神殿はイエス様を指し示していた

使徒の働き7:44-60

ロビソン・デイヴィッド
2019年11月 3日

今日はステパノの最高法院での弁明を見てきたシリーズの最終回です。前回と前々回は、約束の地とモーセの律法に対するユダヤ人の誤解をステパノが指摘した箇所から学びました。今日はステパノの弁明の最後の部分から、ユダヤ人が神殿に対してどのような誤解をしていたのかについて学びたいと思います。
 まず、ステパノに対する告発を見てみましょう。
使徒の働き6:13-14
 ステパノに対する告発の一つは、「この聖なる所」つまり、エルサレムにある神殿に逆らうことを語ったということでした。この告発の根拠は、神殿を壊すと言われたイエス様のことをステパノが教えていたことでした。しかし、実はイエス様は神殿を壊すとは一回も言っていません。それは多くのユダヤ人がイエス様に対して持っていた誤解でした。
ヨハネ2:18-21
 ここで、イエス様は「この神殿を壊してみなさい。私は三日でそれをよみがえらせる」とおっしゃいましたが、実はエルサレムにある神殿の建物についてではなく、ご自分の体について語っていたのです。多くのユダヤ人がそれを理解していませんでした。しかし、仮にイエス様が神殿の建物について語っておられたのだとしても、壊した後よみがえらせるともおっしゃいましたので、イエス様がエルサレムの神殿に逆らうことを語らなかったのは明らかでした。
それなのに、この誤解がイエス様とステパノの死刑判決につながる告発の根拠になっていたのです。
 イエス様がおっしゃったことは実はとても深い意味を持っていました。その意味というのは、イエス様ご自身がある意味で神殿のようだということです。それを頭に置いて、今日の箇所を学びましょう。
 今日はこのステパノの弁明の最後の部分から、三つのことを考えたいと思います。
1.神殿は神様がご自分の民の中に住まわれることの象徴だった
2.神殿の建物はユダヤ人が思っていたより大切なものではなかった
3.神殿のすべての要素は実はイエス様を指し示していた
 この三つの点について考える前に、まず神殿とは一体何だったのか、なぜユダヤ人が神殿をそんなに大事にしていたのかを考えたいと思います。
 ステパノは使徒の働き7:44-46で、神殿の歴史を語っています。
使徒の働き7:44-46
 ステパノは神殿の歴史を、モーセの時代に建てられた幕屋までさかのぼっています。幕屋は大きなテントのようなもので、移動式の神殿として機能していました。
モーセの時代、イスラエル人はエジプトから出て荒野をさまよう間、宿営を移動するたびに幕屋を持って行きました。幕屋が作られた400年後には、ソロモンが神様のために恒久的な宮を建てます。それが神殿でした。ソロモンが建てた神殿は、バビロン王国がユダヤを征服して神殿を壊す時まで、約400年間建っていました。自分たちの土地に戻ることを赦された一部のイスラエル人たちは、すぐに神殿を建て直しました。ステパノの時代まで、ユダヤ人は約1,400年の間、幕屋か神殿で神様を礼拝していました。そのような歴史を経て、神殿はユダヤ人のアイデンティティの大事な部分になっていました。
 しかし、神様はどうしてご自分の民にご自分のための宮を建てるように命令したのでしょうか。今日の一つ目のポイント「神殿は神様がご自分の民の中に住まわれることの象徴だった」ということについてみて行きましょう。
出エジプト記25:8-9
 ここで神様が神殿の前身といえる幕屋を建てるように命令しています。幕屋、またのちの神殿が、神様がご自分の民のただ中に住まわれることを象徴するものだったことが分かります。
 神様が民のただ中に住まわれるというのは、とても素晴らしく不思議なことです。初めの人アダムとエバを創造した時、神様は彼らと一緒にエデンの園を歩き、語られましたが、アダムとエバが神様に従わず罪びとになってからは、神様は人間から離れられました。しかしモーセの時代に神様は特別な民を選び、その民の中に住まうようになると言われたのです。それは人間にとって素晴らしいことでした。人間が自分の創造者である神と和解する希望を象徴していたからです。
 しかし、その希望はすぐに脅かされることになります。神様が幕屋を建てる命令を下さった後、イスラエルの民は神様を拒んで、鋳物の子牛を作って礼拝してしまったのです。その結果、神様はイスラエルの民のただ中にあって約束の地に上っていくことはないと言われました。
