教会の中で、教会を通して、教会の外で神様の栄光を表す

使徒の働き6:7-14

ロビソン・デイヴィッド
2019年09月22日

 ここまで使徒の働きから学んできた中で、神様がご自分の教会を建て上げるためにたくさんの大きなみわざを行われたことを見てきました。神様は1章では御霊を送ってくださり、2章では一日に33000人を救われ、3章では足の不自由な人を治し、4章と5章では使徒たちをユダヤ人の指導者たちから二度にわたって救い出されました。神様はご自分の教会を外部の脅威からも、また内部の分裂からも守っておられました。エルサレムの教会の勢いは誰にも止められないように見えました。

 前回の使徒の働きの学びでは、教会の内部の問題について学びました。当時、エルサレムの教会にはヘブル語を使うユダヤ人たちとギリシャ語を使うユダヤ人たちがいました。しかしヘブル語を使うユダヤ人がギリシャ語を使うユダヤ人より良く扱われていて、ギリシャ語を使うユダヤ人のやもめたちが、毎日の配給においてなおざりにされていているという状況がありました。

 これはとてもあやうい状況で、キリストに従う者たちとしての教会のアイデンティティを覆す恐れのある状況でした。分裂のある教会や貧しい人を気にとめない教会には、イエス様に対する愛や、イエス様に従う者たちに対する愛を表すことはできません。そのような愛が本当にあるなら、分裂ではなく一致に至るはずだからです。

 しかし神様の恵みによって、また御霊の知恵を通して、エルサレムの教会は神様のみこころにかなった方法で問題に対処することができました。すなわち、やもめの人たちに日ごとの食べ物を配給する奉仕を管理するために7人を選んで、使徒たちがみことばを教える奉仕に集中できるようにしたのです。その結果起こったことが6章7節に書いてあります。

使徒の働き6:7

 使徒の働きの最初からこの6章7節までは、神様の恵みによって、教会は勝利ばかり経験しました。しかし6章は使徒の働きのターニングポイントです。この6章で、選ばれた7人のうちの一人だったステパノが紹介されています。5節によると、ステパノは信仰と聖霊に満ちた人で、また8節によると、恵みと力にも満ちていたとあります。ステパノはエルサレムの教会の皆に愛され尊敬されていたリーダーの一人でした。しかしそんなステパノは、実は教会の最初の殉教者になることになります。

 教会の初めての殉教者の記録はこの6章から始まって、ここから教会は色々な迫害を経験し始めます。多くのクリスチャンが逮捕されて、苦しみを経験しました。しかし、使徒の働きの最初の6章で神様が勝利を通して働かれたのと同じように、迫害を通しても神様は働かれました。この迫害の影響で、クリスチャンがエルサレムから散らされて、色々な所に福音を持たらすことになったのです。つまり、神様の敵が教会を迫害したことによって、むしろ神様の目的が達成されたと言えるのです。

 この迫害を通して福音が広がるためのキーパーソンとなったのがステパノでした。そこで今日は、ステパノという人がどういう人物だったのか、6章から三つのことを学びたいと思います。

1.ステパノが深く望んでいたことは、教会の中で、教会を通して、また教会の外で、イエス様の栄光が現わされることだった。

2.ステパノは聖書を大事にしていた。

3.ステパノは自分の同国人がイエス様に導かれるように深く望んでいた。

 まず、1.ステパノが深く望んでいたことは、教会の中で、教会を通して、また教会の外で、イエス様の栄光が現わされることだった、ということについて考えたいと思います。

 前回の箇所で、エルサレム教会のやもめたちの毎日の配給を管理する7人のうちの一人としてステパノが登場しました。ペテロの言葉を借りると、ステパノは「食卓のことに仕える」ために選ばれました。それは、みことばを教える特別な賜物を持っている使徒たちが食卓のことに仕えずに、みことばの奉仕に集中できるようにするためでした。ですから当然ステパノは、ペテロ達使徒がフルタイムでみことばを教えていたのと同じように、フルタイムで教会内の仕事に専念するだろうと私たちは思うかもしれません。しかし実は、ステパノはそうしませんでした。

 ステパノは6章8節で、教会の中から出て行って、人々の間で大いなる不思議としるしを行いました。また9節では、リベルテンの会堂に属するユダヤ人たちと議論しています。7章では彼を捕まえたユダヤ人の指導者たちの前で、見事な説教をしました。

 ステパノの教会内の仕事は、使徒たちがみことばの奉仕に集中するために必要なとても大切な奉仕でした。もうすでに教会の中で大事な役目を果たしているのだから、わざわざ教会から出て行って福音を伝える働きまで担う必要はあったのでしょうか?ステパノはなぜ、教会の中の責任がすでにあるのに、さらに教会の外でも福音を伝えたのでしょうか。その答えは、すべてのクリスチャンにイエス様の証人となる召しがあるからです。クリスチャンにはそれぞれに賜物が与えられ、教会の中でそれぞれの役割を与えられていました。教会が適切に機能するためには、皆が自分の賜物を調和の中で用いて仕えなければなりません。しかし、それぞれの大切な召しに加えて、すべてのクリスチャンがイエス様の証人となる召しも与えられているのです。

 牧師になってフルタイムで聖書を教えて、教会を牧会するクリスチャンがいます。また別の方法で教会に仕えて、牧師を支援するクリスチャンもいます。しかし教会に仕えて牧師を支援するクリスチャンにも、神様に与えられた人間関係の中で、イエス様のために証しをする召しは与えられているのです。

