神がきよめた物を聖くないと言ってはならない

使徒の働き10:1-30

ロビソン・デイヴィッド
2020年02月 9日

 今日の箇所は、使徒の働きの物語のターニングポイントとなる箇所です。ここまでの時点で、福音はエルサレム、ユダヤ、ガリラヤに住んでいるユダヤ人にまで広がっていました。またピリポの働きを通して、サマリア人も福音を受け入れ始めていました。しかし使徒の働きの最初の部分では、イエス様はもっと大きなご計画を明らかにしておられます。

使徒の働き1:8

 今日の箇所では、福音が地の果てにまで広がり始めるのを見ることができます。そのきっかけは、ペテロがコルネリウスという人物と出会ったことでした。その時まで、ほとんどのクリスチャンはユダヤ人でしたから、異邦人とは関わりを持っていませんでした。ユダヤ教の教えによると、ユダヤ人が異邦人の家に入ったり、一緒に食事をするのは良くないことだとされていたからです。

 その教えの主な理由は、汚れた食べ物ときよい食べ物に関する旧約聖書の律法でした。旧約聖書の中で神様は、ユダヤ人が特定のけがれた食品を食べることを厳しく禁止しました。しかし異邦人はそのような食品を食べていたので、ユダヤ人が異邦人と共に食事をするのはとても難しく、多くのユダヤ人は、異邦人と関わるのはふさわしくないことだと判断していたのです。その結果、クリスチャンになったユダヤ人達が、異邦人に近づいて福音を伝えることはありませんでした。

 しかし、神様のご計画は、ユダヤ人と異邦人を一つにして、ユダヤ人だけでなく、世界のすべての民にご自分の救いを現わすことでした。

 今日フォーカスしたいのは、ペテロが屋上で見た幻(まぼろし)です。

使徒の働き10:9-16

 これはとても不思議な幻で、ペテロ自身も理解するのに苦しんだようです。私たちがその幻の意味を理解するためには、ユダヤ人のけがれた物ときよい物に対する律法を理解することが必要になってきます。ですから、これから少しの間旧約聖書を開いて、その律法について学びたいと思います。

 レビ記11章を見てください。この箇所で、神様がイスラエル人にどの動物を食べてよくて、どの動物を食べてはいけないのかを、教えています。その律法はとても長くて複雑な内容でしたが、簡単にまとめると、牛や羊やヤギはきよい動物なので食べてよいが、豚やウサギやウナギなどは汚れているので、食べることは禁止されていました。

レビ記11:24

 汚れた動物を食べるだけでなく、死骸に触れただけで、その人自身が汚れた者になるとあります。また、人が汚れる理由は、汚れた動物に触れることだけではありませんでした。例えば、特定の皮膚病にかかったら汚れてしまいます。親戚が亡くなって、埋葬するために遺体に触れたら、汚れてしまいます。夫婦の営みによっても汚れてしまうし、女の人は月経の期間も汚れることになりました。多くの場合は、仕方がないことによって汚れることになってしまったのです。その結果、すべてのユダヤ人はどこかの時点で汚れることになってしまいました。そして、汚れている期間は礼拝に参加することが許されていなかったので、汚れをきよめるために様々な要件を満たさなければなりませんでした。多くの場合は、罪のいけにえを捧げて、水で洗うことが必要でした。しかし、どうして仕方がないことのために、罪のためのいけにえを捧げなければならなくなったのでしょうか。どうしてこのような複雑な律法ができあがったのでしょうか。

 その理由は、神様と人間に関する深い真実にあります。

レビ記11:45

 この律法のすべては、神様が聖であることとつながっています。この律法を通して現わされている真実は、神様には汚れがなく聖なる方であること、それに対して人間はみな汚れていて、聖なる者ではないということです。神様が聖く汚れのない方なので、人間が神様に近づくためには、神様のように聖くなることが必要だということを教えるために、神様はこのような律法を通して、聖であることのイメージをくださったのです。

 すべての人間は、どこかの時点で神様の律法を破ってしまいます。しかしもっと大きな問題は、すべての人間が生まれた時から罪に汚れていて、聖くない者だということです。すべての人間は、神様に受け入れられるためにはまず聖くなる必要があるのです。

 律法の目的は、何を食べるか食べないかによって誰かが聖くなることではなくて、正しい聖さについて私たちに教えることでした。イエス様はこのように教えられました。

マルコの福音書7:14-23

 律法を通して神様が明らかにされた真実とは、すべての人間が心の中に悪い考えがあったので、すべての人間が汚れているということでした。そしてその心の中の悪い考えが、私たちを神様から引き離していました。当時のユダヤ人の多くは、この深い真実を理解していませんでした。

 イエス様の時代にはパリサイ人がいました。パリサイ人は、この律法に厳格に従っていましたが、残念なことにパリサイ人の関心は、聖い心を持つことではなくて、聖い動物を食べることに集中してしまったのです。つまり、パリサイ人は心の中のきよめより、儀式的なきよめの方を大切なことと考えて、神様に受け入れられるようになるために、儀式的な汚れを厳しく避けました。しかし、誰かが儀式的にきよめられていても、もし心が汚れていて純粋ではないなら、神様から受け入られることはできません。神様は儀式的なことより、心の状況の方を大切にしておられるからです。

 その食べられる動物と食べられない動物の律法、また儀式的な汚れときよめの律法の目的は、真に聖くなることが必要だということを教えることでした。儀式的にきよくなる方法があるのと同じように、真に聖くなって罪から解放されて、神様に受け入れられるようになる方法があることを現わすことでした。それはイエス様による救いです。イエス様が来られた目的は、私たちの罪のために死んで、ご自分を信じる者をご自分の血を通してきよめることでした。ですから、イエス様が来た時から、汚れを聖める儀式はもう必要なくなりました。イエス様がその儀式が表しているすべてのことを完成されたからです。