出エジプト記33:3-5
 神様がイスラエルの民のただ中にあることを拒絶された理由は、イスラエルはうなじを固くする民だったので、一時でも彼らのただ中に住もうとすれば、神様がイスラエルを絶ち滅ぼしてしまうだろうからでした。
 しかし、モーセがイスラエルのために祈って、イスラエルの民が自分の罪を告白して悔い改め、神様に従うと約束すると、神様は幕屋の建設を許可して、イスラエルのただ中に住むようになりました。
神様が人間の間に住まわれるのは素晴しいことでしたが、一方でとても恐ろしいことでもありました。幕屋や神殿で行われた礼拝や儀式は、神様の聖さと人間の罪を、イスラエルに常に思い出させるものでした。
 幕屋または神殿での礼拝は、二つのことを中心にしていました。それは祭司たちと生贄の二つです。
 祭司たちは、神殿で神様に仕え、神と人との間の仲介者になるために、神様が選んで聖別した特別な人々でした。祭司たちはきよめの儀式を通して神様の奉仕のために聖別されて、また汚れないようにするために厳しいルールを守らなければなりませんでした。神様に生贄を捧げることや、神殿の奥に入ることなどは、祭司たちにしか許されていませんでした。それは、神様の前に出ることができるのは聖い人だけだということを現わしていました。
 神殿の存在は、イスラエルの民が汚れた罪びとで神様の前に出ることができず、神様との間に仲介者が必要であることを常に思い出させるためのものだったのです。
 礼拝の中心となっていたもう一つのことは生贄でした。祭司たちの一番大切な責任は生贄をささげることでした。
彼らは毎日、生きている動物、すなわち子羊、ヤギ、牛、鳩を殺してその血を流し、祭壇の上に生贄として燃やしました。つまり、神殿の中は死に満ちている場所だったのです。その犠牲は、人間が罪びとで、罪を償うためには血が流されなければならないことをイスラエルの民に常に思い出させていました。へブル人への手紙9:22には「血を流すことがなければ、罪の許しはありません。」とあります。
 神様が民のただ中に住まわれるというのはこういうことでした。それは大きな祝福ですが、とても恐ろしいことでもあったのです。神殿での礼拝は、人間が神様の前に謙虚さと敬意を持つように促すはずのものでした。
 しかしイエス様の時代に、神殿での礼拝は汚れていってしまいました。神殿の庭は、礼拝者を利用して金儲けをする者、生贄のための動物を売る者、両替人たちに満ちていました。イエス様は地上での働きの間二回も、動物を売る者や両替人を追い出して神殿をきよめられました。
 当時のユダヤ人の神殿に対する姿勢は偽善に満ちていました。彼らは神殿がとても大事だと考えてはいましたが、神殿の主である神様を敬っていなかったのです。
神殿は1,400年の間ユダヤ人の礼拝の中心にあり、その時代の神殿はとても立派な建物で、ローマ帝国全体でも有名でした。ユダヤ人たちは、主の神殿が自分の国の中にあるから、自分たちはとても特別な存在だと思い上がっていました。しかし、前回までの説教を通して学んだ約束の地とモーセの律法と同じように、神様が下さった神殿は、彼らの心の中で神様の代わりとなってしまいました。多くのユダヤ人たちは、自分達のただ中にある神様の美しい宮を、神様ご自身よりも愛するようになってしまっていたのです。
 では今日の2つ目の点「神殿の建物はユダヤ人が思っていたより大切なものではなかった」ということを見ていきます。ステパノの弁明に戻って、ステパノがどのように神殿に対するユダヤ人の間違った考え方を指摘したのかを見てみましょう。
使徒の働き7:48-50
 ここでステパノはユダヤ人たちにとって衝撃的な指摘をするためにイザヤ書を引用しています。それは、神様の目には、神殿は実はそこまで大切ではないということでした。神殿はただ人間が手で作った建物でした。しかし神様は人間より無限に偉大な方です。天地を創造された神を納めることのできる建物は決してありません。すべてを創造された神様は、人間からは何一つ必要としていないのです。
 神殿は神様のための物ではなくて、神様の民がご自分を知るためにと神様が与えた賜物でした。もし民が神殿を神様を正しく礼拝するために使わないのであれば、神殿の意味はなくなり、神殿の建物は何の役にも立たないものになってしまいます。
