まことの礼拝となる

使徒の働き4:32 – 5:11

ロビソン・デイヴィッド
2019年08月11日

 ヨハネの福音書4章で、井戸でサマリア人の女の人と話していたイエス様が、このような不思議なことを言われました。

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって、父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」

 イエス様の時代には多くの礼拝者たちがいました。また今も世界には多くの礼拝者がいます。この世界中どこに行っても、何らかの霊的な存在を礼拝している宗教的な人はたくさんいます。しかし、私たちがクリスチャンとして信じていることは、聖書に示された神様ではない別の神を礼拝することはむなしいことだ、ということです。それはキリスト教の基本的な教えの一つですね。

 しかし、多くのクリスチャンが忘れがちなキリスト教のもう一つの基本的な教えは、どの神を礼拝するか、ということだけはなくて、どのように礼拝するか、ということもとても大切だということです。例えば、イエス様に対抗していたパリサイ人も、イエス様と同じ神様を礼拝していましたね。しかしイエス様はマタイの福音書15:7-9でパリサイ人にこう言っておられます。

「偽善者たちよ、イザヤはあなた方について見事に預言しています。

                この民は口先で私を敬うが、

                その心は私から遠く離れている。

                彼らが私を礼拝しても、むなしい。

                人間の命令を、教えとして教えるのだから。」

 神様は、罪びとを真の礼拝者に変えるためにイエス様をこの世に送ってくださいました。真の礼拝者は、唯一の神様を御霊と真理によって礼拝します。イエス様はその真の礼拝者たちを集めて教会を作りました。私たちはイエス様の教会として、新しい方法で、真の神様を礼拝します。それが教会の存在する目的です。神様を御霊と真理によって礼拝するのは、他の宗教の礼拝する方法とはまったく違います。私たちの召しは、まことの礼拝者として教会の一部となり、御霊の力によって、神様と周りの兄弟姉妹に対する純粋な愛を持って、神様を礼拝することです。

 今日の箇所は、アナニアとサッピラが売った土地の代金に関して嘘を付いた場面です。結果、神様は彼らの命を取られました。これについて、神様は厳し過ぎると思う人もいるかもしれません。しかし神様は、いつも公正に行動しておられる方です。

 アナニアとサッピラの罪は、イエス様の教会における働きを台無しにする恐れがありました。初代教会はイエス様に教えられた通りに、御霊と真理によって神様を礼拝していましたが、アナニアとサッピラが教会に入ってきて、自分たちの利益のために教会の純粋な礼拝を妨害しようとしたのです。

 アナニアとサッピラのことを学ぶ前に、使徒の働き4章の最後の部分から、神様が初代教会の中で働かれた三つの点を学びたいと思います。

1.教会はこの世に現わされた神の国である。

 使徒の働き4:32にこういうことが書いてあります。「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにした」。

つまり、初代教会の中には、教会のメンバー同士の間に特別な一致があったということです。なぜそのような一致をすることができたのでしょうか。

 以前学んだ1ペテロ2:9-10をもう一度見てみましょう。

 神様は、ご自分から断絶された人々を集めて新しい民としてくださり、新しい国を、また新しいコミュニティをお作りになりました。キリストによる和解が初代教会を一つにし、教会の中の人々の心と思いを一つにさせました。

 教会を通して、神様はご自分の素晴らしい祝福と愛を経験する新しいコミュニティを建て上げておられます。また、罪びとが悔い改めて福音を信じるように、人間が神様の元に立ち返って神様の権威に従うと、どんなに素晴らしい祝福と喜びを受けるのか、教会を通して、世に表しておられます。

 すべての人間が創造されたのは、神様の支配のもとに生き、神様との関係を持つためでしたが、私たちは神様の愛と権威を拒んで、自分自身のために生きることを選んでしまいました。その結果、すべての人間の神様との関係、また、周りの人との関係が取り返しのつかないほど壊れてしまいました。この世は憎しみ、わがまま、反乱と苦しみに満ちることになりました。それが福音の始めです。

 しかし、神様は私たちに、キリストを通して、赦しを受けて神様のもとに戻る道を与えてくださいました。誰でもキリストを通して神様のもとに戻ると、御霊を受けて、神の国、つまり、神様の教会へと歓迎されることになります。

教会はまだ破れた世の中にあるのですが、教会の中では一人一人が神様との間で、また、お互いの間で、回復された関係を経験することができるのです。

 

