神様が律法を与えた理由

使徒の働き7:18-43

ロビソン・デイヴィッド
2019年10月27日

 今日はステパノの説教の二番目の部分を学びたいと思います。来週はこの長い説教の最後の部分を見ます。今日は使徒の働き7:18-43

 前回の説教の中で、ステパノの時代のユダヤ人たちがアイデンティティの土台としていた三つのことについてお話ししました。それは、約束の地、モーセの律法、そしてエルサレムにあった神殿、の三つです。その三つは神様がくださった賜物でしたが、当時のユダヤ人にとってそれが神様ご自身よりも大事なことになってしまって、彼らはその3つの賜物を偶像のように扱っていた、という話しでした。前回の説教では、ステパノがユダヤ人の約束の地に対する執着の間違いを指摘したところを学びました。今日は、ステパノがユダヤ人がモーセの律法をねじ曲げていることを批判した箇所から学んでいきたいと思います。

今日の箇所について三つの点を考えたいと思います。

1.ユダヤ人は、モーセの律法に従うことによって神様に受け入れられると信じていた。

2.モーセの律法の本当の目的は、律法に完全に従うことのできる人は誰もおらず、救い主が必要であるということを示すことだった。

3.クリスチャンは信仰によって神様に受け入れられる。

 ではまず一つ目の点を考えたいと思います。私たちはステパノがモーセの律法をどのように解釈していたかを学ぶ前に、ユダヤ人の律法に対する考え方を理解しなければなりません。当時のユダヤ人にとって、モーセを通して受けた神様の律法は非常に大切なものでした。彼らは、神様に選ばれたもっとも偉大な預言者として、モーセをとても尊敬していました。神様がモーセに自分の律法を委ねて、モーセがその律法をユダヤ人に伝えたからです。またモーセは、神様とユダヤ人の関係の歴史、神様とユダヤ人の間の契約、そして神様の律法を、5つの書物に記録しました。この5つの書物は、聖書の最初の5書のことです。モーセが記録したこの5つの書物は、しばしばただ「律法」と呼ばれたり、「モーセの律法」と呼ばれたりしていました。つまり、ステパノが「律法に逆らうことを語った」と告発された時、その律法とは聖書の最初の5つの書物のことを指していました。

 当時のユダヤ人たちは律法を熱心に学んで、律法の中のすべてのことに従うために、できる限り努力していました。彼らは、もし神様の律法に完全に従うことができれば、神様は自分達を受けいれてくださり、祝福をいただくことができるだろう、と信じていました。

申命記28:1-2を開いてください。

 これが律法の最後の部分で出てきた約束です。この箇所に続く数十節の中には、たくさんの祝福が記録されています。確かに、律法に従えば神様の祝福をいただくというのは事実でしたが、そこには一つの大きな問題がありました。それは、人間は誰一人として律法に従うことができないという事実でした。新約聖書を読むと、この悲しい事実がよく分かります。イスラエルの民は律法をいただきましたが、神様に反抗して罰を受け、悔い改めて、神様から救いを受けて、でもまた神様に反抗する、ということを何回も繰り返しました。どんなに頑張っても、神様に忠実であり続けることはできなかったのです。

 しかしステパノの時代のユダヤ人たちは、自分たちは律法を守っていると信じていました。彼らはモーセの律法を非常に重んじて、一生懸命従おうとしていました。彼らは、自分たちはモーセの律法に従っているので、神様の祝福を受ける希望があると信じていました。しかし、イエス様はまったく違うことをおっしゃったのです。

ヨハネによる福音書5:45-47

 どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。モーセの律法に従うために一生懸命学んでいたユダヤ人たちが、どうしてモーセに訴えられるのでしょうか。それは、彼らがモーセの律法を根本的に誤解していたからでした。

 神様が律法を与えた理由は、人間が神様のルールを守ることによって神様を喜ばせることではなく、人間が自分の罪を認めて、神様の約束した救い主を待ち望むようになることでした。

 律法は神様が完璧な方であることを表しています。神様を喜ばせるためには、神様のように完璧な人になることが必要です。完璧な生活をするだけではなくて、完璧な考え方をすることも必要です。しかし、完全に正しい生活をできる人は誰もいないし、完全に正しい考えを持つことのできる人は誰もいません。神様の律法は鏡のように、人間に自分の不完全さ、自分の罪を現わしました。神様がイスラエル人に律法を与えた理由は、彼らが自分の罪を認めて、約束された救い主を待ち望むようになることでした。しかし彼らは律法に書かれているたくさんのルールを読んで、すべてのルールに従えば従うほど、より神様を喜ばせることができるという間違った考えに陥ってしまったのです。

