普遍的教会

エペソ人への手紙 4:4-6

ロビソン・デイヴィッド
2019年03月17日

今日と次回の2回で「教会」ということをテーマにシリーズで学びたいと思っています。一緒に新しい教会になろうとしている私たちにとって、必要な学びだと思います。私たちはここで新しい教会となることを願っていますが、教会とはそもそも一体なんなのかと、ということを考えていきましょう。
「教会」と言うと、多くの人が教会の建物を考えるかもしれません。または、教会は日曜日の礼拝のことだと考える人も多いと思います。また、教会は牧師を会長とした団体のようだと思う人もいると思います。牧師はもちろん、日曜礼拝や、建物は、教会の成長と働きのために大切なことなんですが、それらのことは実は教会を定義するものではありません。つまり、これらのことはとても大切ですが、それがなかったとしても、教会として存在することができるのです。
聖書によれば、教会とは実に、人々のことです。聖書で使われている、教会というギリシャ語の言葉は、集まりや、会という意味で、とても普通の言葉を使っています。集められた人々という意味です。ですから、教会は神様が集められた人々ということになります。それには二つの意味があります。まず、すべてのクリスチャンはイエス様を通じて、神様のもとに集められたので、すべてのクリスチャンをまとめて、一つの教会ということができます。これは普遍的教会と呼ばれています。普遍的教会は人間には見えないもので、神様だけに見える、霊的な事実です。神様だけが人間の心を知っているで、神様だけが誰が救われているのかをご存知だからです。つまり普遍的教会の中に誰がいるのか知っているのは神様だけです。
二番目の意味は地域教会ということです。ある地域で、特定のクリスチャン達が神様を礼拝したり、神様のみ言葉を学んだり、一緒にキリストの姿に成長するために集まることです。たとえば、盛岡聖書バプテスト教会は地域教会です。これからこの集まりも宮古にある地域教会になることへ向かっています。地域教会というのは、見えない普遍的教会の目に見える姿だ、と言うことができます。地域教会がどのように普遍的教会を表すのかについては、次回のメッセージで学びたいと思いますが、今日は普遍的教会について学びたいと思います。クリスチャンは、別々の地域教会のメンバーであっても、実は、皆が同じ神様の普遍的教会のメンバーなんです。
エペソ人への手紙 4:4-6
ここに体は一つだと書いてあります。その体とは教会のことで、それは一つの普遍的教会であるという意味です。その教会のメンバーは誰でしょうか。それは、一つの御霊を通して繋がっていて、一つの主イエスキリストに仕えていて、一つの福音に基づく信仰を持っている人達です。また私たちは、神様の証しをするために、同じ洗礼を受けました。また、一つの父なる神様を持っている人たちです。つまり、すべてのクリスチャンはその一つの体、一つの普遍的教会のメンバーなのです。全世界のクリスチャンはこのように、御霊を通じて、つながっています。
今日は、その普遍的教会の特徴を学ぶために、エペソ人への手紙に出てくる、三つの教会についてのたとえを見たいと思います。それは
1.教会は聖なる宮である。
2.教会はキリストの体である。
3.教会はキリストの花嫁である。
まず、教会は聖なる宮だ、というたとえについて考えましょう。
エペソ人への手紙2:19-22