2.教会は神様の愛を経験し、それを世に表す。

 この新しいコミュニティである教会の一番わかりやすい特徴の一つは、クリスチャンとクリスチャンの間の愛です。

ヨハネ13:35

 このような愛は自分の心から出て来るものではなくて、私たちの心に住んでいる御霊から出る愛です。つまり、御霊が心の中にいないなら、このような愛はあり得ないことです。この愛は、世の人が普通に考える愛とは全く違います。私たちが神様の愛を理解すればするほど、その愛が私たちの中に成長していきます。この愛の一番はっきりとした模範は、イエス様の私たちのための十字架の上の死です。ですから私たちが福音をより深く理解するにつれて、神様に対する、また、周りの兄弟姉妹たちに対する愛が自然に大きくなっていくのです。

 

3.教会は真実の慈善をもたらす。

 3番目のことは、神様の愛は私たちの中にあふれ出て、何らかの必要のあるクリスチャンの兄弟姉妹に対する慈善とケアとして現れるということです。使徒の働き4:32-35にこのことを見ることができます。

使徒の働き4:32-35

 初代教会の人々は、互いに真実の愛と感心を持っていました。それは、キリストを通して一つの体となったことを誰もが

理解していたからです。初代教会の人々はこの一致を理解していたので、お互いを物理的、また経済的に支え合うことはとても自然なことでした。初代教会のクリスチャン達は、それぞれ自分の所持品や経済力は、貧しい兄弟姉妹と共有するためにある、と考えていました。彼らにとっては、周りのクリスチャンの必要は自分の必要と同じことでした。もし教会の中で誰かが大変さを経験しているなら、それは他人事ではなく、教会全体が大変さを経験していることなので、その人を助けることは当然のことでした。

 このような教会における慈善的行動のもっとも強力な側面は、それが周りの人に対する本物の愛からあふれ出ていることです。初代教会のクリスチャンは、教会内のプレッシャーによって、他のメンバーのために自分たちの所有物を売ることを余儀なくされたのではありませんでした。また、教会の中で自分の立場を高くするために慈善活動をしたのでもありません。この慈善の動機は他のクリスチャンに対する純粋で本物の愛でした。このような愛は神様によって変えられた心から出たものです。このような行動は実に、神様に対する御霊と真理による礼拝の行為なのです。

ヤコブの手紙1:27

 このようなきよく汚れのない宗教、御霊と真理による礼拝は世の中にとても珍しいことで、福音の真実を証しています。また、使徒の働き4:33にはこういうことが書いてあります:

「使徒たちは主イエスの復活を大きな力を持って証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。」

 初代教会の行動が、神の国がこの世に来ていることをすべての人に証ししました。この行動によって、神様は教会の中で被造物との関係を立て直し、また人間同士の間の関係も回復させてくださるのです。

使徒の働き4:36-37

 バルバナがこのような行動に踏み出したのも、愛の心からでした。

 慈善的な行動をすることは、もちろんクリスチャンだけに限ったことではありません。しかし多くの場合、世の中の慈善の動機は、他の人に良く思われたいという思いや、義務感などから出ているのではないでしょうか。慈善的な行動が純粋な相手に対する愛から出て来ることは珍しいので、人はそのような行動を見ると、感心したり感動したりするでしょう。しかし、初代教会においてはそれは珍しいことではなくて、生活の中の普通のことになっていました。そしてそれは周りの人たちに神様の栄光を表していました。

 神様が初代教会の中でどんなに素晴らしい働きをされていたか、また、その働きが福音の正しさを証しすることを理解すると、なぜサタンが初代教会の純粋な心を攻撃し、初代教会の一致を壊そうとしたのかも理解することができます。

 使徒の働き4章の最後はバルバナの純粋な慈善の行動で終わっています。ところが続く5章では、アナニアとサッピラの欺きが記録されています。

使徒の働き5:1-2

 この箇所を読むと、アナニアとサッピラが三つの罪を犯したことが分かります。この三つの罪は、初代教会の中で神様がなさっていた働きを妨げるものでした。

 

1.アナニアとサッピラは神様をあざむこうとした。

 4節を見ると、ペテロはこう言っています。「あなたは人をあざむいたのではなくて、神を欺いたのだ。」神様がご自分の教会の中で御霊と真理によって礼拝する礼拝者を養っておられるのに、アナニアとサッピラは教会の中に入って、その神様を欺こうとしたのです。神様を愛しているふりをしながら、真理によって礼拝するふりをしながら、実は彼らは神様の祝福を拒んで、肉的な快楽を得るために、神様の教会を欺こうとしたのです。

