今日は、現代の教会の「執事」にあたるものの始まりだと考えられている箇所について学びます。今日の箇所の中には、使徒たちが福音を宣べ伝えることに集中していたために、教会の中の他の奉仕が適切に管理されていることを確認できていなかった状況が出てきます。教会の人数が少ない時には、教会の中の組織や構造はそんなに重要ではありませんでしたが、人数が増えていくにつれて、教会の中に問題が出始めていました。イエス様からいただいた働きを効果的に続けるために、組織や構造が必要な段階にきていたようです。
これはあまりおもしろくないトピックに思えるかもしれませんが、実は教会の組織や構造というのは、福音が世界中に広がっていくために、また教会の中のすべての人のニーズが満たされるために、必要なことなのです。言い換えれば、私たちが教会の組織や構造を整える動機は、イエス様に対する愛や福音に対する愛、また教会の兄弟姉妹たちに対する愛から出ているべきです。
イエス様が地上での働きをされた時、二つのことを大切にしていたと思います。マタイによる福音書4:23によると、イエス様の奉仕はこのように始まりました:
「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒された。」
イエス様が働きの中心にした二つのことは、福音を宣べ伝えることと、人を癒すことでした。福音を宣べ伝えることによって、イエス様は人間の最も深いニーズに応えました。それは御子であるイエス様への信仰を通して、人々を神様と和解させることです。もしイエス様が、人間にどうすれば罪の許しを受けられるかを伝えず、福音を宣べ伝えないなら、他のすべての働きには意味がなくなってしまいます。またイエス様はたくさんの病気を癒すことによって、神様の深い愛を表しました。イエス様は口で福音を語っただけではなく、人を癒して愛することを通しても、救いの本質を表されました。福音の結果は人間が変えられることです。福音の結果は人間が罪から解放されて、神様に従うように導かれ、神様と神様の民に対する愛に満たされることです。神様によって救われた人々は、以前と同じように生活することはできません。まだ罪の中に迷っている人々と同じように生活することはできないのです。福音の結果は神様とともに歩む永遠の命です。イエス様は、悲しみも欠けているものも一切ない永遠の国がどのようなものかを人々が垣間見ることができるように、病気を癒したり悪霊を追い出したりされました。
しかしイエス様はもう一つ大切なことをされました。それは12人を選んで一緒に生活し、訓練してご自分の弟子とさせて、ご自分と同じ働きを行うために送り出された、ということです。
ルカの福音9:1-2
イエス様は世界中の人を救うためにこの世に来られましたが、イエス様のご計画は、ご自分ですべての人に福音を伝えることではありませんでした。ご自分の働きを達成するために、教会を建て上げられたのです。イエス様はマタイの福音書16:18で、ペテロのように、イエス様が生ける神の子キリストだと告白する人の上にご自分の教会を建てると約束されました。使徒パウロもエペソ人への手紙2:20で、教会は使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石だと書いています。イエス様は、罪に迷った人を神様との個人的な関係に導くだけではなく、ご自分の教会の一部とするために、ご自分の教会の一部である使徒たちを送り出されたのです。
教会がこのイエス様の働きを受け継いで、福音を宣べ伝えたり、ニーズのある人をケアしたりして、神の国を現わす働きを続けるためには、教会の組織と構造が必要です。聖書はしばしば、教会を建物や人間の体や国家といった、組織のある構造に比べています。神様がそれぞれの人にそれぞれの賜物を与えてくださいましたので、教会の中でもそれぞれ異なる役割があります。使徒の働き6章では、エルサレムにある教会が、イエス様の働きを適切に行う組織や構造をもっていなかったことが書かれています。教会が組織やリーダー達をもつことは、福音を宣べ伝え人々のニーズに応えるために必要なことなのです。
それを覚えながら、今日の箇所を学んでいきたいと思います。
まず、6:1で、教会の中に問題が出てきたことが記録されています。エルサレム教会は、貧しく、頼れる親戚がいないやもめ達に、日ごとの食べ物を配給していました。しかし問題は、一部のやもめが他のやもめよりも良く扱われていたことでした。この時代、教会の中の人はすべてユダヤ人でしたが、イスラエルで生まれ育ちヘブル語を使うユダヤ人と、ローマ帝国の中の別のところで生まれ育ちギリシャ語を使うユダヤ人がいました。皆ユダヤ人ですが、言語の違いや文化の違いがありました。