21節と22節を見ると、教会は神様の宮で、神様のみ住まいとなるところだと書いてあります。ユダヤ人たちにとって、主の宮はとても特別なところでした。主の宮は一つだけで、エルサレムにありました。そして神様を礼拝するために、エルサレムに行かなければなりませんでした。ですから、旧約聖書の時代には、ユダヤ人たちは年に三回、全国からエルサレムに集まって、主の宮でいけにえを捧げなければなりませんでした。
しかしこのエペソ人への手紙の中で、パウロはとても不思議なことを書きました。教会はある意味で、主の新しい宮になったというのです。つまり教会はエルサレムにある主の宮に代わるものだということです。ここでパウロは、教会の建物について話しているのではなくて、すべてのクリスチャンが主の宮になった、ということを言っています。つまり私たちは、互いに、神様の宮になりました。クリスチャン一人一人が主の宮を建てている石の一つのようになったんです。そして、クリスチャンが神様の教会として集められると、神様ご自身が特別にその集まりの中にいてくださいます。
では、どのような集まりの中に神様がいてくださるのでしょうか。この宮の特徴は何でしょうか。
エペソ人への手紙2:21
この宮は使徒たちや、預言者たちという土台の上に建てられていると書いてあります。それはどういう意味でしょうか。神様は使徒たちを通じて新約聖書を書かれ、預言者たちを通じて旧約聖書を書かれました。つまりこの土台というのは、聖書のことを意味しています。神様の教会は神様のみ言葉の上に建てられました。この聖書がクリスチャンが何を信じるべきか、どうやって生活するべきか、神様はどんな方なのか、を表していますので、神様のみ言葉は教会の聖化の土台です。
使徒たちと預言者、つまり聖書が教会の土台ですが、その要の石、つまり、その土台の中で一番大切で、一番強い石はイエス・キリストご自身です。教会のすべてがキリストに寄り頼んでいるということです。キリストは私たちの救い主で、私たちの模範で、私たちの教師で、私たちの主です。
    このたとえを考えると、教会は神様が集められた人々によって建てられて、神様がその人たちの中にお住まいになることが分かります。神様を礼拝するために、特別な場所に行かなくてもいいんです。むしろ、どこでもクリスチャンが神様の教会として集まると、神様がそこにいてくださいます。また教会の一番大切な特徴は主イエスキリストと、使徒たちや預言者たちを通じて書かれた神様のみ言葉の上に建てられているということです。もしある集まりが別の土台の上に建てられたら、それは教会ではありません。そこには神様が住まわれません。たとえば、もしある集まりが、私たちは教会だと言っても、その人たちがイエス様に信仰を持っていなくて、神様のみ言葉を信頼していなくて、みことばに従わないなら、それは教会ではありません。ですから、宮古で開拓するために、私たちの信仰は主イエス・キリストだけに基づいて、またすべての教えは神様のみ言葉の上に基づくことが必要だと確信しています。
では二番目のたとえ、教会はキリストの体だということを見てみましょう。
エペソ人への手紙4:15-16
このたとえの意味は、人間の体が生きていて、成長しているように、教会も生きていて、成長するという意味です。教会はキリストによって成長します。一つ目のたとえの中で、建物の石がお互いにつながっているように、神様はすべてのクリスチャンをつなぎ合わせます。そして、このたとえにも、体の骨が節々を支えとして組み合わされるように、クリスチャンすべてがキリストによって組み合わされている、ということが教えられています。
その意味はそれぞれのクリスチャンの霊的な成長の経験は、教会の中で起こる、ということです。クリスチャンの成長は私たちの頭なるキリストのようになることなので、その成長を経験するのに必要なことはキリストの体、つまりキリストの教会につながるということです。
ところが、クリスチャンとしてキリストの普遍的教会の中にいながら、地域教会のメンバーではない状況になることもあります。残念なことですが、多くのクリスチャンが地域教会がない地域に住んでいます。また地域教会に繋がりたくない、または事情によってつながることができないクリスチャンもいます。そのような場合には普遍的教会の部分にはなっていますが、神様のクリスチャンに対する召しを完全に経験することができません。クリスチャン同士の交わりや励まし、教えがないと、霊的な成長はとても難しくなります。
霊的な成長の要は、他のクリスチャンとの関わりです。キリストに支配された、愛と真理に基づいた関係が必要です。クリスチャンが互いに、愛を持って、真理を語ることを通じて、一人一人のクリスチャン、また、教会全体が成長します。教会の中で、クリスチャンが互いに、つらいことを経験している人を応援したり、罪を犯している人を注意したり、神様の真理のみ言葉を学んだりすることを通じて、私たちは成長します。このような関係はとても深く、家族のような関係で、キリストだけがクリスチャン同士の間にこのような関係を作ることができます。私たちは、キリストによって、クリスチャンの兄弟姉妹に対して深い愛を持つようになります。また複雑な状況の中で、ふさわしいことを言う知恵をキリストを通じてのみ、いただくことができます。また、私たちが罪を犯して、間違える時に、キリストから、謙遜と悔い改める力をいただくことができます。そのようなことはキリストなしには無理なことです。
最後に、教会はキリストの花嫁であるというたとえを見てみましょう。
エペソ人への手紙5:23-27
ここでパウロは教会を結婚した夫婦と比べています。教会が妻、キリストが夫を表しています。このたとえから私たちは二つの大切なことを学ぶことができます。
まず、私たち、教会としての責任はキリストに従うことだ、ということです。キリストは教会の上に権威を持っておられます。キリストは私たちを導き、教え、また神様の目的を達成するために送り出してくださいます。キリストだけに、教会の中でどのように神様を礼拝するべきか、なにがふさわしくて、何がふさわしくないかを命じる権威があります。
    次に、キリストが教会を深く愛していることが分かります。キリストは、夫が自分の花嫁を見るように教会を見ておられるのです。キリストは、教会を救って、きよめるために死んでくださったほど、教会を愛しています。十字架の上に付けられた時、ご自分の選ばれた民すべてのことを思ってくださいました。この新しい体、つまり教会を創造するために、自分のいのちを犠牲にされました。
    私はこの箇所を読むと、立派な王様が、まずしくて、ボロボロの服を着ている女性に会う場面をイメージします。そのまずしく、汚い女性は悪い人に襲われています。そこに立派な王様があらわれて、その女性を救って、彼女を自分の王宮に連れて行き、しもべたちに彼女を洗って、立派な服を着せるようにと頼みます。最後に、救いだしたその女性に結婚を申し込みます。イエス様はその王様のようで、教会はそのまずしい女性のようです。しかし、事実はこの話よりはるかに驚くべきことです。
キリストは、私たちを私たち自身の罪から救いだして、神様の正しい怒りという恐ろしい危険から私たちを守ってくださったんです。
    今日見てきた三つのたとえに共通することは、教会はキリストを通して神様と特別な関係を持っている、ということです。キリストは教会の要の石で、その土台の上に私たちは建てられています。またキリストはその体の頭として、体の一つ一つの部分をご自分に似た者として成長させてくださいます。そしてキリストは、花嫁を愛する夫のように、教会のために自分を犠牲にして、教会をきよめ、ご自分の前にしみのないものとして立たせてくださいます。
  私たちは、それぞれが別々に神様と関係を持っている個人個人の集まりではなくて、もっと大きな素晴らしいものの一部なのです。それは主の住まれる宮であり、キリストの体であり、家族です。私たちはキリストのために、キリストを通じて、キリストの元に、集められ、つなぎ合わされています。キリストが私たちの代わりに代価を払って獲得してくださった祝福を、私たちが完全に経験することができるのは、この交わりと関係を通してだけです。
  次回私が説教するのは再来週の31日になりますが、次回は、この素晴らしい真理が、地域教会において、実際的にどのように実現されるのかを学びたいと思っています。