この命の言葉をすべて語りなさい

使徒の働き5:12-42

ロビソン・デイヴィッド
2019年08月25日

 今日のテーマは伝道です。実は、今日このテーマについて話すことはあまり気がすすみませんでした。これまでの使徒の働きの説教シリーズの中でこのテーマは何度も出てきていますので、このテーマでばかり語ると、皆さんにプレッシャーを感じさせるかもしれないと思いました。でも本当の理由は、私自身もこのテーマについて考える時、少し後ろめたさを感じるからかもしれません。私はもっと伝道しなければならないと思うからです。

 このテーマに対しては色んな不安がありましたが、それでもこのテーマは今日の箇所の中心的なことです。聖書の中の書物を選んで最初から最後まで学ぶような説教シリーズのとてもいい特徴は、毎週、説教者が自分の好きなテーマを選んで語るのではなく、神様のみことばが毎週のテーマを決める、ということだと思います。ある意味で、神様が今日このテーマを選ばれました。また、今日の説教は私の知恵に基づくことではなくて、神様のみことばに基づくことです。この教会は私やキャットや、近藤先生の教会ではなくて、神様の教会です。私たちは、説教者も説教を聞く人も、皆が神様のみことばの権威の下にいます。ですから今日、喜んで、神様が私たちに何を教えてくださるのか期待しながら、神様の素晴らしいみことばを開いていきましょう。

使徒の働き5:12-41

これは長い箇所なので、三つの節にフォーカスして、三つの大切なポイントを見ていきたいと思います。

1.伝道は神様からの私たちに対する命令です。

2.人間に従うより、神様に従うべきです。

3.神様の計画や行動は阻止することができません。

まず20節を見てみます。

「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい。」

 弟子たちを助け出した途端に、また同じように捕まるようなことをやりなさいというのはおかしな命令に思えるかもしれません。4章で、弟子たちはユダヤ人の指導者たちに捕まえられて、イエス様の名によって語ってはいけないと厳しく命令されていました。しかし弟子たちは釈放されると、イエス様の名によって教え続けたので、また捕まりました。今回は、もしまたユダヤ人の最高指導者たちに従わないなら、死刑になる恐れがありました。

 それなのに、神様は使徒たちに「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばをすべて語りなさい。」と命令されたのです。弟子たちは神様に従って、すぐにまた捕まえられて、最高議会に連れて行かれました。

 神様は御使いたちの手を通して牢の戸を開けましたが、今回も弟子たちを危険から救うことはしませんでした。それは一見、危険な働きを続けることに見えましたが、実は、神様がご自分の弟子たちをいつも守っているので、危険そうに見えて実は危険ではなかったのです。

 20節の神様からの命令を、もう少し詳しく見てみましょう。この命令には二つの部分があります。

1.行って、宮の中に立て。

 まず、神様は弟子たちを送り出しました。この部分の興味深い言葉は、「立つ」という言葉です。それはどういう意味でしょうか。座らないで、立って語るという意味でしょうか。そうではなくて、実はこの「行く」と「立つ」という二つの言葉をつなげると、「しっかり立つ」「堅く立つ」と言う意味になります。つまり神様がここで言われたのは、宮の中に行って、あなたの立場をしっかり主張しなさい、ということでした。神様は弟子たちを敵対的な場所に送り出されていました。その場所でもう二回も捕まったのに、またもう一度同じことをして、同じメッセージを語りなさいと命令されたのです。

 神様のメッセージを届けるためには、反対されても神様のためにしっかり立たなければなりません。実は、数週間前に学んだように、このような反対は実は、主権者であられる神様のご計画の一部なのです。福音に反対する人がいると、神様がご自分の力を表す機会になります。神様はそのような状況を通して栄光を受け、皆に福音の正しさを現わされるのです。

2.弟子たちに対する命令の後半の部分は「人々にこのいのちのことばをすべてを語りなさい」ということです。

 このいのちのことばとは、すなわち福音です。イエス様はヨハネの福音書6:63で、こう言われました。「私があなたがたに話してきたことばは霊であり、またいのちです。」そしてそのすぐ後、イエス様がペテロに離れていきたいかと聞くと、ペテロは6:68でこう答えています。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

 福音の内容はいのちそのものです。福音を通して私たちは、神様とそのひとり子のイエス様を知るようになります。このイエス様が、私たちを救うために天からこの世に下って、私たちが豊かな永遠の命を得るために、私たちの代わりに十字架で死んでくださいました。福音がなければ誰もが失われた者です。福音がなければ、誰もが自分の罪の中に死んだ者として、いのちの君であるイエス様と離れ、永遠の死に向かうのです。

 神様は私たちに、このいのちのことばを語りなさいと命令されました。それだけではなく、このいのちのことばをすべて語りなさいという命令でしたので、福音の受け入れやすい部分だけではなくて、福音のすべてを語らなければならないのです。それは簡単なことではありません。いのちのことば、つまり福音の中には、私たち人間にとって受け入れがたい部分がたくさんあるからです。多くの人は自分が罪びとだと言われれば気分を害するでしょう。救いの導きはイエス様だけということを聞きたくない人も多いと思います。悔い改めなければいけないことや、聖書の神様以外に祈ったり礼拝してはいけないということを聞きたくない人もたくさんいます。

