神の約束より素晴らしいもの

使徒の働き7:1-18

ロビソン・デイヴィッド
2019年10月 6日

 今日から三回に分けて、ステパノが最高法院で行った答弁を読んでいきたいと思います。

 ステパノが最高法院に引いて行かれた理由は、彼が福音を伝えて、イエス様は神様が送ってくださった救い主だと教えていたからでした。申し開きをするように要求されたステパノは、使徒の働きの中でも非常に長い説教を語りました。ステパノはこの説教を通して、ユダヤ人の信仰と聖書について、深い理解を示しています。彼は自分を弁護しただけではなく、自分の告発者であるユダヤ人の指導者たちが神のひとり子であるイエス様を殺したのだから、自分ではなく彼らこそが神様の名誉を汚す罪を犯したのだ、ということを証言しました。その結果、怒ったユダヤ人の指導者たちはステパノに手をかけ、彼は最初の殉教者になってしまいました。

 ステパノはこの説教の中で、その時代のユダヤ人が信仰の中心に置いていた三つのことに焦点をあてています。それは、約束の地、モーセの律法、そして神殿の三つです。この三つは神様からいただいた素晴らしい贈り物でしたが、当時のユダヤ人たちはこの良い賜物を、その賜物を送った神様ご自身よりも愛するようになってしまっていました。

 ある意味で、当時のユダヤ人たちはわがまま放題に育てられた子どものようだったと言えるかもしれません。神様から恵みや祝福などの良いものをいただきたいと思っているのに、神様ご自身を敬ったり愛したりする心が欠けていたのです。聖書を熱心に学んでいましたが、その中から自分の気に入った内容を見つけて、その内容に基づいて勝手な神様のイメージを作り上げてしまっていました。

 現代でも、多くのクリスチャンが同じことをすると思います。たとえば、クリスチャンは神様が愛であるということを信じていますが、その愛の意味を聖書から定義することをせず、自分の基準で定義してしまうことがあります。神様は愛なのだから、私に対して怒ることはない、だから神様のルールを全部守らなくてもいいと信じている人がいるかもしれません。または、神様は愛なので、私をすべての苦しみから守るために働いてくださると信じている人もいると思います。

 しかし、へブル人への手紙12:6には「主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」と書いてあります。また、ヤコブの手紙1:2-4はこう言っています。「私の兄弟たち。様々な試練に会う時はいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなた方が知っている通り、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けた所のない、成熟した、完全な者となります。」

 多くの人が神様を拒む理由は、聖書が示している神様が自分の求めている神様と違うからです。しかし私たちが神様を本当に知りたいなら、神様がご自分について聖書の中に表されたことをすべて受け入れなければなりません。ステパノがこの箇所で問題としたことは、まさにそのことでした。彼は、ユダヤ人たちの神様に対する理解がどのようにずれているのか、本当の神様はどういうお方なのか、ということを聖書から説き明かしたのです。

 今日はステパノの答弁の最初の部分を学んでいきたいと思います。しかしその前に、ステパノが何の罪で告発されたのかを学ぶために、使徒の働き6:11-7:1をお読みしましょう。

 ステパノに対する告発の内容は、モーセと神を冒涜する言葉を語っていること、神様の聖なる宮と律法に逆らう言葉を語っていること、そして、イエス様が宮を壊してモーセが伝えた慣習を変えることを語っていること、の3つでした。そして、その告発に対して大祭司は、使徒の働き7:1でステパノに「そのとおりなのか」と尋ねています。

 ステパノの返事の最初の部分を読みましょう。

使徒の働き7:2-18

 この部分でステパノは、旧約聖書のアブラハムとヨセフの物語を通して、神様についての自分の信念を説明しています。

 ここからまずはっきり分かることは、ステパノが神様と聖書に対する深い理解を抱いていたということです。ステパノが告発された理由の一つは、神様を冒瀆する言葉を語ったことでした。しかしこの答弁の中でステパノは、ユダヤ人が信じているのと同じ神様を告白して賛美しました。ステパノは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と同じ神に仕えていることを強調しています。

 ステパノが告発されたもう一つの理由は、律法に逆らう言葉を語ったことでした。律法というのは旧約聖書のことを指しており、さらに言えば、おそらくモーセが書いた旧約聖書の最初の5書を指していたかもしれません。この答弁の中でステパノは何回も律法を引用して、自分が律法によく通じているだけでなく、律法を非常に重んじていることを訴えました。

