聖書に出てくる人物の中で一番好きな人は誰ですかと聞かれたら、私の返事はもちろんイエス様です。二番目に好きな人物は、と聞かれたら、今日の箇所の主役である使徒パウロと答えます。使徒パウロのもう一つの名前はサウロでした。サウロは彼のヘブル語の名前で、パウロはラテン語の呼び方です。ユダヤ人にはサウロと呼ばれ、異邦人にはパウロと呼ばれていました。
使徒パウロは、歴史上もっとも素晴らしい宣教師かもしれません。エルサレムからローマ帝国の果(は)てまで、福音を伝えに行った人です。主の知恵に満ちて、誰に対しても福音を弁護し議論できる人でした。イエス様の御名のために、苦しみでも喜んで受け、霊的に失われている人たちが、イエス様の救いについて聞いて信じるように、何でも喜んでする人でした。色々な意味で、使徒パウロは誰よりも素晴らしいクリスチャンに見えるかもしれません。しかしパウロは、自分自身についてそうは思っていなかったことが聖書から分かります。
1コリント15:9-10
パウロは自分が何者かを正しく理解していました。つまり、自分がキリストから測りしれない恵みをいただいた罪びとで、その恵みにまったく値しない者だという理解です。パウロは神様のために多くのことを成(な)し遂(と)げたように見えますが、すべては神様の恵みによることでした。
今日は、使徒パウロが改心した時の話しを見たいと思います。今日の箇所は、パウロがまだ使徒になる前で、ユダヤ人との関わりの中でまだサウロと呼ばれていました。
この話しから、3つの点について考えたいと思います。
第一点は、サウロが罪びとのかしらだった、ということです。
それは厳しい言い方ですが、実はサウロが自分のことについて使った言葉でした。サウロは1テモテ1:15で、「私はその罪人のかしらです。」と書いています。今日の箇所で、どうしてサウロが罪びとのかしらだったのかを見ることができます。
使徒の働き9:1-2
サウロという人物は、7章に初めて登場します。そこでサウロは、ステパノの石打ちの場にいて、ステパノを殺すことに賛成していました。ステパノが殺された後、サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、男も女も引きずり出して、牢に入れた、とあります。サウロの迫害によって、エルサレムにいたイエス様の礼拝者はほとんどいなくなってしまいました。多くのクリスチャンが、エルサレムから他の町に逃げていました。サウロはその逃げたクリスチャンも捕まえようとして、ダマスコにいるクリスチャンを縛り上げてエルサレムに引いて来るために、ユダヤ人の大祭司からの許可を求めていました。
サウロはキリストの教会に最も恐れられていた敵でした。現在も、世界にはサウロのような人がいます。たとえば、先週,中国で、イ・ワン先生というクリスチャンの牧師が、9年の刑を宣告されました。彼の罪は、中国政府に無許可の教会を牧会していたことでした。先月、礼拝の最中に中国の当局が教会に入って、ワン先生と100人の礼拝者を逮捕・投獄しました。
世界には今現在も、誰かが教会のドアを壊して入ってきて自分を捕(つか)まえるのではないか、という恐れの中で、集まって礼拝しているクリスチャン達がいます。サウロはこのようなことをしていた人でした。
サウロの目標は、クリスチャンのリーダーが処刑されること、教会が解散するのを見ることでした。男性も女性も、リーダーも信徒も、すべてのクリスチャンを投獄するために働きました。サウロはエルサレムでの礼拝者を迫害して、さらにダマスコまで、キリストの愛する者たちを迫害しに出かけて行(い)こうとしていました。
後に、サウロは自分がしたことを振り返って、自分が神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者で、使徒の中では最も小さい者であり、罪びとのかしらだ、と書きました。サウロが正しく理解していたことは、自分が神の民を攻撃し、御子イエス様を拒んで、神様を冒涜した、ということでした。
