イースター2019:エマオへの道 

ルカによる福音書24:13-35

ロビソン・デイヴィッド
2019年04月21日

今日の箇所の最初の部分では、イエス様の二人の弟子は悲しみの中で、当惑とショックを感じていました。しかし最後にはそれが喜びと理解に変わり、違う意味でのショックと驚きを感じるように変化していきましたね。その大きな変化の原因は何だったんでしょうか。それは、この二人の弟子たちが、イエス様が復活したことを確信するに至ったことでした。
イエス様が十字架で死んだ三日間後に、この二人はエルサレムから出かけました。どうしてかは分かりませんが、イエス様が死んでしまったので、故郷に戻って、前の生活に戻ろうと考えていたかもしれません。彼らはエマオと言う小さい村に向かっていました。エルサレムからエマオまで、歩いて2時間ぐらいかかります。歩きながら、イエス様の死について話していました。これからどうすればいいんだろうか。彼らは、イエス様に従うために仕事も、家も、家族からも離れていました。イエス様こそイスラエルを解放する方だと信じていましたが、イエス様が死んでしまったので、それを疑っていました。二人の心は悲しみに満ちて、これから何をするべきか全くわかりませんでした。自分の人生をイエス様の宣教のためにささげたことが、まったくの無駄だったと感じていたかもしれません。
15節を見ると、「話し合ったり、論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいてきて、彼らとともに歩き始められた」と書いてあります。そこまでを読むと、イエス様が復活した姿を彼らに見せて、ハッピーエンドになると予想するかもしれませんが、実際にはイエス様は、ご自分が生きていることを弟子たちにすぐに表してはくださいませんでした。むしろ、16節によると「しかし二人の目はさえぎられて、イエスであることが分からなかった。」と書いてあります。どうしてでしょうか。イエス様は、この二人をすぐに慰めて、希望や人生の意味をすぐに教えることができましたが、しませんでした。イエス様は、この二人が一番見たかった、復活したご自分の姿を隠したんです。どうしてでしょうか。
それは、弟子たちが、とても大切で、とても難しいことを学ぶことが必要だったからだと思います。それは自分の目に見えることや、自分の経験ではなくて、神様のみ言葉に信頼することが必要だということです。
それからイエス様は、とても意外なことをしました。奇跡をおこなうのでもなく、ご自分の栄光を表すのでもなく、説教を語られたんです。しかも、2時間ぐらいの長い説教を旧約聖書全体から語られました。
ルカの福音書24:25-27
エルサレムからエマオまでの2時間の道のりの間に、イエス様は、モーセが書いた創世記から最後の預言者マラキまでの旧約聖書全体を通して、イエス様の死と復活によって世界の人々を救う計画がもうすでに書かれていたことを説き明かされました。
たとえば、創世記3:15で神様は、サタンがキリストのかかとを打つが、キリストがサタンの頭を打つと言われました。またイザヤ書53:5では、キリストは私たちの背きのためにさされ、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに私たちは癒されると書いてあります。しかし、詩編16:10では、ダビデは神様がキリストの魂をよみに捨て置かず、神様にある敬虔な者に滅びをお見せにならない、とも書いてあります。またマタイの福音書12:40でイエス様は、旧約聖書の預言者ヨナに言及して、ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいると言われました。また創世記22:18には、神様がアブラハムに、アブラハムの子孫、つまりキリストによって、地のすべての国々は祝福つまり救いと御霊を受けるようになると書かれています。これらの預言以外にも、キリストの福音を証しする預言が無数に旧約聖書に記されているんです。
神様の救いのご計画は、神様のみことばの中に、最初から最後まですでに示されていました。イエス様が言われた通りに、み言葉の中に次のように書いてあります。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の許しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々にのべつたえられる」。弟子たちはこれらのみ言葉を読んでいましたね。ユダヤ人の律法学者たちもみ言葉を徹底的に研究して学んでいたのに、この神様の素晴らしいご計画を理解していた人は、誰もいなかったんです。
しかしイエス様がこの二人の弟子たちに聖書を説明した時、何が起こりましたか。
32節
イエス様が聖書を説き明かされると、弟子たちの心は内で燃えていました。聖書が生きた言葉として彼らに迫り、彼らを信仰に導き、希望を取り戻させて、彼らの目は開かれました。この時点では弟子たちはまだ自分の目で見ているイエス様に気づいていなかったのに、イエス様が聖書を説き明かしてくださると、心の中にイエス様が生きていることを感じたんです。聖書のすべての部分がイエス様が生きていることを証ししているからです。みことばを通して、イエス様が生きているはずで、死んだままでいることは絶対にないと確信することができたんです。
イエス様が生きているなら、彼らにとってすべてが変わりました。イエス様が生きているなら、自分の罪は許されているということです。イエス様が生きているなら、敵が自分を倒すことはできません。イエス様が生きているなら、自分も死を恐れる必要がなくなって希望があります。イエス様が生きているなら、自分も命と力と目的に満ちているということなんです。
この二人の弟子たちは、聖書を読んだことはあっても、神の御子が聖書を説き明かしてくださるまで、聖書をこのように理解したことはありませんでした。イエス様の現在の弟子である私たちも同じです。私たちは、神様のみ言葉を与えられていますが、神様の御霊による助けがなかったら、聖書を本当に理解することはできません。聖書を理解して、神様のみ言葉に信頼するためには、心の中に御霊が生きていることが必要です。
私たちが聖書を読み、み言葉が教えていることを聞き、一緒に聖書について話し合う時に、私たちの心の中に住んでおられる御霊が働いて、神様の御心と真実を表してくださいます。私たちの心の中に、聖書と御霊がこのように互いに働いてくださることは、神様とのコミュニケーションの一番明確で、一番大切な方法です。神様は、この聖霊とみことばの働きを通して、私たちの心の中に福音の正しさ、つまり、キリストが自分の罪のために死んでくださったこと、イエス様が復活して、今神様の栄光の中に生きていること、そしてそのイエス様だけを通じて赦しと救いが与えられることを確信させてくださいます。