 

2.アナニアとサッピラはお金に対して貪欲だった。

 アナニアとサッピラは、神様よりも、また、周りのクリスチャン達よりも、お金を愛していました。彼らは教会の兄弟姉妹の必要よりも、自分の満足の方を優先してしまい、売った土地の代金すべてを教会に寄付することができませんでした。

しかし実は、代金を全額寄付すること自体が大事だったのではないのです。ペテロが4節でそれを言っています。アナニアとサッピラが正直に「売った土地の代金の一部を、教会の中の必要がある人のために使ってください。」と言ってささげていたら、何の問題もなかったのです。

 

3.アナニアとサッピラは他人の評価を求めていた。

 アナニアとサッピラは、人によく思われたかったようです。バルバナの純粋な慈善の行動を見て、人々がバルバナはなんていい人なんだ、と感心していたのを彼らは見ていました。そして、自分たちも教会の人々からいい人と思ってもらえるようにしたかったのです。それは小さい罪に見えるかもしれませんが、高慢は多くの大きな罪の元になるものです。神様より自分の方が大切という考え方は、高慢から始まっていきます。

 

 このようにアナニアとサッピラの罪を考えてみると、彼らの罪は神様が教会の中でなさろうとしていたことすべてと矛盾していたことが分かります。 

 教会は、この地上で神の国を建設し、周りにそれを提示するために存在していますが、アナニアとサッピラはその国に入って、アダムとエバが神様に対して反逆したように、神様を欺いて、反逆の罪を犯してしました。

 また教会は、クリスチャンが神様の愛を経験し、その愛を互いに示すことのできる関係のはずなのに、アナニアとサッピラは自分自身に対する愛だけを示してしまいました。

周りの人をケアしようとするのではなくて、自分のことだけに集中してしまいました。彼らは自分たちの利益のために周りの人を欺いてしまったのです。

 また、教会は本物の慈善の行動を経験できるはずの場なのに、アナニアとサッピラは慈善を自分の利益に還元しようとしてしまいました。彼らはイエス様が非難した偽善者と同じような行動をしてしまったのです。

 つまりアナニアとサッピラの罪は、神の教会の一致と証しを破壊して、この世のものと同じようにおとしめてしまう恐れがありました。もし教会の中で他のメンバーがアナニアとサッピラの行動を真似し始めたら、神様の教会が、神様よりお金を愛して、謙虚さより名声の方が大切になって、正直さより自分の利益のために人を欺くことがまかり通る場になってしまう恐れがありました。そうなったら、教会は神様が愛の方であり良い方であるということを表すことができず、偽善に満ちた、神様にふさわしくない場所になってしまいます。

 しかし神様はご自分の教会を守られました。イエス様は、マタイの福音書16:18でこういうことを約束しておられます。

「わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」

 使徒の働き4章では、イエス様が外側の脅威からご自分の教会を守られたことを見ることができます。

5章では、イエス様が教会の内側の脅威から教会を守られたことを見ることができます。イエス様はいつも、ご自分の約束を守られる方です。

 エルサレムにあった初代教会のように、この宮古めぐみキリスト教会はまだとても若い教会です。サタンは、エルサレムの教会を弱体化させようとしたのと同じように、この教会の成長と証しを妨害したいと思っていると思います。この教会が始まったばかりの今、覚えなけらばならないことは、神様に対して、また互いに対して、純粋で真実の愛を持っていなければならないということです。これからサタンはこの教会を外側からも、内側からも攻撃するかもしれません。しかし私たちの希望は、神様がサタンより強い方で、ご自分の教会を守ってくださる方だ、ということです。

 新しい教会としての歩みを始める時、私たちは純粋な動機から行動しようと努めなければなりません。自分の利益のためではなく、神様に対する愛の心から、また他の人に対する愛の心から行動しましょう。私たち一人ひとり、自己満足、高慢、貪欲から自分の心を守らなければなりません。神様を御霊と真理によって礼拝する礼拝者となりますように、共に進んでいきましょう。

 私の願いは、私たちがともに神様のみことばを学んで、互いに祈って、互いに励ますことによって、神様の愛をもっと深く理解するようになることです。神様の愛を深く理解すればするほど、その同じ愛が私たちの心の中に成長しますように、またその愛から互いに対する本物の愛の行動があふれますように、そして私たちが神の国の喜びを経験できますように、また、その神様の愛の証しが多くの人をキリストに引き寄せますように、共に祈っていきましょう。