 ステパノが引用したイザヤ書66:1-2を見てください。
 神様の目に大切なのが神殿ではないなら、何が大切なのでしょうか。それは人が、「貧しい者、霊の砕かれた者、神様のことばにおののく者」となることだというのです。
 イスラエルの民は岩を定められた通りに配置して神殿を建てましたが、その岩を創造されたのは神様です。また神様は岩を配置した人間をも創造されました。人間が呼吸する空気、食べる食べ物、飲む水、すべては神様が創造されました。人間が上に立っている地球、人間を温める太陽を創造されたのも神様です。このような神様に比べれば、人間が作った建物などどれほどのものでしょうか。
 しかしイスラエルの民は、その素晴らしい神様ご自身を見て敬うのではなく、自分の手で作った神殿を見て、自分自身を誇りに思ってしまったのです。彼らは、神の宮が自分たちのただ中にあることを誇りにしていましたが、神様ご自身が自分たちのただ中におられることには興味を失ってしまったと言えます。
マタイによる福音書1:18-23
 先ほど、神殿は神様がご自分の民の中に住まわれることを象徴するものだと学びました。しかし神様は、実際にご自分の民のただ中に住まわれるために、イエス様を送られました。イエス様はインマヌエルと呼ばれますが、それは「神が私たちとともにおられる」という意味です。イエス様を通して神様が人間となり、ご自分の民のただ中に住まわれて、彼らとともに語り、教えてくださいました。イエス様は神殿が現わしていたことすべてを現実にされたのです。しかしユダヤ人たちは、エルサレムにある神殿の岩を守るために、真の神殿であるイエス様を殺してしまいました。
神が私たちとともにおられる、インマヌエルである方を、十字架の上で殺してしまったのです。
 その最大の罪のために、ステパノは自分の告発者に対して最大の告発をしました。
使徒の働き7:51-53
 では今日の最後の点について考えましょう。それは、ユダヤ人が愛してやまなかった神殿のすべての要素は、実は彼らが殺してしまったイエス様を指し示していた、ということです。
 地上の神殿の役割は、人間の罪といけにえの必要性を常に思い出させることでした。毎日、イスラエルの民は神殿の中で子羊が殺されて、祭壇の上に罪のための犠牲として捧げられるのを見ていました。それを通して、自分の罪と、聖なる神様、罪を憎み怒りに満ちている神様を思っていました。しかし、イエス様は完全なる究極の子羊になってくださいました。イエス様の十字架上の死を通して、私たちの罪は許されました。バプテスマのヨハネがイエス様を見た時に「見よ、世の罪を取りのぞく神の子羊。」と叫んだのは、それを理解していたからでした。
 神殿の中では、祭司たちが神様に奉仕しました。それは民に対して、汚れた者は神様の前に来ることができず、彼らのために仲介する誰かが必要だということを民に常に思い出させました。
しかし、イエス様は私たちの完全なる大祭司となってくださいました。へブル人への手紙7:25によると、
 イエス様はいつも生きていて、私たちのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
 エペソ人への手紙2:20によると、イエス様は新しい神殿である教会の要の石です。このイエス様の上に建てられた新しい神殿を通して、神様は特定の建物や国や町に住まわれるのではなく、ご自分の民が教会として集まる所にはどこでも、ただ中にいてくださいます。
 ヨハネの黙示録21:22によると、天の御国には神殿はありません。それは「全能の神である主と子羊が都の神殿だから」だとあります。
 イエス様がしてくださったことによって、神殿はもう必要なくなりました。イエス様を通して神様が私たちの心の中に住んでくださるようになるからです。またイエス様を通して、私たちは義とされ、聖なる者、罪ゆるされた者、聖い者となりました。私たちの神様に対する礼拝の中心は、行いや罪悪感や恐れではなく、信仰と希望と愛に変えられました。私たちはイエス様を通して、明確な目的と喜びと感謝を持って神様を礼拝することができるのです。
神様は、岩で建てた建物よりはるかに素晴らしい賜物をくださいました。それは、ご自分の愛する御子イエス・キリストご自身なのです。