神様は主権者である方

使徒の働き4:23-31 

ロビソン・デイヴィッド
2019年07月14日

最近、開拓チームミーティングで教会のビジョンについて話していました。まだ話し合っている途中ですが、ビジョンの中の二つの点をお分かちしたいと思います。一つは、この教会として、宮古に住んでいるすべての人が救いに導かれるために仕え続けることです。二つ目は、この教会が将来、他の教会を生み出すようになることです。とても大きなビジョンで、不可能にすら思えることです。

私たち家族が宮古に来る前に、宮古に住んでいる他の牧師先生たちと話した時、私たちが宮古で新しい教会を始めようとしていると聞くと、びっくりしていました。宮古は人口が減っているし、クリスチャンは少ないし、新しい教会は必要ではないという意見もありました。宮古には100年前からキリスト教会がありますが、今、宮古市で教会に通っているクリスチャンは50人以下という状況です。理由は分かりませんが、宮古の人たちが救いに導かれることを阻んでいる何かがありそうです。

その障害となっているものが何なのか、はっきりは分かりません。一つは恐れかもしれません。人は、変化や、新しいことを恐れるのかもしれません。もう一つは偶像崇拝かもしれません。神社やお寺の影響が強そうで、そのような他の宗教から離れるのが難しい人もいるのかもしれません。またはクリスチャンになりにくいプレッシャーが家族から人もあるかもしれません。他にも多くの障害があって、宮古の人々が救いに導かれることを妨げているのだと思います。

そのようにたくさんの壁がある中で、大勢の人が救いに導かれて新しい教会がたくさん生まれることはおろか、一つの小さな教会を始めることですら、望みのないことのように思えるかもしれません。

今日は、初代教会が大きな壁に直面した時、どのようにそれに向かっていったのかを学びたいと思います。数週間前に、使徒の働き4章の最初の部分を学びました。ペテロとヨハネがユダヤ人の指導者たちに逮捕されて、厳しい取り調べを受けてから、イエス様の名によって語ることを一切してはならないと念押されて釈放されました。福音を伝えることが法律違反になってしまったということです。それは彼らにとってとても大きな壁でした。

一見すると、これは初代教会とユダヤ人の指導者たちの間の対立の話しのように見えます。一生懸命神様のご計画を達成しようとしている初代教会と、それを阻止しようとするユダヤ人の指導者たちの対立の構図に見えます。ユダヤ人の指導者たちには政治的権力があったし、イエス様ご自身をもう殺していました。初代教会はその力に敗北して、神様のご計画がくつがえされるのではないか、と思える展開かもしれません。この箇所を初めて読む人は、神様がご自分の民に近づいて助けてくださるのだろうか、とハラハラしながら読むかもしれません。

しかし、今日の箇所の中に、イエス様の弟子たちの祈りが記録されています。それを読むと、イエス様の弟子たちがこの状況に対してまったく違う視点を持っていたことが分かります。すなわち、その恐ろしい状況さえも、神様のご計画の一部であるという視点です。弟子たちは、神様がその困難な状況を完全に支配していると確信していました。この祈りを学ぶと、神様について、三つの大切な真理が分かります。その真理を理解することによって、イエス様の現在の弟子である私たち自身についても、また、現在神様に反逆している人たちに関しても、大切な真理を学ぶことができます。

この箇所から学び取ることのできる神様についての三つの真理は、

1.神様は主権者である方

2.神様は創造者

3.神様は前もって定められる方

まず24節から、神様は主権者である方ということについて考えてみましょう。この祈りの最初の部分で、弟子たちは「主よ。」と神様に語り掛けています。この「主よ。」は聖書の中によく出てくる、神様に対する普通の呼び掛けに見えるかもしれませんが、実は、ここで使われているギリシャ語の言葉は、聖書の中にあまり出てこないちょっと珍しい言葉なんです。それは「デスポテス」という言葉です。日本語に翻訳すると、「専制君主」と出てきます。意味は、絶対的で、無制限の権威と力がある方ということです。その時代のギリシャ人が神々を描写する時だけ用いるような強い言葉でしたが、聖書の中では、奴隷の主人についても使われています。

