主の晩餐を行うことの意義

ルカによる福音書22章14-20節

ロビソン・デイヴィッド
2020年12月27日

ルカによる福音書22章14-20節

 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなた方と一緒にこの過ぎ越しの食事をすることを、切に願っていました。あなたがたに言います。過ぎ越しが神の国において成就するまで、わたしが過ぎ越しの食事をすることは、決してありません。」
 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなた方のために流される、わたしの血による、新しい契約です。」

 

 今日から私たちは教会として、主の晩餐を定期的に行い始めます。主の晩餐はキリストが定められ、教会に与えられた聖餐です。キリストは弟子たちに、主の晩餐を定期的に行うように命令されました。私たちは主の晩餐をいただく時、イエス様の私たちのための犠牲と、その犠牲を通して与えられた罪の赦しを覚えます。また主の晩餐は、私たちのキリストの体としての一致も象徴しています。また、私たちの目を未来に向けて、キリストがこの世に戻られて永遠の御国を確立する時に、キリストと永遠にいることを待ち望むために行うものでもあります。

 主の晩餐を定期的に行うようになることは、新しく生まれた教会の歩みにとって重要なステップです。この聖餐はキリストがクリスチャン個人個人に与えたことではなく、教会に与えたものです。主の晩餐にともにあずかることは、私たちが一人一人自分の霊的成長のためにすることではなく、教会の兄弟姉妹たちと集まって、イエス様と教会と共にパンとぶどう酒をいただくことによって、イエス様を礼拝することです。

 主の晩餐を定期的に行うことは、地域教会の特徴の一つです。クリスチャンは礼拝以外の時にも共に集まることがあります。たとえば、他のクリスチャンと一緒に聖書の学びをしたり、クリスチャンのキャンプやカンファレンスに参加したり、クリスチャンの音楽コンサートに行ったりします。しかしこのようなクリスチャンの集まりと地域教会の違いの一つは、地域教会が定期的に共に主の晩餐にあずかっているということです。

 主の晩餐を共にいただくことは、私たち地域教会の、キリストに対する献身を表しています。そして、私たちのお互いへの献身も表しています。使徒パウロは主の晩餐に関して、コリント人への手紙第一10:17でこう言っています。

 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つの体です。皆が共に一つのパンを食べるのですから。

 今日、私たちが教会として主の晩餐をいただく前に、聖書を開いて、主の晩餐について学びたいと思います。そのあと、主の晩餐に関してよくある質問に答えてみたいと思います。

ルカによる福音書22:13-14
 彼らが行ってみると、イエスが言われた通りであった。それゆえ、彼らは過ぎ越しの用意をした。その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。

 イエス様は死なれる日の前の夜、弟子たちを集めて、過越の祭りをお祝いしました。過越の祭りが主の晩餐とつながっています。過越の祭りはユダヤ人が毎年お祝いしていた祭りで、神様がご自分の民をエジプトから救い出されたことを覚える祭りでした。昔、イスラエル人はエジプトで奴隷として苦しんでいましたが、神様が奇跡を用いてファラオの手から救ってくださいました。その時、神様が死の天使をエジプトにいたすべての長男を殺すために送り出しました。しかし、神様はご自分の民に救いの道を用意されました。神様はイスラエルの民に、羊を殺してその血を家のドアの上に塗るように言われ、死の天使がその羊の血を見てその家を通り過ぎるようにされたのです。

 その時から今まで三千年以上にわたって、ユダヤ人は過越の祭りを毎年祝っています。イエス様も過越の祭りをお祝いされましたが、死なれる前の夜に、過越の祭りのもっと深い意味を教えられました。それは、イエス様が過越の祭りの羊のようだということです。イエス様の流された血が、ご自分の民を守り救ってくださるのです。そして、ユダヤ人が過越の祭りを通して神様の救いを定期的に覚えるのと同じように、クリスチャンは定期的に主の晩餐を行うことを通して、イエス様によって与えられた神様の救いを覚えるようになりました。

 イエス様が最初の主の晩餐で弟子たちを集めて一緒に食事をしたのと同じように、今日(こんにち)でもご自分の教会を集めて、私たちと共にこの主の晩餐を食べて、交わりをしています。私たちは主の晩餐をいただく時、イエス様の犠牲を覚えて、イエス様の死による勝利をお祝いします。また、イエス様が達成してくださったことを覚え、今経験している祝福に感謝し、そして将来イエス様とお会いする時を待ち望みます。つまり主の晩餐には、過去、現在、そして未来の要素があるのです。

 まず、過去の要素について考えましょう。私たちが主の晩餐をいただく時、過去にイエス様が私たちのために何をしてくださったのかを覚えます。ルカによる福音書22:19で、イエス様が弟子たちに、私を覚えて、これを行いなさいと命令されました。私たちはパンと杯をいただく時、イエス様がしてくださったことを覚えます。