しかし、サウロにとても驚くべきことが起きました。サウロは、イエス様を憎んでいた人から、イエス様のために死ねるほどイエス様を愛する者に変わったのです。教会に最も恐れられた敵から、教会に愛され、尊敬されるリーダーの一人に変わりました。そのあと、罪びとの頭だったサウロが、新約聖書の半分ぐらいの書の著者になりました。どうしてそうなったのでしょうか。どうして教会の最大の敵だった人が、教会の最大の支持者になることができたのでしょうか。
それが今日の二番目の点です。
二番目の点は、サウロが神様に選ばれた者だった、ということです。
使徒の働き9:3-6、10-15
サウロが神様の敵から神様の使節に生まれ変わったのは、神様がサウロを選んで変えてくださったからでした。神様はとても劇的な方法でサウロを変えました。十字架で死なれてから復活し、天に昇られたイエス様ご自身をサウロに送り出したのです。イエス様はご自分の栄光を表してサウロを落馬させ、私に従いなさい、と命令しました。サウロはその瞬間、間違いなくイエス様が生きておられ、イエス様は主であられるので、イエス様が命じたことには何でも従わなければならないと確信しました。
神様がサウロを救いに導かれた方法はとても劇的なものでしたが、罪びとがイエス様への信仰に導かれる時にはいつも、神様が同じようなことをしてくださっていると思います。神様は、色々な方法やタイミングを用いて、私たちが否定できない方法でご自分を表してくださいます。神様は私たちそれぞれに、疑念を克服して信じる信仰をくださいました。神様がそれをしてくださる理由は、私たちが良い人間だったからではなく、ご自身が恵みと愛に満ちたお方だからです。神様が私たちを救ってくださった理由は、ただご自分が、私たち一人一人を選ばれたからなのです。
神様がアナニアに、サウロのところに行きなさいと命令した時、アナニアはとても驚いて抵抗しました。アナニアにしてみると、その男は私たちの敵で、神様の民を大いに迫害した者なのに、なぜ助けなければいけないのか、という気持ちでした。それに対する神様の答えは、「その人は私の選びの器だから行きなさい」というものでした。
後に、サウロもこの事実を知りました。サウロが書いたガラテヤ人への手紙の中で、「母の胎にある時から私を選び出し、恵みをもって召(め)してくださった神が、み子を私のうちに啓示することを良しとされた」と書いています。
しかし、神様の選びは、サウロに限ったことではありません。イエス様を信じるすべての人は、神様がその人を選んで、ご自分のことをその人に表わしてくださったから、信じるようになったのです。
エペソ人への手紙1:3-6
誰でもイエス様を信じてクリスチャンになったなら、それは神様が世界を創造する前からあなたを選んで、ある時ご自分をあなたに表され、傷のない者として神様の子どもとしてくださったからです。そしてそのすべては、私たちが罪びとであった時にしてくださったことなのです。神様は、私たちの犯すすべての罪、すべての不従順を知った上で、私たち一人一人を選んでくださったのです。
それは素晴しいことなのですが、クリスチャンではない人が聞いたら、なんと傲慢な考えだと思うかもしれません。自分のことを、神に選ばれた者だと言うのは、普通の感覚では誇大妄想のようなおかしなことです。しかし、聖書が教えていることは、私たちは誰も良い人間ではなくて、サウロのように、罪びとの頭のような者だ、ということなのです。素晴らしい人だったので神様に選ばれたクリスチャンは一人もいません。選ばれるに値する人は一人もいないのです。選ばれた人はみな、神様の恵みのみによって選ばれました。
それが今日の三番目の点です。それは恵みの意味です。
1テモテ1:12-17
これも使徒パウロ、つまりサウロが書いた言葉です。この箇所でサウロは、あわれみと恵みについて語っています。この二つは似ていますが、違いがあります。あわれみと言うのは、処罰を受けるはずの人が処罰を免れるということです。サウロの場合は、イエス様の教会を迫害したことで、つまりはイエス様ご自身を迫害してしまいました。この恐ろしい罪のために、彼は当然イエス様から罰を受けるべき人でした。しかし、イエス様がサウロの罪を帳消(ちょうけ)しにして、報復することをせず、赦しを与えて、あわれみを向けられました。
