一つだけの名前

使徒の働き4:1-22

ロビソン・デイヴィッド
2019年06月30日

 先週、妻と一緒に礼拝や教会のイベントのために借りられる場所を探しに行きました。イーストピアや、陸中ビル、シーアリーナなどに行って、スタッフの人と話しをしました。一つ分かったことは、そういった施設の多くは宗教に対して少し不信感を持っているということでした。教会だけでなく宗教団体はまったく借りられない施設もありましたし、礼拝をしてもいいけど、教会のメンバー以外を誘うことができないルールがあった場所もありました。つまり、教会の内部の人が集まって礼拝するのは大丈夫ですが、伝道は禁止ということです。禁止されている理由は、公共の場所で伝道すると、クリスチャンでない人にとって不快かもしれないからだと思います。

 このようなルールはクリスチャンにとって難しい状況を作り出します。伝道はキリスト教のとても中心的な要素だからです。イエス様はヨハネの福音書3:18で「御子を信じない者はすでに裁かれている。神の一人子の名を信じなかったからである」と言いました。しかしこのようなある意味で排他的な教えは、多くの人を居心地の悪い気持にさせてしまうことがあるわけです。世界で初めて福音が伝えられた時から今日(こんにち)まで、福音を聞くと居心地が悪いどころか、気分を害する人が多くいるのです。

 現代人にとっても、キリスト教の教えの中で一番受け入れがたいのは、救いに導かれる道はイエス・キリストしかない、ということではないでしょうか。聖書によれば、誰でも罪を悔い改めて、他の宗教から離れてイエス様だけに信仰を持たなければ、神様の怒りを受けることになります。この教え、この真実は、多くの人にとってとても恐ろしくて不愉快な内容で、私たちはこの真実を伝えることをなるべく避けたいと無意識に思ってしまうのではないでしょうか。

 今日の箇所から、ペテロとヨハネがこの真実を伝えさせまいとする圧力に対してどのように対応したかを学びたいと思います。

まず使徒の働き4:1-7をお読みしましょう。

 使徒の働き3章で、ペテロはイエス様の名によって足の不自由な人を癒やすという、素晴らしい奇跡を行いました。この癒された人とペテロを通して、神様は多くの人に福音を聞く機会を与えられました。この時ペテロが大胆に語った説教を読むと、最初から最後まで完全にイエス様に焦点をあてて教えていることが分かります。それは私たちの模範にすべき、とても素晴らしい伝道でした。しかしこのように大胆に説教したことによって、二つのことが起こりました。

 一つ目は、人々が反発したことです。ユダヤ人の指導者たち、長老たち、律法学者たちはペテロとヨハネに手をかけて捕らえて、黙らせようとしました。イエス様はヨハネの福音書15:20でこう言っておられます。「しもべは主人にまさるものではない。・・人々が私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」

 今日の箇所の使徒の働き4章で、このイエス様の預言の初めの成就を見ることができます。この箇所から、使徒の働きの最後まで、イエス様の弟子たちは迫害ばかりを経験することになります。弟子たちは、ユダヤ人の指導者たちだけではなく、様々な異邦人の町の指導者たちからも、ローマ帝国の指導者たちからも迫害を受けます。どこに行っても、イエス様の福音を伝える時には反発する人たちが必ずいました。

 なぜでしょうか。なぜ人々は、福音を聞くと拒絶するのでしょうか。使徒パウロはローマ人への手紙5:10で、私たちは神様の敵であって、イエス様の死によって神様と和解させていただいたと書いています。つまり、イエス様をまだ信じていない人は、神様の敵のままだということです。またパウロは、ローマ人への手紙8:5-7で、人間は肉に従う者と御霊に従う者の二つに分かれると書いています。肉に従う者は肉に属することを考えるので、そういう人は神様に敵対し、神の律法に従わないだけでなく、従うことができないのだ、とあります。この世にいる人間は、根本的に神様に敵対しています。ですから私たちが神様の福音を伝える時には、神様に敵対している心に伝えることになるのです。

 しかし、大胆に説教することによって起こった二つ目の結果は、人々が救われた、ということでした。

使徒の働き4:4

 これを読むと、すべての人が福音に敵対したのではないことが分かります。むしろ、多くの人は福音を聞くと、福音の正しさに気付いて、心をさされ、悔い改めて、福音を受け入れたのです。そして、神様の敵から神様のしもべと変えられました。

 使徒パウロは1コリント1:18で、十字架のことば、つまり福音は、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力だと言いました。私たちが福音を伝える時、福音を拒絶する人は必ずいますが、一方で神様に召された者が福音を聞くと、喜んで受け入れます。

 では、ペテロとヨハネがどのように人々の反発に答えたのかを見てみましょう。

使徒の働き4:8-12

 ペテロの返事は、びっくりするほど大胆なものでした。なんとも失礼で、怒りから出た言葉だと思う人もいるかもしれません。ペテロは大祭司アンナス、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちなど、とても偉い人達に対して語っていました。この人達はペテロに危害を加える力を持っていました。そしてペテロを脅迫して黙らせようとしていたのです。ペテロは、イエス様を殺したのもその同じ人たちで、自分も殺されるかもしれないと分かっていました。指導者たちは、ペテロがイエス様について語るのをやめさせることができると信じていたと思います。

