イースター:死んだあとどうなるのか

1コリント人への手紙15:1-21

ロビソン・デイヴィッド
2020年04月12日

  人生で一番大切な質問は、死んだあとどうなるのかという質問かもしれません。死に対する考え方は、今の人生をどう生きるかに大きく影響するからです。
 多くの人は、死後の世界など存在しないと考えます。それが正しいとすれば、良いことをしても何か報酬があるわけではないし、悪いことをしても罰があるわけでもないので、自分がしたいことだけをするべきだと考える人もいます。
 また、人は死ぬと生まれ変わると考える人もいます。そういう人は、もし今の人生で良い行いをすれば、次の人生で立場が高くなるかもしれないので、一生懸命に良いことをしようとします。
 また多くの人は、人は死んだあと放浪する幽霊のようなものになると考えます。そしてさまよう霊を鎮めるためには、子孫に祈られたり、拝まれたりすることが必要と考えます。ですから、祖先の霊がさまようことがないようにしっかり礼拝して、自分が死んだあとも同じようにするように、次の世代に教える人もいます。
 多くの人にとって、死んだあとどうなるのかということは、確証のない神秘的なことですが、クリスチャンにとって、死んだあとに何が起こるのかということは私たちの信仰の中核にあるものです。聖書はそのことについてたくさん教えています。
 聖書によると、初めに神様が完全な世界を創造された時、神様の創造の中で一番素晴らしいものは人間でした。人間は神様が創造した世界を神様の権威の下で管理するために創造されました。
人間が創造された目的は、神様を礼拝し、神様を知り、神様を愛し、また神様に愛されることです。しかし人間は、神様の愛と権威だけでなく、自分の創造者である神様ご自身を拒んで、神様以外のものを礼拝してしまいました。今でも、すべての人間はお金や、名声や、偶像を神様の代わりに礼拝してしまいます。私たちはみな、罪びとになって、神の国に住む価値がない者になってしまいました。
 死は罪に対する罰の一つの部分です。すべての人が死ぬ理由は、すべての人が罪を犯すからです。そして、すべての人は死んだあと、イエス様の御前に立って、イエス様に裁かれるのです。イエス様が、誰を復活させて永遠にご自分の国に住まわせ、誰を地獄に行かせるかを裁かれます。イエス様によって罪が赦されなければ、人は絶対にイエス様の御国に入ることはできません。
 しかし福音の良い知らせによって、誰でも罪を告白して悔い改め、イエス様を信じるなら、赦しを受けて、神様の子供として受けいれられることになります。イエス様は赦された人を死から復活させて、ご自分の永遠の御国に歓迎すると約束されました。
 今日はイエス様の復活をお祝いするイースターの日曜日です。イエス様はイースターに、ご自分が本当に天から来られて、ご自分の、命と死についての教えがすべて真実であることを証明されました。
 今日は1コリント人への手紙15:1-21を学びたいと思います。この箇所から二つの点を考えましょう。
1.    キリストの復活は何を成し遂げたか
2.    キリストの復活は私たちにどのような希望を与えるのか

 まず、キリストの復活が何を成し遂げたのかを考えましょう。
 クリスチャンである私たちは、イエス様の復活より、イエス様の死について話すことが多いのではないかと思います。確かに私たちが罪の赦しや救いを受ける希望は、イエス様の十字架上の犠牲に基づいています。イエス様の死は私たちの罪をおおわれました。イエス様が私たちの代わりに罰を受けてくださったので、私たちがイエス様に信頼すれば、神様は私たちを罰さないでくださるのです。
 しかしイエス様の復活は、イエス様の死と同じぐらい重要です。イエス様が復活せずに死んだだけだったとしたら、私たちは希望がない状態のままです。17-19を見てください。
 それはなぜでしょうか。他の偉い宗教指導者は何が違うのでしょうか。釈迦やムハンマドには何億人もの信者がいますが、彼らは死んで、死んだままです。イエス様は何が違うのでしょうか。イエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちの信仰は空しくて、私たちはすべての人のなかで一番哀れな者なのでしょうか。イエス様が、正しい生き方を教えた謙虚な良い教師であっただけで十分ではないのでしょうか。
 聖書ははっきりと、それでは十分ではないと言っています。イエス様はご自分について、こう言われました。
ヨハネの福音書11:25-26
 イエス様は「私はよみがえりです。いのちです。」と言われました。