 ステパノの話しを読んではっきりと分かることは、イエス様の栄光が教会の中で、教会を通して、また教会の外で現わされることを、ステパノが深く望んでいたということでした。ステパノは教会の貧しいやもめたちに仕えることを通して、教会の中で忠実さと思いやりの模範を示しました。しかしステパノはイエス様に対する愛によって、教会の外の人にも大胆に福音を伝えるように導かれていました。同じように私たちも、イエス様の栄光が教会の中で、教会を通して、また教会の外でもあらわされることを心から求める、ステパノのような心を持つことができたら素晴らしいと思います。私たち一人一人が、神様が与えてくださるすべての機会を通して、神様のために証しすることができるのです。

 

2.ステパノは聖書を大事にしていた。

 ステパノについて二つ目に分かることは、ステパノが聖書の深い知識を持っていたということです。それは少し意外なことかもしれません。なぜならステパノは、聖書を教える奉仕ではなくて、配給の管理の奉仕をするように選ばれた人だったからです。しかし彼は、聖書の深い知識を持って、教会の外の人とイエス様のことについてよく議論しました。6章10節に、リバルテンの会堂のユダヤ人たちがステパノの語る知識と御霊に対抗することができなかったとあります。それはどのような知識だったのでしょうか。それは聖書に対する深い理解から得られる知識でした。ステパノは捕まえられた後、ユダヤ人の大祭司、また聖書に教養のある指導者たちの前で説教をしました。その説教の中でステパノは、旧約聖書からたくさんの部分を引用して、ユダヤ人の中でもっとも教養のある指導者たちが聖書を根本的に誤解していたことを示しました。また彼らが神様が約束された救い主イエス様を認識することができず、むしろ殺してしまったのだ、と示したのです。

 このステパノの姿から私たちが学び取れることは、私たちすべてのクリスチャンが聖書の理解において常に成長するよう努力する必要があるいうことです。私たちは、福音を伝えるための聖書の知識を十分に持っていないと感じることがあるかもしれません。それなら、聖書の知識において成長していきましょう。聖書を通して私たちは、神様の働きにふさわしく整えられることができます。

テモテへの手紙Ⅱ3:16-17

 みことばは私たちに、様々な恵みを与えてくれます。みことばは悲しむ時の慰めです。また混乱の中に与えられる知恵です。聖書を通して、神様は私たちにご自分のみこころを現わしてくださっています。また同時にみことばは人間の心を刺し通す剣でもあり、救いに導く神様の力です。聖書は教会全体にとっての最も大切な贈り物です。私たちが成熟した大人となって、神様の働きにふさわしく整えられ、私たちのうちにある希望についていつでも弁明できるように与えられた、神のみことばなのです。

 

3.ステパノは自分の同国人がイエス様に導かれるように深く望んでいた。

 ステパノが議論している相手について興味深い点があります。9節を見てください。

 このクレネ人、アレキサンドリア人、キリキアやアジアからきた人というのは、ローマ帝国から来たユダヤ人たちのことで、つまりギリシャ語を使うユダヤ人たちを指しています。6章の最初の部分で、ヘブル語を使うユダヤ人とギリシャ語を使うユダヤ人の間の問題を解決するために、7人の執事が選ばれたことが書いてありました。その7人の名前を見ると、全員ギリシャ語を使うユダヤ人だったかもしれないことが分かります。その理由は、その7人の名前がすべてギリシャ語の名前だからです。「ステパノ」というのもギリシャ語の名前で、ステパノは多分ギリシャ語を使うユダヤ人としてギリシャ文化の中で育った人物だったはずです。そして、6:9-10でステパノは、他のギリシャ語を使うユダヤ人に対してイエス様について語って、福音を伝えています。

 使徒たちは皆、ヘブル語を使うユダヤ人でした。文化と言語の違いがあったため、ギリシャ語を使うユダヤ人に伝道するのには難しさがあったかもしれません。その中でステパノには、自分と同じギリシャ語を使うユダヤ人に伝道することへの強い思いが与えられていました。神様がギリシャ語を使うユダヤ人に語るために、ステパノに特別な機会を与えてくださったのだと思います。

 私は、神様が私たちクリスチャン一人一人に、このような機会を与えてくださっていると信じています。神様は、私たち一人一人の人生の中に、その人でなければ届くことのできない特別な相手を置いてくださっています。たとえば、みなさんの友人の中に、クリスチャンの知り合いはあなたしかいない、という人がいるかもしれません。またみなさんの周りに、霊的なことについて話せる相手があなたぐらいしかいないという友人もいるかもしれません。私には耳を貸してくれないけれども、あなたが福音を伝えるなら聞いてくれる人が、きっといると思います。私たちクリスチャンにとって、そのような相手が神様の愛と赦しの必要に気づいて救いに導かれることは、何とうれしいことでしょうか!

 みなさんの相手はどの人でしょうか。今、心に浮かんでいる相手がいるでしょうか。ぜひ、その人たちのために祈ってください。その人たちが救いに導かれるように、というだけではなくて、神様が自分に福音を伝える力と勇気、また機会を与えてくださるようにも祈ってください。もし今はまだ伝えることができないと思ったなら、まずは神様のみことばをもっと深く理解できるように祈って努力することから、一緒に始めて行きましょう。この教会が、クリスチャンの一人一人が聖書をより深く理解し、神様の働きのために整えられる教会となることが、私の心からの願いです。

 イエス様に対する深い愛を映し出したステパノの心や人生は、私たちの模範です。私たちが一人一人、イエス様の栄光が教会の中で、教会を通して、また教会の外にも現わされることを深く願うようになりますように、また私たちが神様のみことばを大事にして深く理解することができますように、そして神様が私たちの人生に置いてくださった人を救いに導びくことを、心から求めることができますように、祈っていきましょう。