あなたがたはキリストの体である

1コリント12:12-27

ロビソン・デイヴィッド
2019年03月31日

二週間前の説教で、エペソ人への手紙の中に出てくる、普遍的教会を表す三つのたとえについて学びました。一 つは、教会は聖なる宮であるということでした。つまり、神様がキリストと神様のみ言葉の上に、私たちを互いに新しい宮として組み合わせて、神様が私たち教会の中に住むようになります。二つ目は、教会はキリストの体である、ということでした。つまり、体の部分一つ一つが成長するように、私たちもキリストの体の部分として、成長しています。三つ目は、教会はキリストの花嫁である、ということです。それはキリストが教会を深く愛して、教会のために自分の命を犠牲にしてくださったこと、また、私たちがキリストの花嫁として、キリストに従うことを教えています。
    今日は、一つ一つの地域教会において、どのようにこの素晴らしい事実が具体的に、現実になるのか、コリント人への手紙第一 12:12-27から学びたいと思います。この箇所でも、パウロは教会についてキリストの体のたとえを使って語っていますが、ここでは、先々週学んだエペソ人への手紙の箇所とは違う意味を表していると思います。
コリント人への手紙第一12:27
    まず、12:27を見てください。「あなたがたはキリストの体である」と書いてありました。この手紙はコリントにある地域教会にあてて書かれたものなので、それぞれの地域教会がキリストの体のようだ、ということを言っていると思います。
つまり、コリントという地域で教会として集まっているクリスチャンの集まりが、一人のクリスチャンにはできない方法で特別にキリストを表しているということです。地域教会のメンバーは互いに協力して、キリストの働きを続けます。つまり、個人個人のクリスチャンがバラバラにするのではなくて、クリスチャンの集まりである一つ一つの地域教会こそが、キリストの体の目に見える表現だと言うことができるのです。
    しかし、その後に、何が書いてありましたか。「一人一人はその部分です。」とあります。つまり、神様のみこころは、一人一人のクリスチャンが地域教会の部分になることです。一人一人のクリスチャンは、地域教会が適切に機能するために、本質的な役目を果たします。キリストの働きを達成するためには、一人一人のクリスチャンが地域教会の中に、必要な存在なんです。
    実はアメリカのクリスチャンにとって、この教えを受け入れることは難しいことなんです。アメリカの教会の中で、良く言われていることは、クリスチャン人生の中で一番大切なのは、キリストと個人的な関係を持つことだ、ということです。一人一人のクリスチャンが心からイエス様を信じることが必要で、その個人の信仰がないなら、クリスチャンの両親のもとに生まれたとしても、教会に通っていたとしても、たましいの救いに関して、意味がないんだ、ということです。
それは確かに正しいことですが、その事を教会の中であまりにも強調しているので、多くのアメリカのクリスチャンは、地域教会はあまり大切ではないとか、教会生活はあまり必要ではないと考えていると思います。多くのアメリカのクリスチャンの考え方は、もし自分で聖書を読んで、自分の人生の中で神様に従っているなら、教会とのつながりは必要ではないということです。しかしそれはとてもかたよった考え方だと思います。地域教会は神様のご計画の中で、とても大切な物なんです。
    12:18に焦点をあてて、この短い節から三つのことを考えたいと思います。
    「しかし実際、神はみこころにしたがって、体の中にそれぞれの部分を備えてくださいました。」
この節から三つの点を考えたいと思います。
1.神様は目的をもって体の中の各部分を備えておられる。
2.各部分である私たちにはそれぞれ賜物と役割が与えられている。
3.神様は誰にどんな賜物と役割を与えるかを定めておられる。
まず「神様は目的をもって体の中の各部分を備えておられる。」ということについて考えましょう。その意味は神様がキリストの体を組み立てる時、じっくり考えたという意味です。
神様は人間の肉の体を組み立てたように、それぞれの地域教会を組み立てています。神様はある地域である人をその地域教会に置いて、役割と賜物を与えてくださいます。
12:4-7
    ここで、神様が三つのことについて話しています。それは賜物、奉仕、と働きです。そのすべては神様からでることです。神様は教会の中のすべての人に、賜物と奉仕と働きをくださるのです。
御霊は賜物をくださいます。賜物とは、教会を建て上げるために御霊がくださる特別な能力のことです。そして、主イエス・キリストは、教会の中で色々な奉仕をするようにと私たちに命じています。それは牧師だけではなくて、教会の中のすべての人が教会の働きに参加するように召されています。ある人は教会学校の教師、ある人は伝道師として、友達や同僚を教会に誘う召しをうけるかもしれません。さらに、色んな働きをするために、父なる神様から力をいただきます。教会にはたくさんの働きがあって、たくさんの活動もあります。たとえば、友人に証しをすることや、教会のイベントを手伝うことや、聖書の学びをリードすることもありますが、すべては神様の力を通じて行うことです。