私たちを支援してくれているアメリカの教会の一つは日本人教会なんですが、その教会では毎週日曜日に二つの礼拝が行われています。まず、日本で生まれて日本語を話す人たちが集まって、日本語で礼拝します。その礼拝が終わってから、アメリカで生まれ育って英語を話す人たちが集まって、英語で礼拝します。日本語礼拝と英語礼拝の間には、言語だけではなく、雰囲気や礼拝のスタイルにも違いがあります。日本語礼拝は日本にある教会とよく似た雰囲気ですが、英語礼拝はアメリカの教会と同じ感じがします。どちらの礼拝も、来ている人のほとんどは日本人か日系人ですし、同じ家族で別々の礼拝に参加するケースもあります。たとえば、お母さんは日本語礼拝に出て、子どもたちは英語礼拝に行くというケースがけっこうあります。しかしこのように共通項の多いグループの間でも、コミュニケーションには難しさがあって、たまに誤解が起こります。それは今日の箇所の状況と似ていると思います。
ヘブル語を使うユダヤ人が、ギリシャ語を使うユダヤ人のやもめ達を毎日の配給においてなおざりにしていたと書いてあります。それを見たギリシャ語を使うユダヤ人が、自分達のうちのやもめが公平に扱われるように、使徒たちに訴えたというのです。訴え出た人たちは、使徒たちが直接この問題を解決してくれると期待していたかもしれません。しかし、使徒たちが自らその問題を解決しようとすると、別の問題が出てきます。それが6:2です。
使徒たちは、神様のみことばを宣べ伝えるために御霊から特別な賜物をいただいて、イエス様ご自身からトレーニングも受けていました。そしてイエス様から、あらゆる人々を弟子とし、あらゆる人々をイエス様が命じられたすべてのことを守るように教える、という責任を委ねられていました。同時にイエス様は、神の羊の群れを牧して、教会のメンバーをケアするという責任も使徒たちに委ねられていました。訴えを聞いた使徒たちが気づいたことは、教会のやもめたちに日ごとの食べ物を配給する奉仕を自分たちでするようになれば、神の言葉を宣べ伝える時間がなくなるということでした。二つの責任を同時に果たすことはできない、と気づいたのです。自分達だけでこの大切な働きを両方担うには時間が足りないからです。
この二つの働きはどちらもとても大切な、イエス様から委ねられた責任でした。また両方とも、イエス様の栄光を現わしたい、またあらゆる人々に救われてほしい、という思いから行ってきたことでした。もし教会の中に分裂があって、ギリシャ語を使うクリスチャンがしいたげられているとしたら、教会がイエス様の権威の下に新しい命をいただいたというアイデンティティを覆すことになってしまいます。しかし、その問題を解決するために自ら介入すれば、神のみことばを宣べ伝えることがおろそかになってしまう。そうなれば、罪びとが悔い改めて救いに導かれ、信仰において成長することも妨げられてしまう。一体どうすればいいのでしょうか。
使徒たちは御霊の知恵によって、イエス様から受けた責任をすべて自分たちだけで果たすことは無理だ、ということが分かりました。そうではなくて、御霊と知恵に満ちた人に一部の働きを任せて、教会の中のすべての人がイエス様からいただいた働きに参加することが必要なのだと分かったのです。
使徒の働き6:3-4
この七人が、教会がイエス様に与えられた働きにおいて重要な役割を果たしました。多くのクリスチャンは、この箇所が教会の執事が初めて選ばれた時の記録だと考えています。この箇所は現代の教会にとっても、どうやって教会を管理するのかを示す良い模範だと思います。神様は教会のメンバーそれぞれに賜物や召しをくださいました。皆が牧師になるわけではないですし、牧師の召しは教会の中のすべての奉仕を管理することでもありません。教会が罪に迷う人を救いに導いて、信仰の成長を助け、互いにケアできるように、教会のすべてのメンバーが神様に与えられた賜物を用いて召しに従うことが必要になります。
この箇所から分かるもう一つのことは、教会の計画を作る責任は教会のリーダー達だけに委ねられたことではないということです。信徒たちも教会の決定に関わり、リーダー達を選ぶ責任を委ねられています。
使徒の働き6:6-5から、教会の信徒たちの役割を読み取ることができます。
まず教会全員が集められて、使徒たちが問題を説明し解決策を提案しました。教会の全員はこの提案について考え、喜んで受け入れました。それから、使徒たちの提案した基準に照らして七人の執事を選んで使徒たちに推薦した、という流れが記録されています。この例がその後の新約聖書の教会にとって、どのように教会を管理するのかについての模範となっていきました。それだけでなく、その後のすべての時代の教会にとっても、とてもいい模範だと思います。