 モーセが記録した律法の中でもっとも大切なことは、神様のルールではなく、神様がイエス様を送ってくださるという預言でした。しかしイエス様の時代のユダヤ人たちは、モーセの律法の中のルールについては良く理解していましたが、イエス様についての預言を理解していなかったので、イエス様に信頼することはありませんでした。

 そのモーセの律法に対する根本的な誤解が、ユダヤ人たちの生活にとても悪い影響を与えていました。ユダヤ人の考え方の中では、神様のルールを守る人が神様を喜ばせるのだから、ルールを守る人はルールを守らない人よりも優れているということになります。その考えによって、ルールを守れば守るほど、高慢で偽善的になっていったのです。

マタイによる福音書23:25-28

 律法の目的は神様の完璧さを表すことだったのに、ユダヤ人の律法学者とパリサイ人たちは自分の利益のために律法を歪めてしまいました。彼らは自分が他の人より優れていることを示すために神様のルールを厳しく守っていました。しかし心の中には強欲や、放縦や、偽善や、不法が満ちていました。彼らは神様の律法をしっかり守っていると自負していましたが、イエス様は彼らをひどい罪人(つみびと)として非難されたのです。彼らは神様に従うと告白していたのに、神様がイエス様として来られたとき、御子なる神を殺してしまいました。ステパノはこのような人たちの前に立たされていたのです。

 このことを覚えながらステパノの弁明に戻って、ステパノが神様の律法の本当の目的をどのように説き明かしたのかを見て行きましょう。それが今日の二番目の点、モーセの律法の本当の目的は、律法に完全に従うことのできる人は誰もおらず、救い主が必要であることを示すことだったということです。

 ステパノがユダヤ人の最高法院に引いて行かれた理由の一つは、モーセや律法に逆らう言葉を語ったと告発されたからです。ステパノはこの告発について弁明するために、モーセの律法からモーセの物語を語りました。今日の箇所の中で、ステパノは二つの点を挙げていると思います。

1.イエス様が来ると預言したのはモーセ自身であること。

2.神様の民が、律法を受けた瞬間から律法に逆らったこと。

 まず、イエス様が来ると預言したのはモーセ自身だったという点を見てみたいと思います。ステパノは、イエス様はモーセがユダヤ人に伝えた慣習を変えるためではなく、モーセの預言を実現するために来られたのだ、と語っています。

使徒の働き7:37

これはモーセの律法からの引用です。

申命記18:15-19

 この箇所には預言と命令があります。預言というのは、神様がイスラエル人の内から、モーセのような一人の預言者をイスラエルのために起こされる、というものでした。18節によると、この預言者はモーセと同じように神様の言葉を語るので、モーセと同じように神様の権威をもっています。また命令というのは、その預言者に聞き従わなければならないという命令です。これが律法に記されていることでした。つまり律法によれば、モーセのような預言者が来られたなら、ユダヤ人はすべて彼に聞き従わなければならないのです。そしてその命令には、ステパノの告発者も含まれていました。

 その預言者とはどのようにして分かるのでしょうか。モーセの律法には、その預言者がモーセと似ているということが示されていました。ステパノは今日の箇所でモーセの物語を語って、イエス様がモーセと似ている点を説き明かしていきました。

使徒の働き7:35-38

ステパノによると、モーセの特徴は三つありました。

1.モーセは救うために送られた人々から拒まれた。

2.モーセは不思議としるしを行った。

3.モーセは神様の言葉を神様の民に伝えた。

 この三つの点において、イエス様はモーセのような預言者でした。イエス様はイスラエルの指導者また解放者として送り出されたのに、イスラエルに拒まれてしまいました。またイエス様はたくさんの人を癒したり、たくさんの悪霊を追い出したり、たくさんの不思議としるしを行いました。そしてイエス様は神様の権威によってイスラエルに神様のみことばを伝えました。イエス様はモーセが預言した通りの預言者だったのです。それを理解していたステパノは律法を守って、イエス様のみことばに聞き従いました。律法に本当の意味で従っていたのは、ステパノの告発者ではなく、ステパノ自身だったのです。

 イエス様は律法に取って代わるためではなく、律法を完成させるために来られました。律法を完全に守ることのできる人間はイエス様しかいません。イエス様は、ご自身に信頼する者、つまり私たちの代わりに、律法に従われました。律法には罪を覆うために血が必要だと書いてあるので、イエス様は私たちの罪を覆うために、動物の血ではなくご自分の血を流してくださいました。

 ここまで見てきたように、律法の目的は、人間が自分の罪を認め、神様が送った解放者に信頼するように導くことでした。このことを踏まえてステパノの二番目のポイント「神様の民が律法を受けた瞬間から律法に逆らった」ということを考えてみましょう。