なぜ弟子たちがこの箇所で神様にその言葉で呼びかけたのか、それには二つの理由があると思います。

まず、神様はこの世の絶対的な君主、つまり王であるということです。旧約聖書の一つの話しを見てみたいと思います。

ダニエル4:29-33

このネブカデネザルは当時最強の国家であったバビロンの王でしたが、神様は彼をへりくだらせました。悔い改めて謙虚にされたネブカデネザルが、こう言っています。:

ダニエル4:34-35

神様には、従わなければならない法律はまったくありません。神様が説明責任を負っている運営組織というのもありません。神様の支配を脅かすものは一つもありません。神様はすべてのことにおいて絶対的、また最高の支配者で、すべてのことの上に主権のある方です。神様と比べると、初代教会が直面していた敵には権威も力もまったくなく、神様のご計画を阻む能力も全くありません。私たちの神様は最高主権者である方なのです。

使徒の働きにもどります。弟子たちがその言葉で神様に呼びかけた二つ目の理由は、自分たちが神様のしもべであることを告白したかったからだと思います。神様はご自分の民、つまり、私たちを含めたすべてのクリスチャンの上に、主権をもって治めておられる方です。神様は私たちの王であり主なので、私たちは誰よりもまず神様に従わなければなりません。ユダヤ人の指導者たちがペテロとヨハネに、イエス様の名によって語ることも一切してはならないと命じた時、ペテロはこう答えています。

使徒の働き4:19-20

ペテロとヨハネは最高主権者であられる神様のしもべでしたので、ユダヤ人の支配者たちより、神様に従わなければなりませんでした。ユダヤ人の指導者たちには、ペテロとヨハネに対して神様に従わないように命じる権威がなかったのです。ですから、弟子たちは29節の祈りの中でこの真理を告白する意味で、自分たちをしもべと言いました。

神様は、この世の最高君主です。また私たちは神様のしもべで、神様が私たちの主です。

神様についての二つ目の真理は、神様は創造者であるということです。

もう一度24節を見てください。

神様はすべてを作られました。それはとても深い真理です。空の中の太陽、月と星を作り、山、森、川、海も作られました。動物と植物、人間と天使たち、すべては神様が創造されたものです。存在しているものの中で、神様が作らなかったものは一つもありません。そして、神様が宇宙を作られる前には、永遠の前から神様以外の方は全く存在していませんでした。神様は人間が理解できないぐらい大きな力と知恵を持っておられる方です。

神様がすべての物を作られたので、神様より力のある者もいません。神様は、一瞬のうちにすべての物を存在しないようにすることができますので、神様を打ち負かすことのできる者はいないのです。

また、神様がご自分の目的を達成するのに障害となるものも全くありません。神様がご自分の計画を行うことを少しでも遅らせることのできるものもありません。どうやったら人間が神様に対抗できるでしょうか。すべての人間は神様に作られて、人間が生きるために必要な空気も、地の上にあるものもすべて神様が作ったものです。人間は、存在すること自体において、完全に神様に依存している者なのです。ですから神様を支配することのできる者は一人もいません。

そうであるならば、現在の神の民である私たちが神様のみこころを行おうとする時に、それを阻むことのできるものは全くないということになります。一見、私たちにとって障害のように見えるものですら、神様が創造されたものだからです。

最後に、神様は前もって定められる方である、ということについて考えましょう。

使徒の働き4:25-28

これは、聖書の中でもとても深く、また受け入れがたい教えかもしれません。弟子たちがここで言っているのはこういうことです。神様は、ご自分に敵対する者に対して対応するために力を使うのではなくて、実は、神様に敵対する者すらも、永遠の過去から神様ご自身のご計画の一部なのだ、ということです。

この箇所で弟子たちは、イエス様が殺される1,000年前のダビデの口を通して、イエス様の死が予言されていたことを証ししています。さらに28節を読むと、神様は、ヘロデとピラト、また異邦人やイスラエルの民がイエス様を殺すことを預言しただけではなくて、それを前もって定められていたのだということが分かります。神様が、それらの人々によってイエス様が殺されることを計画していたのだ、というのです。