恵みはそれと少し違います。恵みと言うのは、何を受けるにも値しない人に良いものを与えるということです。サウロの場合は、イエス様がサウロの罪を帳消しにして罰を免除しただけではなく、サウロをご自分の信頼する者として名誉ある地位に昇格させ、永遠の命まで与えられたのです。
サウロがもし、あわれみだけを与えられていたとしたら、赦しを受けてからは、イエス様と何も関係ないということになります。そうであれば、サウロは自分が神様を冒涜した恐ろしい罪に気づいて、残りの人生を、恥と負い目を背負って生きたと思います。
しかしイエス様は、サウロにあわれみを与えただけではなくて、計(はか)り知(し)れない恵みを与えられました。イエス様はサウロに赦しを与えただけではなくて、サウロ自身を受け入れて、ご自分の家族とし、奉仕をするために受け入れてくださったのです。イエス様は、「あなたは私に対する罪のために罰を受けなくてよい」と言ってくださっただけではなくて、「私はあなたに私と親しくなってほしい。私に従い、私の証人となって、世界の人々に私について伝えて欲しい。私は永遠(えいえん)にあなたと一緒に過ごしたいので、永遠の命を与える。」、ということを言ってくださったのです。それがあわれみと恵みです。すべての人は、イエス様からこの二つのことを受け取ることを必要としています。
サウロの話しを読むと、美しい真実が見えてきます。それは、イエス様のあわれみと恵みは、罪びとの頭にまで届くということです。
1テモテ1:15-16
もし神様がサウロのような人すら救いに導かれるなら、神様の手の届(とど)かないところにいる人は誰もいません。神様は、神様が救うことができないぐらい罪深い人などいないのだ、ということを世界中の人々に示すために、サウロを選んで救われました。私たちはみな、自分のやった悪いことが人に知られることを恐れています。それによって人に裁かれたり、報復されたり、中傷されることを恐れています。私たちは恥を恐れています。
しかしイエス様は私たちのところに来られて、私たちの罪を知っているのに、私たちのために十字架で死んで、あわれみと恵みを与えてくださいました。イエス様は、サウロのように何の価値もない罪人の私たちを、赦され、受け入れられ、愛されるために呼んでおられます。
そのような素晴らしいあわれみと恵みを与えられた私たちは、どう応えるべきなのでしょうか。
1テモテ1:17
私たちにできることは、サウロのように、このように不思議な祝福を与えてくださったイエス様を賛美して、従うことだけだと思います。神様がくださった恵みが、イエス様に対する私たちの愛をあふれさせ、その愛のゆえに、喜んで私たちの人生のすべてをイエス様に捧げることだけです。何を受けるにも値しない私たちが、イエス様からこんなに豊かな贈り物をいただいたのですから、イエス様を心から喜んで従うことしかできません。
この恵みに対するもう一つの応答があります。それは自分の罪を隠(かく)さないで、神様に対してだけではなく、人々の前でも率直に話すことです。それはとても難しいことですが、サウロの模範を考えてください。サウロは、自分がイエス様の教会を迫害したひどい罪について良く話していました。サウロは、自分が罪びとの頭で、価値のない者で、クリスチャンの中で最も小さい者だ、というようなことを良く語っていました。しかしサウロはそのことを語る時、恥ではなく、喜びを感じていたと思います。それが恵みのもたらす結果なのです。サウロは自分の罪の告白を通して、イエス様の素晴らしいあわれみと恵みを人々の前に証ししました。サウロは喜んで、イエス様のあわれみと恵みは、どんな恐ろしい罪でも覆うことができると証ししました。サウロは自分の罪と恥から完全に開放されていたからです。