使徒の働き7:39-42

 ここでステパノは、イスラエルの歴史の中でもっとも衝撃的な出来事について語りました。神様がモーセを通して素晴らしい力を現わし、当時世界最強の国であったエジプトを打ち倒してイスラエルを救い出し、エジプトから導き出した後、イスラエルの民はモーセと神様を拒んで、偶像を作って礼拝してしまいました。そしてこの恐ろしい出来事は、モーセが神様の律法を受けている最中に起きてしまったのです。この時代のイスラエル人は、他のどの世代よりも神様の力を目撃した特権的な世代だったのにも関わらず、他のどの時代よりも大きな形で神様に反逆したと言えるかもしれません。この時代のイスラエル人は何度も神様の律法を破り、神様とモーセを非難しました。このような特権的な世代ですら神様の律法に従うことができなかったなら、他の世代が従うことができるはずはないでしょう。使徒パウロはローマ人への手紙3:20でこう言っています。「・・・人は誰も、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないのです。律法を通して生じるのは罪の意識です。」

 それでは人間は一体どうすればいいのでしょうか。それが今日の最後の点です。クリスチャンは信仰によって神様に受けられる、ということについて考えましょう。

 旧約聖書の中で神様はすでに救いの計画を現わしておられましたが、その時代の人々はそのご計画を完全に理解することはできませんでした。もしすべての人が律法に従うことができず、律法を破ってしまうのなら、人間はどうすればいいのでしょうか。

 人が罪を犯す時、どうやったら罰をまぬがれることができるでしょうか。良いことをすれば罰をまぬがれるでしょうか。たとえば、もし人を殺してしまったとします。そのあとで心からそれを後悔して、それからは人助けをすることを人生の使命として、とても良い人間になったとします。この人が警察に捕まったらどうなりますか。罪を犯したあとにした良い行いによって、犯した罪を消すことができるのでしょうか。改心して良い人になったとしても、その人が人を殺したという罪に対する罰を受けないなら、正義とはいえません。

 同じように人間はみな、神様の律法をもうすでに破ってしまいました。すべての人間は神様の前では犯罪人のような存在になりました。私たちには、自分の罪に対する罰を受けるか、神様の慈悲を求めるか、の二つしか選択肢はありません。神様は素晴らしい愛と恵みによって、私たちに罰を逃れるための道を与えてくださいました。その道はイエス様です。「人は誰も、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないのです」と聖書にありますが、義と認められる方法があるのです。

ローマ人への手紙3:20-25

 神様の律法に従うことのできる人は一人もいません。義人は一人もいません。だからこそ救い主が必要です。神様は私たちに、イエス様に対する信仰によって義とされる道を与えてくださいました。イエス様に対する信仰によって、私たちは神様の前に義ではない者なのに、イエス様の義のゆえに私たちを受けいれてくださると、私たちは信じています。

 このような考え方は、ステパノの時代のユダヤ人たちの考え方と全く違います。当時のユダヤ人たちは自分自身の義に望みを置きましたが、それは彼らを高慢と偽善に導きました。

 しかしもし私たちが自分の義ではなくイエス様の義に望みを置くなら、神様を喜ばせる謙虚な生活に導かれます。私たちはみな、他の人の前では道徳的に行動するけれども、人の見ていないところでは不道徳な行動をする誘惑にさらされています。しかし本当の義は心の中から始まるものでなければなりません。イエス様に信頼すると、御霊が私たちの心を変えて下さり、悪や高慢を憎み、義を愛することを教えてくださいます。その心の変化によって、外側もどんどん変わっていくのです。

 またこのような信仰は、こんな自分は神様に受け入れられないのではないか、という恐れを追い出します。神様が私たちの行いによるのではなく、イエス様に対する信仰によって私たちを受け入れてくださるのであれば、罪を犯したとしても、悔い改めるなら神様の罰を恐れる必要はなくなります。神様は、私たちが犯したすべての罪をご存じです。また神様は、私たちがこれから犯すすべての罪も知っておられます。しかしイエス様の十字架上の犠牲は、イエス様に信頼する人のすべての罪を覆ってくださいます。イエス様に対する信仰によって、神様は私たちの過去の罪、現在の罪、未来の罪をも、すでに赦してくださっているのです。

 神様がイエス様に対する信仰によって私たちを義と宣言してくださったので、私たちは人前で良い人に見せようとするプレッシャーから解放されています。イエス様に対する信仰によって私たちはすでに許されました。イエス様を通して神様の前に義であると宣言された私たちは、自分の足りなさゆえの恐れから解放されているのです。