 福音の聞きやすい部分だけを伝えるプレッシャーがあると思います。しかし神様の命令はいのちのことばをすべてを語りなさい、ということです。福音を半分だけ語れば、人々が神様に半分しか近づけず、本当の救いに導かれないことになるからです。 

 いのちのことばは、私たちが周りの人々に届けるために神様から送られたメッセージです。死からの救いのメッセージです。福音は、もっとも栄光に満ちた、もっともうれしいメッセージです。

 しかしこのメッセージの筆者である神様に敵対する者はたくさんいますので、人々がこのメッセージを聞けないようにする者もたくさんいます。弟子たちが神様に従おうとすると、すぐにこの事実にぶちあたりました。彼らはユダヤ人の指導者たちにまた捕まえられたのです。その場面で今日の二番目のポイントとなる言葉が出てきます。

2.29節「人に従うより、神に従うべきです。」

 ユダヤ人の最高議会に、イエス様の名によって教えてはならないと厳しく命じておいたのになぜ教え続けるのか、と聞かれた時に、ペテロが答えたのがこの言葉です。「人に従うより、神に従うべきです。」これは今日のクリスチャンにとっても、大きな基本原則です。ローマ人への手紙13:1には「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と書いてあります。またローマ人への手紙12:18には、「自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ということが書いてあります。私たちはできる限り、政府に従って、まわりの人と平和を保つようにしているべきですが、さらに大事な原則は人間より神様に従うべきだということです。私たちは世の中のすべての権威よりもまず、神様に対して忠誠を尽くすのです。

 私たちは何があっても、神様に従うべきです。政府に目をつけられても、上司に嫌われても、近所に白い目でみられても、親戚にうとんじられても、まず神様に従わなければなりません。私たちには、神様に対する責任と、地域や親戚に対する責任をどのようにバランスを取ってできるのか、分かりにくい状況もたくさん起こります。そのような時には、神様のみことばを学んで、祈って、他のクリスチャンに相談しながら判断していくことができます。

 今日の箇所では、弟子たちはとても明確なことに向かっていました。弟子たちの宗教的指導者たちは福音を語るなと命じましたが、神様は福音を語りなさいと命令しました。それはあいまいなことではありません。さらに使徒の働きを学び続けていくとはっきりと分かることは、神様がクリスチャンの一人一人を、神様のメッセージを届けるために送り出しているということです。これは私たちがクリスチャンであることの根本的な部分です。クリスチャンになるというのは神様の証人になることです。周りのすべての人々に福音の良い知らせを伝えるメッセンジャーになることです。あなたの周りには、あなたにクリスチャンとして公に生活しないでほしい人がいるかもしれません。信仰について語るのはふさわしくないことだと伝えてくる人もいるかもしれません。しかし、私たちはクリスチャンとして、人より、神様に従うべきなのです。

 弟子たちが最高議会の中でこのような立場を変えずに告白しつづけたので、彼らはもう少しで殺されてしまうところでした。しかし最高議会が死刑を宣告する前に、ガマリエルという、とても知恵のある偉い律法の教師が立って、最高議会に意見をしました。

使徒の働き5:38-39

この箇所から今日の三つ目のポイントを学ぶことができます。

3.神様の計画や、行動は阻止することができません。

 ここでガマリエルが言っていることはまったく正しいことでした。もし誰かが神様の命令に従っている神の民に敵対すれば、それは神様ご自身に敵対するのと同じことです。私たちが堅く立って神様に従い、神様の福音を語る時、私たちに敵対する人は実は神様ご自身に敵対しています。ですから、福音は実に、止められないことなのです。これは使徒の働きの大きなテーマの一つです。何度も人々は福音を抑え込もうとしますが、反対勢力がどんなに強くても、神様の民や教会がどんなに弱々しく見えても、神様の福音は広がり続けていきました。地の果てまで希望と永遠のいのちのメッセージを届けていったのです。

 もし福音が人間が考えたことだったら、すぐに失敗していたと思います。もし弟子たちが自分の権威によって、自分の計画を実行していれば、すぐに失敗していたと思います。しかし、使徒の働きを読むと、この福音の前進を止めることは、少しもできなかったことが分かります。それは神様の福音だからです。使徒の働きの真ん中あたりでは、使徒パウロがエルサレムからはるかに遠い国まで福音を伝えに行きました。使徒の働き17章では、パウロがテサロニケにいた時、彼のクリスチャンの友人たちが捕まって、その町の指導者たちの前に引きずり出されました。捕まえた人は怒りとともにこう訴えています。

「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。」

 福音には世界の秩序を覆す力があります。罪びとを義なる人に変え、盲人が見えるようにし、死者を復活させる力があります。パウロが第一コリントで書いたように、福音は救われる人には神の力です。

1コリント1:18-21

 この十字架の言葉、このいのちのことば、この福音は、人間が考えた言葉ではありません。これは人間が考え出した計画ではありません。これは人間の働きではありません。これは神様のみことば、神様のご計画、神様の働きです。私たちの責任は、救われた者として、ただ神様に従うことです。神様の命令は、行って反対する人々の前に堅く立ち、人々にいのちのことばをすべて語りなさい、という命令です。私たちの希望は私たちが自分の力で素晴らしいことを成し遂げることではなくて、神様が私たちを通して、罪びとに赦しと救いと永遠の命をくださり、ご自分の素晴らしい目的を達成することなのです。