私たち現代の教会は、どのようにこの模範に従うことができるでしょうか。まず、使徒たちと牧師たちは似ているところがあると思います。もちろん、使徒たちは牧師たちより大きな権威を与えられて、イエス様から特別な責任と賜物をいただきましたが、新約聖書を読み進めると、使徒パウロはすべての教会の中で長老が任命されるべきだと教えています。ペテロは第一ペテロ5:2で、長老たちの責任は教会を牧して世話をすることだと書いています。またへブル人への手紙13:17にはこういうことが書いてあります。
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」
現在、私たちの周りにある教会に多く見られる考え方では、牧師と長老は同じことなので、長老に与えられた責任は牧師の責任と同じと考えます。
執事たちの責任は、使徒たちを支えて、使徒たちが神の言葉を宣べ伝えて祈ることに集中できるようにすることでした。同じように、現代の執事たちには牧師たちを支える役割があります。また現代の教会のメンバーは、指導者たちの提案を聞いて、考えて、受け入れること、また、指導者たちを選ぶ責任も神様から与えられると信じられています。
この開拓の母体であるバプテストの教会も、この模範を取り入れて教会を組織しています。先ほど言ったように、牧師は聖書の中の「長老」の役割を委ねられています。日本のバプテスト教会では牧師が一人だけいることが多いですが、新約聖書では、小さな教会でも複数の長老がいたようです。現在でも、複数の長老がいるバプテスト教会もあります。その場合は、一人のフルタイムの牧師が、信徒の中から選んだ長老とともに、教会を導いて教える責任を分かち合っています。
また、信徒たちの中から選ばれた執事が牧師を支え、牧師のもとで教会に仕えるスタイルもよく見られます。執事たちは、教会のすべての人が適切なケアを受けて成長し、教会がイエス様が与えた働きをできるように仕えます。
またバプテストのように会衆制の教会では、教会の中の一番高い権威は教会の会衆に委ねられています。牧師たちには教会を導く責任がありますが、教会の会衆の承認が必要です。教会の皆が御霊が与えた知恵によって、祈りながら神様のみこころを探り、リーダー達から提案された教会の方向性を考えて、承認するかどうかを決める責任が与えられています。また今日の箇所にあるように、教会の会衆には指導者を選んで任命する責任も与えられていると信じられています。それはとても重要な責任なので、教会がスムーズに進んでいけるよう、教会のすべての信徒たちが信仰において成長することが大切になってきます。
個人的にも、このような会衆と長老、執事それぞれに重要な役割の与えられる教会の構造は、聖書の原則を実現する一つの良い形だと考えています。
すべてのクリスチャンが御霊をいただいており、第一ペテロ2:5によると、教会のメンバー全員が聖なる祭司とされています。ですから、教会が与えられた働きを果たす責任は教会全員のものです。そのためには、教会全員が神様の愛と知恵の中に成長して、すべてのことをイエス様の視点から見るようになることが必要です。
一人の牧師はおろか複数の牧師によるチームにですら、自分達だけで教会の働きを果たしていくことはできません。牧師の召しというのは実は非常に限定的なもので、その召しの中でも神の言葉を宣べ伝えることを中心に置くことが必要です。教会の信徒たちの召しは、牧師がみことばを宣べ伝えることに専念できるように牧師をサポートすることです。
この教会開拓の中でどのような教会の組織を作っていくかについて、今も話し合いが続けられています。将来的に一つの可能性は、盛岡聖書バプテスト教会が、宣教師がこの開拓における牧師の責任を果たすように按手を授けることです。また、将来この教会の信徒たちの中から、教会を牧する働きを助けるために執事を任命することになるかもしれません。
現在の私たちのように教会がとても小さい時でも、一つはっきりと分かることは、イエス様が私たち教会の全員に、宮古の人々を弟子として、イエス様の教会を建て上げる責任を与えられた、ということです。使徒たちと同じように私たちにも、イエス様の福音を宣べ伝えて、お互いをケアする責任が与えられました。神様がイエス様をこの世に送り出して、人々を救いに導き、正しい愛と親切がどのようなものかを示されたように、イエス様は私たちをこの町に送り出して、福音を宣べ伝え、人々を愛そうとしておられます。この召しは一人で担うことはできません。私たちは、御霊の力によってのみ、また神様のみことばに従うことによってのみ、イエス様が与えた大宣教命令を共に果たしていくことができるのです。