誰でもご自分を信じれば、永遠の命を与えられると約束してくださいました。この永遠の命は、イエス様が約束されたことの中で中心的なことです。もしこの一番大切なことについて嘘をついていたとしたら、イエス様の他の教えもすべて信じるに値しないということになります。
 イエス様が約束されたもう一つのことは、将来永遠の御国を建てて、地上のすべての問題、病気、貧困、悲しみなどを解決するということです。また、誰でもご自分の教えを守るなら、神と人との平和の中に生きるようになることも教えてくださいました。しかしイエス様が与えてくださったもっとも大切な約束は、死を征服してくださるということです。だからこそ、イエス様が死んで、死んだままだったとしたら、うそつきとして暴かれていたでしょう。イエス様がよみがえられなかったとしたら、私たちの希望は嘘に基づいていることになっていたはずです。
 しかし、そのことの逆もまた然りで、もしイエス様が本当に死から復活されたのだとしたら、イエス様のおっしゃったすべてのことが正しいということになります。イエス様がおっしゃたことだけではなくて、聖書全体が正しいことを証明しています。イエス様は旧約聖書について、マタイの福音書5:18でこういわれました。
 「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」
 そして、イエス様は使徒たちを選んでご自分の教えを託し、ご自分の福音を世界のすべての人に伝えるために任命されました。1コリント人への手紙15:14-15節でパウロが言っていることを見て下さい。
 もしイエス様がよみがえらなかったとしたら、使徒たちは神様について嘘の証言をしたということになりますが、イエス様が本当によみがえられたなら、使徒たちが忠実な証人で、使徒たちの証しに基づいた新約聖書も真実であることが証明されます。イエス様がよみがえられたことによって、私たちは、イエス様の教えを聖書から知り、神様を知って、また人間とこの世界に対する神様のご計画についても知ることができるようになります。
 イエス様が死んでくださったことを通して、私たちは罪の赦しをいただいて、神様と和解することができます。またイエス様がよみがえられたことを通して、この希望が真実であることを確信することができます。救いの希望を持つために必要なことは、イエス様が罪のために死んでくださっただけではなくて、復活されたことをも信じることなのです。
 続いて、キリストの復活が私たちにどのような希望を与えるのかを考えましょう。
 使徒パウロが1コリント人への手紙15:50-57でこのことについて話しています。
 イエス様の復活は、イエス様を信じる私たちも復活するのだという希望を与えてくれます。イエス様は復活したあと天に昇られましたが、将来イエス様は天から下って、この世に戻られます。その時イエス様は、その時に生きている人、また、もう死んだ人のすべてを裁くことになります。イエス様は、ご自分の正しく完全な支配を拒んだ罪人を地獄に投げ込まれます。しかしご自分に信頼する人を復活させて、永遠の命を与えられます。
 この永遠の命はどのようなものなのでしょうか。53節によると、
「この朽ちるべきものが朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる」と言われています。
ピリピ人への手紙3:20-21を開いてください。
 ここでパウロは「キリストは、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだだと同じ姿に変えてくださいます。」と書いています。
次に、第1ヨハネの手紙3:2を開いてください。
 「キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。」とありました。これは私たちが、キリストが死から復活されて、永遠に生きておられる姿と同じようになる、ということを意味しています。イエス様の復活された体は完全で、病気や老化の影響を受けない体でしたが、それはまだ肉体でした。弟子たちは復活されたイエス様の体を触ることができ、復活されたイエス様は食べ物も食べていました。そしてイエス様はその肉体を持って天に昇られ、天におられるイエス様は今も、永遠に、その完全な肉体を持ち続けられるのです。
 聖書によると、私たちの永遠の命はイエス様と同じように、完全な肉体を伴うものです。私たちは実体のない幽霊のようなものになるのではなくて、イエス様が復活された時と同じように、肉体を持って復活させられます。神様の永遠の御国はただの神秘的で霊的なものではなくて、むしろイエス様はこの世を新しい天と新しい地として造り替えるためにこの世に戻られるのです。
その新しい世界の中で、イエス様は王として永遠に支配することになります。使徒パウロが23節と52節で言ったとおりに、私たちの復活はイエス様が戻られた時に起こります。
 これを聞くと、もう一つの疑問が出てくるかもしれません。自分が死んでからイエス様が戻られるまでの間に何が起こるのか、という疑問です。ピリピ人への手紙1:23で使徒パウロは、彼の願いは世を去ってキリストとともにいることだと言いました。またヨハネの黙示録6:9には、イエス様のために殺された人のたましいがイエス様の天にある祭壇の前に待っているとあります。その人達はまだ復活していませんが、たましいはイエス様の前に立っているということです。このような箇所を学ぶと、もし誰かがイエス様を信じるなら、死んだあとのたましいはすぐにイエス様の御前に行って、イエス様が彼らを復活させる時を待つのだということが分かります。
 しかし聖書は、私たちの究極的な希望が何であるのかをはっきり伝えています。それは、イエス様がご自分の王国を建てるためにこの世に戻られて、私たちを肉体を持って復活させ、永遠の御国に招き入れてくださることです。そしてその時、この世界が新しくなって、罪が入る前の完全な状態に回復させられることです。そしてイエス様は、ご自分を信じる人に新しい肉体を与えて、イエス様と永遠に過ごすいのちを与えてくださいます。イエス様の永遠の御国では、罪も悪もなく、病気や苦しみもなくなります。その時この世界は、神様を愛し礼拝している人に満ちて、神様の栄光を見て永遠に喜ぶという、創造された本来の目的を果たすことになるのです。
 最後に、この真理が私たちの今生きている人生にどのような影響を与えるのかについて、考えたいと思います。58節を見てください。
 私たちが、イエス様の死と復活が何を成し遂げたのかを理解することを通して、私たちの今の人生に対する視点が根本的に変えられると思います。今の人生のすべてのことは、一時的なことです。今苦しんでいることはとてもつらいことですが、それも一時的なことです。今の苦しみを永遠の喜びと比べる視点を持つ時に、今の苦しみはとても小さなことに見えてきます。そこには永遠の喜びの希望があるからです。
 しかし、この希望はもう早くイエス様のもとに行くために死を選ぼうという気持ちに導くものではありません。むしろ、この人生の苦しみに立ち向かう力を与えてくれるものです。今イエス様のために色々な苦しみが与えられていますが、神様は私たちに、堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさいという励ましをくださっているのです。
 この永遠の喜びの希望は、今の人生の中で、私たちを喜んでイエス様のために苦しむ者に変えてくれます。永遠の報酬が私たちを待っています。今の労苦が主にあって無駄でないことを私たちは知っています。
 この人生は非常に大切なものですが、永遠の命は地上の人生よりも大切です。この復活の希望は私たちを、イエス様と親しく共に歩む人生に導いています。