 それを頭に置いて、ペテロとコルネリウスの話しに戻りましょう。

 ユダヤ人であったペテロの視点から見ると、異邦人は汚れた動物を食べて神様の律法を守らないので、神様に受け入れられない人たちだと見えたかもしれません。異邦人は聖くなるための儀式を受けたり、罪のいけにえを捧げたりしないので、一生汚れたままです。ユダヤ人が恐れていたことは、そのような人たちと関わったら自分も汚れた者になってしまうということでした。

 イエス様が弟子たちに、「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。」と教えたのに、ユダヤ人のクリスチャンたちは、食べ物に関する律法を守り続けていたので、異邦人と関わりたくない気持ちも持ち続けていました。もし神様が介入しなかったら、ユダヤ人のクリスチャンが異邦人に福音を伝えることはなかったでしょう。しかし、そこに神様が介入して、ペテロとコルネリウスに幻をくださいました。ペテロの幻を見てみましょう。

使徒の働き10;11-16

 ペテロは、幻の中で大きいな敷布(しきふ)のような入れ物の中に、あらゆる動物が入っているのを見ました。四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥が、全部混ざって入れ物に入っていました。つまり、きよい動物と汚れた動物が一緒に入っていたのです。これは、神様がどのような教会を作ることを願っておられるかを表していると思います。神様は、ユダヤ人と異邦人が共に交わりをして、神様を礼拝し、神様に従って共に神様の目的を達成することを願っておられました。イエス様を通して、ユダヤ人も異邦人もみな聖い者となって、神様に受け入れられるようになることを願っていました。

 しかし、この幻を見たペテロは衝撃を受けました。きよい動物と汚れた動物を混ぜるのは、子どもの頃から教えられてきたことに反することでした。神様が汚れた動物を食べるようにと命令すると、ペテロは断ります。汚れた物を食べたことがなかったからです。

 このことは、ペテロが心の中で異邦人をどう見ていたかを表していたかもしれません。ペテロは汚れた食べ物をいつも避けていたように、汚れた異邦人のこともいつも避けていたということです。ペテロは喜んでユダヤ人に福音を伝えましたが、異邦人に福音を伝えることにはまったく興味がありませんでした。しかし神様は三回もペテロに、「立ち上がって屠(ほふ)って食べなさい」と命令し、ペテロに自分の偏見を現わしたのです。

 幻が終わると、ペテロはその意味を理解できずに混乱しました。しかし、コルネリウスが送ったしもべが着くと、ペテロはこの幻の意味を理解し始めました。

 神様は、ペテロにずっと避けてきたことをさせようとしておられました。仲間のユダヤ人のクリスチャン達がすべきではないと考えていたことをさせようとしておられました。

使徒の働き10:20

 神様はペテロに、異邦人の家に入るように言われたのです。もし神様がペテロにはっきりと御心を表さなかったら、ペテロが異邦人の家に入って福音を伝えることは決してなかったと思います。しかしペテロは神様に従いました。

使徒の働き10:28-29

 その結果、神様の教会に対するビジョンが目に見える形で現わされました。

 この話しから、三つのことを学ぶことができると思います。

1.誰でもイエス様を通して罪からきよめられることができる。

1コリント人への手紙6:9-11

 神様は私たちに、神様に近づく前にまず自分をきよめることを要求されません。それは私たちには無理なことです。すべての人間は、生まれた時から罪に汚れてきよくない者です。自分で自分をきよめることは誰にもできません。しかしイエス様には、どんな人でも罪からきよめる力があります。

2.私たちは、文化的なプレッシャーによって神さまに従うことをやめてはいけない。

使徒の働き10:28A

 ペテロはコルネリウスの家で、コルネリウスの家族に対して「ご存じの通り、ユダヤ人には外国人を訪問したりすることは許されていません。」と言っています。ペテロが異邦人と関わり合わなかった主な理由は、他のユダヤ人からの批判を恐れたことだと思います。私たちもクリスチャンとして、周りの文化によるプレッシャーを感じる時があると思います。しかし神様は私たちに、周りの人達に良く思われないことをさせることがあります。たとえば、多くの人は、イエス様だけを通して救いを受けるという教えは排他的すぎるので、伝えない方がいいと思うかもしれません。また、人に「あなたは罪びとです」と伝えるのは失礼なことなので、伝えない方がいいと思う人もいるかもしれません。しかしこのようなことは福音の中心的な真実なので、私たちは神様に従って、伝えにくいことも伝えなければならないのです。

3.私たちは、誰かを汚れている人、価値のない人とみなすべきではない。

 使徒の働き10:28でペテロは、「神は私にどんな人のことも、きよくない者であるとか、汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。」と言っています。

 ペテロは幻を見る前にはこの間違いを犯していました。ペテロは、異邦人はきよくない者、汚れた者だと考えていました。しかし私たちは、神様が救うことができないほど罪深い人がいると考えてはいけないのです。特定の国や文化の人を見下げてはいけません。神様のご計画は、すべての国や、言語や、文化の中から人々を救うということだからです。

 この三つのことを覚えて、近くにいる人も、また遠くにいる人も、すべての人が神様の福音を聞くことができるように、共に祈り働きましょう。そしてイエス様の犠牲によって罪びとがきよめられ、聖なる者とさせられ、イエス様を通して神様に受け入れられる者としていただけることを覚えて、神様を賛美しましょう。