弟子たちにとっては、イエス様が殺されたことは最悪の事態であり、最大の悲劇でした。悪が善に勝ったように見えました。神様が負けたように見えました。イエス様は不当に訴えられて、あざけられて、拷問されて、殺されました。それをした者たちは、歴史上もっとも悪いことをしたと言えます。しかし、実はそれすらも、神様のご計画の一部だったのです。その最大の悪事を通して、神様は最高の善を成し遂げられました。その悪を通して、世に救いをもたらしてくださいました。

聖書の中に、神様がこういう働き方をされたことがたくさん記録されています。創世記50:20で、ヨセフは自分の兄弟に奴隷として売られてから、エジプトで偉い人になって、それから何年も後に兄弟たちに再会した時、こう言いました。

「あなた方は私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が行かされるためだったのです。」

また出エジプト記7:3では、神様はこう言われました。

「私はファラオの心を頑なにし、私のしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。」

その言葉の通りに、神様はファラオの不従順を通してご自分の力を表わされました。また、ヨブ記1:21で、サタンがヨブの子どもを殺して、ヨブの持っていたすべてを奪った時、ヨブはこう言っています。

「主は与え、主は取られる。主の名前はほむべきかな。」

不思議なことですが、ご自分のみこころや栄光をヨブとサタンにしめすために、神様はサタンにヨブの子どもと持ち物を取らせたのです。ヨブはそれについて正しく理解していました。

聖書全体を通して神様について分かることは、神様はしたいことを何でもする力を持っているだけではないということです。また無限の知恵によって起こることをすべて知っているだけでもありません。そうではなくて、神様は、世界で起こるすべてのことの中で、ご自分の計画を行うために働いておられる方なのです。悪が善に勝ったように見える時にさえ、神様はご自分の目的を達成するために働かれていて、誰にも、何にも、神様を阻むことはできません。

また、この箇所から私たちは、神様の敵の本当の姿を見ることができます。ユダヤ人の指導者たちは全能の神様のしもべに手をかけて、神様ご自身に敵対しました。ユダヤ人の指導者たちは、主権者であり創造者であられる主に敵対しようとする愚かな人々でした。神様の計画を阻止できるかのように思われましたが、実は、彼らの反逆も、神様が永遠の過去から計画されていたことだったのです。

この時の状況は、初代教会とユダヤ人の指導者たちとの間の対立ではなくて、主権者である創造者の主と、創造された者であるユダヤ人の指導者たちとの対立であったと言えます。しかし実は、ユダヤ人の指導者たちには勝ち目が全くなく、それは対立と呼べるものですらなかったのです。

つまり、人間の目には、初代教会がまったく望みのない恐ろしい状況にあると見えたかもしれませんが、実はまったく望みがなく恐ろしい状況におかれていたのは初代教会ではなくて、初代教会に敵対した者たちの方だったのです。

弟子たちはこの深い真理を理解していたので、神様に対して二つの願いを祈りました。

使徒の働き4:29-30

まず、神様のみことばを大胆に語ることでした。また、神様が不思議なしるしを通して、ご自分のみことばの真実さを現わすことでした。私だったら、苦しみから守ってくださいと祈るかもしれません。逮捕されないようにしてくださいと祈るかもしれません。しかし、その弟子たちはそのようなことを願いませんでした。彼らは、自分たちが苦しみを受けて逮捕されることも神様のご計画の一部かもしれないということを理解していたのだと思います。弟子たちは、イエス様が苦しみを受けたのは神様のご計画の一部だったと確信していたので、イエス様の弟子として、イエス様の御名のために苦しみを受けることも神様のご計画の一部なのだと理解していました。ですから弟子たちの祈りは、どんな苦しい状況に置かれても、神様のみことばを大胆に語ることでした。弟子たちの祈りは、主に完全に信頼しているしもべたちの祈りでした。

私たちも、このように祈ることができるように、祈りましょう。