 大祭司に「神を冒涜する言葉を語ったのか」と尋ねられた時、ステパノはそれを否定するだけではなく、自分が神様について何を信じているのか、モーセの律法から詳しく説明しました。そしてほとんどの点については、ステパノの神様に対する理解は彼を告発した者たちと同じものでした。

 しかし同時にステパノは、モーセの律法から、告発者であったユダヤ人たちにとって都合の悪い部分をあえて引用して強調しました。ユダヤ人にとって、自分たちのアイデンティティの中で最も大事にしていたことの一つが、神様からイスラエルの土地をいただく約束でした。しかしステパノは、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、またモーセの物語を語りながら、イスラエルの民が神様から約束の地をいただくことは、神様の大きなご計画の中では彼らが考えていたほど大事なことではなかったのだ、ということをほのめかしたのです。

 当時のユダヤ人たちは、自分たちと神様との関係性は、イスラエルの地に住んでいるかどうかということと密接につながっていると信じていたようです。イエス様が世に来られた時、ユダヤ人は約束の地に住んではいるもののローマ帝国の支配下にありました。しかしローマ帝国とは特別な関係性にあって、ローマ帝国に忠誠を尽くす限りは律法に乗っ取った自治権を与えられていました。しかし、ユダヤ人の心の中には葛藤もあったと思います。彼らはローマ帝国から完全に自立して、神様が約束した通りにイスラエル地方を支配することを深く望んでいましたが、その一方で、ローマ帝国の怒りに触れて、今ある自由すらなくなってしまうことを恐れてもいたのです。ヨハネ11:47-53をみると、これをはっきり見ることができます。

 この箇所でカヤパという人が出てきます。今日の箇所に出てくる大祭司とは実はこのカヤパのことです。カヤパはイエス様に死刑宣告をしたのと同じように、これからステパノにも死刑宣告をすることになる人物です。カヤパがイエス様の裁判の時に恐れていたことは、イエス様を止めなければ、ローマ人がイエス様を脅威とみなして、ユダヤ人の土地も民も取り上げてしまうだろうということでした。ユダヤ人の指導者たちは、イエス様がローマ軍を打倒する力を持っているとは考えておらず、またイエス様を憎んでいたので、イエス様は民のために死ななければならないと判断しました。しかしヨハネが書いている通りに、それは実は「国民のためだけでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死のうとしておられる」ことの預言となりました。

 この箇所から、当時のユダヤ人の指導者たちと祭司たちが、イスラエルの土地を大事にするあまり、土地の所有権を守るために神のひとり子のイエス様を殺してしまったことが分かります。彼らは、神様がご自分の約束を守る方であることを信じきれず、自分達の力で約束を実現しようとしてしまったのです。ステパノはこれを理解していました。しかしユダヤ人の指導者たちは、自分達のしたことの意味を理解しておらず、自分の罪を自覚していませんでした。

 ステパノは、神様のご計画は土地をくださるより素晴らしいことであることを指摘しました。それを示すために、アブラハムの物語を語っています。

使徒の働き7:5-6を見てください

 神様はアブラハムにメソポタミアを去らせ、イスラエルの地を約束されました。神様はアブラハムの子孫、つまりユダヤ人にその土地を与えると約束されましたが、アブラハムは自分が生きていた間にはその土地を見ることはありませんでした。それだけでなく、神様はアブラハムの子孫が約束の地からほど遠いエジプトで、400年の間奴隷となると預言されたのです。15節を見てください。

 アブラハムの孫であるヤコブは約束の地ではないエジプトで死に、そこからアブラハムの子孫は400年もの間、約束の地に入ることができずエジプトで苦しみました。しかしその400年の間、アブラハムの子孫は約束の地を所有していなかったのにも関わらず、神様は彼らの祈りを聞いて守ってくださいました。約束の地を所有しておらず、その土地から離れたところにいたのにも関わらず、神様は彼らの間で素晴らしいみわざをたくさん行われたのです。その理由は、神様はイスラエルの土地の神ではなくて、世界の創造者として世界中で主権を持っておられる方だからです。土地を与えてくださる約束はもちろんとても素晴らしい祝福ですが、アブラハムとその子孫に対する神様のご計画はもっと大きくて素晴らしいことでした。神様のご計画は、土地を与えるだけではなく、ご自身をも与えてくださることだったのです。