 しかしペテロの返事はまったく予想外なものでした。ペテロが指導者たちに訴えたのは、彼らはイエス様を殺したが、神様がイエス様をよみがえらせた、ということ、また、彼らはイエス様を捨てたが、神様はイエス様の御名を高く上げた、ということでした。つまり、彼らは神様のしもべで、神様の律法を守る人だと思われているけれど、実は、神様の敵なのだと伝えたのです。

 ペテロはどうしてそんなに大胆な、失礼な返事をしたんでしょうか。どうして偉い人たちと穏便にやろうとしなかったんでしょうか。その理由は使徒の働き4:12のペテロの結論から読み取ることができると思います。

使徒の働き4:12

 ユダヤ人の指導者たちは、ペテロがイエス様の名によって教えることをやめさせようとしていました。彼らにとっては、ペテロが心の中でイエス様に信仰を持っていることは問題ではありませんでした。しかし、他の人にもイエス様の名を信じさせようとすることを許すことはできなかったのです。日本でも「内心の自由」という言葉がありますね。心の内では何を信じても自由だけど、周りの人まで巻き込むことは許されない、という文化的な雰囲気が、現在でもあるのではないでしょうか。ところがペテロは、真っ向からその態度に立ち向かっていきました。

 イエス様以外には誰によっても救いはありません。もしペテロがイエス様の名によって福音を伝えなければ、すべての人は裁きの中にとどまっていたのです。人間にとって一番必要なことは救いです。私たちはすべて、人間として、神様の怒りから救われることが必要です。すべての人が、自分の罪、また、自分の罪の結果から救われなければなりません。キリスト教の基本的な教えは、すべての人間は、一人のこらず、とても危険な状態にあるということです。私たちはすべて、悪い心を持った汚れた者として、正しく、聖である神様の前に立っています。私たちが自分自身を救うことは絶対に無理ですから、私たちは救ってくださる方を切実に必要としているのです。

 また、完全に正しく聖であられる神様は、私たちが邪悪な者なのにも関わらず、その計り知れない愛とあわれみによって、私たちを癒やしてくださり、聖なる者とされる道を与えてくださいました。その道はただ一つだけです。それはイエス様の名によって救われることです。

 当時の指導者たちがイエス様の福音を封印しようとしたことは、誰も救われる人がいないようにしているのと同じことです。本人たちは気づいていなかったかもしれませんが、彼らがしていたことは実は、すべての人が地獄に向かうように一生懸命働くことになっていたのです。ペテロがまったく妥協せず、非常に大胆なメッセージを語ったのはそのためでした。ペテロはすべての人間が神様の素晴らしいあわれみと愛を知って、救われることを願っていたのです。そのためには、相手の社会的立場などはペテロにとって何の意味もないことでした。

 救われる道は一つだけです。天の下でイエス様の御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていません。生まれた時から死ぬまで完全な人生を送り、神様の律法に完全に従った人間はイエス様だけです。イエス様が私たちのために神様の律法を完全に守ってくださいましたので、誰でもイエス様の名に信頼すれば、神様はその人を義と認めてくださいます。人間のすべての罪を赦すのにふさわしい犠牲は、神様の一人子であるイエス様の死だけです。イエス様は、私たちが永遠の命を受けるために、十字架で死んでくださいました。私たちを救うことのできるほどの聖なる人生、またふさわしい死は、イエス様以外にはいません。天の下に、私たちが救われるべき名はイエス様の御名のほかには与えられていないのです。

 ユダヤ人の指導者たちはモーセの律法に従って、エリヤ、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちを信じていましたが、彼らの名によって救われることはできませんでした。またその時代の異邦人たちは、ゼウスやヘルメス、アルテミスなどの神々を信仰して、神々によって守ってもらおうとしましたが、そのような神々によって救われることはできませんでした。現代人の多くは、仏やモハメット、また、様々な神社の神々を信仰して、それぞれの名によって安全や保護を受けようとしていますが、それらの名によっても救われることはできません。

 私たちが救われるために神様が与えてくださった名前は、ただ一つ、イエス様の御名しかありません。誰しもが、イエス様の名によってでなければ救われることはできないのです。他に選択肢はありません。

 聖書の福音は、イエス様を信じた方がいい、ということではありません。イエス様を信じなければならないのです。これは神様が世界に与えた命令です。

 私がスピード違反の切符をもらったと想像してみてください。私は外国人で日本の法律があまり分からないので、知り合いの日本人に切符を見せて、どうすればいいのか聞きます。みなさんだったらどう答えますか。「罰金を払いたいなら、払ってもいいんじゃないですか?」と言うと思いますか?または、ルールを守らなかった時には罰金を払うのは正しいことなので、払った方がいいですよ、と伝えますか?それとも、罰金を払わないと逮捕されるかもしれないし、国外退去になるかもしれないから、払わなきゃダメですよ、と私に伝えるでしょうか。もし私のことを少しでも好きだったら、真実を伝えると思います。

 この箇所でペテロは真実を伝えています。イエス様の敵である人たちに対して、真実を伝えれば自分の身を危険にさらすことになるのにも関わらず、ペテロは福音の正しさを伝えました。ほかの人が救われる機会を奪われないために、自分の命を危険にさらしたのです。

 指導者たちが「イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならない」と命じた時、ペテロは使徒の働き4:19-20で、こう答えています。

使徒の働き4:19-20

 私たちも、ペテロが神様に対して持っていたような愛を与えられるように、他の人に対する愛を与えられるように、祈りましょう。天の下でイエス様の御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないことを、イエス様の御名によって、大胆に伝えることができるように、祈りましょう。