神様がキリストの体の各部分、つまりそれぞれのクリスチャンを、ふさわしいところに配置して、それぞれのクリスチャンに賜物をくださって、それぞれの奉仕のためにクリスチャン一人一人に召しを与えて、それぞれの働きをできるように、一人一人に力をくださいます。そして神様は、その素晴らしい知恵によって、それぞれの地域教会が神様の働きをするために必要なクリスチャン、必要な賜物を備えてくださっています。
次に、2番目のポイント「各部分である私たちにはそれぞれ賜物と役割が与えられている。」ということについて考えたいと思います。それは教会の中にそれぞれのクリスチャンが神様から賜物を受けて、備えられているということです。人間の肉の体の中のすべての部分に役割があるのと同じように、キリストの体の中のすべてのクリスチャンに役割があります。この集まりの中でも、一人一人が御霊から賜物を受けて、主イエス・キリストから奉仕の召しを受けて、また父なる神様から働きをする力を受けていると確信しています。神様が宮古で人を救って、キリストの姿のようになさるために、わたしを、また、みなさんお一人一人を用いてくださると信じています。


教会の中には、賜物もなく、召しもなく、力もないクリスチャンは誰もいません。地域教会が適切に機能するためには、それぞれのメンバーが信仰に歩んで、神様からくださった賜物を用い、主イエス・キリストからの召しに従って、神様から与えられる力によって働くことが必要です。
    最後に3番目のポイント「神様は誰にどんな賜物と役割を与えるかを定めておられる」ということについて考えましょう。誰がどんな賜物を受けて、また、どんな召しを受けるのかを決めるのは神様だけです。私たちには、こんな賜物が欲しいとか、こんな奉仕がいいとか、この働きをやろうということを決める権威はありません。神様が私たちの賜物や奉仕を、教会の成長のためにもうすでに決めておられるからです。ですから私たちは教会の中の役割を自分で決めるのではなくて、神様に祈って、神様のみこころを求めてそれに従うことが大切です。
    神様は教会の中のすべての人を同じ働きに召してはおられません。また教会の中に他のメンバーより大切な人はいません。人間の体が適切に機能するためには、体の中の部分はすべて必要ですね。それと同じように、地域教会の中のメンバー一人一人はすべて大切な存在です。教会の中のすべてのクリスチャンが神様に召されたところで仕えると、神様の素晴らしい知恵によって、神様の素晴らしい目的を達成することができます。
神様は、ある人を牧師として、教会の中で人を教えたり、キリストの弟子として育てるために召されるかもしれません。またある人を社会に送り出して、職場や学校や地域の中で人に伝道して、救いに導いて、キリストの体につなげることに召されるかもしれません。またある人を教会学校で仕えるように召されるかもしれません。このように教会の中には、いろんな賜物、いろんな奉仕、いろんな働きがありますが、どれかが他より大切ということはありません。すべてが必要です。すべては神様から受けた召しなのです。
    私は若い頃、パソコンが得意で、教会でその能力を使ってほしかったので、礼拝でプロジェクターを操作したり、教会のウエブサイトを作ったりしました。しかし、そのパソコンの能力は、聖書が言っている賜物とは違うと思います。なぜなら、神様から受ける召しと違って、プロジェクターの操作の奉仕は、その働きをするために、神様から力を受ける必要がなかったんです。それは単に、私がもともと得意なことでした。もちろん、そのような教会の奉仕は大切で、そのような働きをする人も必要ですが、神様は私から違うことを求めておられたと思います。
    大学生の時、私はバイブル・カレッジでITを専門にまなんで、副専攻は聖書でした。私の父は私の母教会の牧師で、私に、教会の高校生に聖書を教えてくれないかと聞きました。
しかし私には聖書を教える能力はないし、そのような奉仕をすることを望んでいませんでした。当時、自分が聖書を教えることを考えると、怖くなりました。当然、できませんと答えました。
    しかし、大学四年生の時、神様から、聖書をもっと深く知るようにと強く言われている感じがしました。大学で聖書の授業もたくさん取りましたが、その時までは、聖書をもっと分かりたいという気持ちはあまりなかったんです。でも、その思いが与えられてから毎日、自分で聖書を学んで、神様に聖書を理解する力を祈り始めました。その夏、短期宣教旅行で、初めて日本に行きました。
    その短期宣教旅行は私にとってとても大変な経験でした。その旅の間、自分ができないと思うことを何度も頼まれました。英語クラスの生徒に福音を伝えることや、聖書の学びの中で証しをすることや、礼拝の中で証しや、チームの学びのリードなどを頼まれました。父に断ったのと同じように、それはできませんと答えたい気持ちもありましたが、その時は、「はい」と言っていました。神様がこのために私を日本に送り出したのかもしれないと思って、もしそうだったら、神様は私を助けてくださるかなと弱い信仰の中に考えました。驚いたことは、神様が本当に助けてくださって、私を使ってくださったことです。あの時の奉仕は自分の中から出た希望ではなくて、主イエス・キリストから受けた命令だったと思います。
そのような働きは自分の能力では無理ですが、神様が力を与えて、御霊が賜物を与えてくださったので、神様の力を通じて、まっとうすることができたんです。
その旅が終わってアメリカに戻ると、父にまた、高校生に聖書を教えてくれないかと聞かれました。今度は、「はい」と答えました。その時から今まで、教会の中で人に聖書を教えています。それは自分の能力ではなくて、御霊からもらった賜物だと思います。
私と同じような人もいるかもしれません。今日学んだ箇所によれば、すべてのクリスチャンは教会の益となるために御霊から賜物を受けました。しかし多くの人は、自分が受けた賜物が何なのかまだ分からなくて、その賜物を使っていないかもしれません。もし日本のすべてのクリスチャンが、神様からいただいた賜物と、奉仕と、働きに気付いて、神様への信頼と信仰の中で、神様に仕えるようになったら、とても素晴らしいことになると思います。