 アブラハムはほんの少しの土地さえも受け取ることはありませんでしたが、もっと大切なことを受けました。8節を見てください。

 それは割礼の契約でした。それはアブラハムと神様の間の契約で、その契約を通して、神様はアブラハムとその子孫の神になりました。この割礼の契約を通して、神様はご自分の民を選び出し、祝福を約束されました。さらに神様は、アブラハムの子孫にご自分のことを現わして、ご自分について教えることを決められました。また、彼らが約束の地にいても遠くの国にいても、彼らを守り導びき、助けてくださることを約束されました。つまり、神様はご自分の民に対して、土地だけではなくご自分との関係の中に招き入れることを約束されたのです。その約束は土地よりはるかに素晴らしいものです。

 ステパノはさらにヨセフの物語を語っていきます。神様がヨセフを通してご自分の民を飢饉から救われた時の話しです。その物語を語る中で、ステパノは次のテーマにうつっていきます。それは、イスラエルの歴史の中で、民が神様の送ったしもべを拒絶するが、結局はそのしもべによって救い出されるということを繰り返しているということです。

使徒の働き7:9-14

 ヨセフとその兄弟たちはイスラエルの十二部族の父祖となる族長たちで、ユダヤ人はこの族長たちを非常に尊敬していました。しかし彼らはひどい罪を犯してしまいます。ヨセフは兄弟たちを支配するように神様に選ばれたのに、兄弟たちはヨセフをねたんで拒み、彼をエジプトに売りとばしたのです。それにも関わらず神様は、ご自分の民を飢饉から救い出すために、ヨセフを大きく用いられました。つまりヨセフの物語は、民に拒絶された者が救い主となるという点において、イエス様のことを預言していると言えるのです。

 ユダヤ人の指導者たちは、自分たちの先祖である族長たちがヨセフを拒んで虐待したのと同じように、神様が送ってくださった救い主イエス様を拒んで、虐待した上に殺してしまいました。先祖たちは神様を拒んで、神様の送った預言者たちに聞き従うことを拒否したので、神様は彼らを約束の地から引き離してバビロンに追放しました。ステパノの時代のユダヤ人の指導者たちは、宗教的にとても熱心で聖書をよく学んでいましたが、祖先の罪については自分達の歴史上の汚点ととらえていたと思います。彼らは、自分たちは先祖より神様に対して忠実だと考えていました。しかし実は、彼らは先祖よりもひどい罪を犯していました。彼らの先祖たちはむなしい偶像の神々を礼拝してしまいましたが、この時代のユダヤ人の指導者たちは、神様ご自身よりも神様の約束自体を大事にするあまり、神様からの賜物をむなしい偶像のようにまつり上げてしまっていたのです。

 この箇所は私たちにとっての警告であり、また同時に神様が良い方であられることを改めて教えていると思います。

 警告というのは、神様ご自身よりも神様の約束や祝福ばかりを重視しないようにするべきということです。また、改めて教えられるべきことは、神様が与えてくださる一番素晴らしい祝福は、イエス様を通して私たちにご自身を与えてくださったことだ、ということです。イエス様は神であられる方なのに、ご自分が創造された者たちを救うためにこの世に下(くだ)られました。しかし創造された者はイエス様を受け入れず、むしろ殺してしまいました。しかしイエス様は、その死を通してご自分に信頼する者を救ってくださったのです。

 神様はご自分の民に色々な約束を与えられました。そのたくさんの約束の中で、私たちにとって他の約束よりも心に響く約束があるかもしれません。私たちはみな神様の与えてくださる平安と喜びの約束を特に喜びますが、常に覚えていなければならないことは、この約束は神様にあって、また神様を通してしか受けることのできない約束だということです。平安と喜びが神様ぬきで私たちに与えられることはあり得ないのです。

 真の平安は、神様が私たちの人生から混乱を取り除くことではなくて、私たちが神様ご自身を愛し、神様の私たちに対する愛に信頼することを通して与えられます。真の平安のみなもとは、神様がご自分の愛するひとり子イエス様の十字架上での犠牲を通して私たちを赦し、義としてくださることに信頼する信仰です。神様とそのような関係を持っていれば、私たちは苦しみや迫害を経験する時にも、そのつらい経験に耐えることだけではなくて、その経験を成長や喜びの機会としてとらえることができるようになります。

 また真の喜びは、神様から離れている状況には決して見つけることはできません。いくらお金を積んでも、たくさんの友人に囲まれていても、神様を知らないなら、永遠の喜びを得ることはできないのです。真の喜びは、神様とともに歩み、神様の愛を理解し、神様との関係を経験することを通して得られるものです。それは、神様と永遠に過ごす希望に根差したものだからです。