。私たちが神様の愛に値しない者であるのに、私たちを愛してくださったんです。イエス様は完全な人生を送られて、まったく罪を犯さなかったので、唯一、死に値しない人でしたが、そのイエス様が私たちの代わりに、この上ない痛みと苦しみをともなう十字架の死を経験されました。つまりイエス様は私たちの死を死んでくださったんです。ですから、誰でもイエス様を信じるなら、体は死んでもよみがえり、永遠の命を与えられます。それだけでなく、信じる人が神様を愛して、神様に従うことができるように、神様の御霊を私たちの心の中に送ると約束してくださいました。
エゼキエル書11:19:20
私たちが自分の罪をはっきり理解する時、二つのことに導かれていると思います。まず、悔い改めに導かれて罪を憎むようになり、神様を愛してちかづきたいという心になります。二番目には、神様の愛の素晴らしさを深く分かるように導かれています。神様の愛は私たちの罪より偉大ですから、私たちは罪の恐ろしい重大さが分かると、神様の愛の素晴らしさをも本当に分かることになります。神様の御霊が私たちの心に住んでくださって、私たちの命に働きかけてくださるので、私たちは神様を愛し、賛美し、創造された目的を果たすことができるのです。