 まずパンを食べる時、イエス様のからだを覚えます。イエス様は私たちを救うためにご自分のからだを犠牲にされました。イエス様のからだが十字架で裂かれたのと同じように、私たちはイエス様のからだを表すパンを裂きます。私たちは罪人で、神様の怒りと裁きに向かっていましたが、イエス様が私たちを愛するがゆえに私たちの代わりに死なれ、私たちの罪の罰を受けてくださったことを覚えてパンを食べます。

 また私たちが杯(さかずき)を飲む時、私たちのために流された、イエス様の血を覚えます。イエス様の血が、人間と神様の間の新しい契約となりました。イエス様が来られる前には、神様とユダヤ人の間に契約がありました。その契約によって、ユダヤ人は自分たちの罪のために、毎日毎日動物の血を流す犠牲を捧げなければなりませんでした。このように毎日血を流すことによって、自分たちが罪びとで、神様の怒りをなだめなければならないことを覚えました。しかし、イエス様の血による新しい契約によって、イエス様が自分の民のために、一度だけ、動物の血ではなくご自分の血を流されて、この一度のことによって、ご自分を信じるすべての人の罪を完全に贖(あがな)われました。イエス様の一度の犠牲を通して、私たちは永遠に赦されたのです。イエス様の一度の犠牲によって、私たちは神様の前に義とされ、罪の罰から救われたのです。

 私たちはイエス様の犠牲を覚えて、その素晴らしい愛を見る時、喜んでイエス様に感謝します。イエス様が私たちに完全な忠実さと愛を示してくださったので、私たちは裁きを恐れる必要がなくなりました。イエス様が私たちの代わりに、神様の怒りをなだめるためにすべてを達成してくださったからです。

 次に、主の晩餐の現在の要素を考えましょう。私たちはクリスチャンの兄弟姉妹と共に教会として集まることを通して、キリストが今でも私たちの間にいてくださることを覚えます。教会の頭(かしら)であるイエス様が、最初の主の晩餐の時に弟子たちと共におられたのと同じように、私たちが主の晩餐を共にいただく時、イエス様が今でも私たちといてくださることを覚えます。主の晩餐の主は、確かに私たちと共にいてくださいます。
 
 パンを食べる時、イエス様のからだが私たちに霊的な栄養を与えてくださいます。イエス様はご自分のからだを犠牲にして、私たちの赦しを買われ、私たちが神様の祝福を受けるようにしてくださいました。私たちはイエス様の犠牲と、それを通して与えられた救いを覚えることによって、毎日霊的成長が与えられるのです。

 また主の晩餐は、私たちが罪を犯す時、いつもイエス様がとりなしてくださることを覚えさせてくれます。私たちは弱くて、罪を犯す時がありますが、イエス様は私たちを裁くのではなく、ご自分の犠牲によって私たちを赦してくださっています。イエス様の一度の犠牲が、私たちのすべての罪を赦すのに十分だったからです。

 最後に、主の晩餐には未来の要素もあることを考えたいと思います。コリント人への手紙第一11:26で使徒パウロはこう言っています。「あなたがたはこのパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」

 私たちは互いに対してイエス様の死を告げ知らせ、また、世界の前にもイエス様の死を告げ知らせます。私たちはイエス様の死を通して救いを受けました。また誰でもイエス様を信じれば、救いを受けて、イエス様が戻られる時には私たちと共に喜びます。イエス様が来られることを待ち望むのが、主の晩餐の未来の要素です。

 イエス様はルカの福音書22:18で、
「今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」

と言われました。またマタイの福音書26:29でイエス様は、神の国が来ると、弟子たちと共にまたぶどうの実からできた物を飲むと言われました。私たちクリスチャンにとって、一番幸いなことは、イエス様と共に永遠の交わりをすることです。主の晩餐をいただく時、私たちは未来に向かって、イエス様がまたこの世に来る時を待ち望みます。その時、私たちはすべてのクリスチャンとイエス様と、ごちそうを共にします。その時まで定期的に主の晩餐を行うことを通して、イエス様と永遠に過ごす望みを新しくしていくのです。

 主の晩餐は、私たちの信仰の中心にある良い知らせを覚えさせてくれます。イエス様が私たちの罪のために死んでくださったこと。その死を通して私たちに赦しを与えてくださったこと。私たちが信仰の歩みにつまずいて罪を犯す時にも、イエス様が私たちの罪を赦してくださること。イエス様が私たちを愛してくださり、将来また来られて、私たちと共に永遠にいてくださること。主の晩餐を共にいただくたびに、これらのことをしっかりと心にとめて、感謝しましょう。