今日からは使徒の働きのシリーズを少し離れて、宮古めぐみキリスト教会のビジョンについて、4回シリーズを始めます。その後、使徒の働きに戻ります。
昨年、近藤先生、キャット、私とトモで集まって、宮古の教会開拓に対する神様のご計画は何かを考えました。共に祈ったり、聖書を学んだり、話し合ったりすることを通して、神様のみこころを探りました。
その話し合いの結果、みなさんにも以前分かち合った、この開拓ビジョンが完成しました。
「みことばを土台とし、聖霊に導かれながら、宮古のすべての人をキリストへと導き、クリスチャンが神によって変えられ力づけられ、クリスチャンと教会を生み出し続ける教会」
そもそもビジョンとは何のことでしょうか。ビジョンというのは信仰告白とは違います。信仰告白は、私たちの信仰に関する信念のすべてを表すものですが、ビジョンというのは、神様が宮古でどのような教会を建てるように私たちを導いてくださっているかを、はっきりと表明するものです。私たちのビジョンは、4つの部分に分けられます。
1. みことばを土台とし、聖霊に導かれること
2. 宮古のすべての人をキリストへと導くこと
3. クリスチャンが神によって変えられ力づけられること
4. クリスチャンと教会を生み出し続けること
この四つのことが、私たちの宮古での働きの土台になるものです。私たちの働きの目的は、この教会のすべての活動がこのビジョンを実現していくことです。私たち開拓チームは、この教会に加わる方もこのビジョンを受け止めて、私たちと共に神様が与えて下さった働きに参加するようになることを願っています。
この4回シリーズを通して、この四つのことがどうして大切なのか、聖書から学びたいと思います。今日は一つ目のポイントである、みことばを土台とし、聖霊に導かれる、ということを学んでいきましょう。
私たちのビジョンが聖書から始まる理由は、聖書が私たちの信仰において一番大切なことだからではありません。私たちは、聖書を礼拝しているのではありませんね。私たちは神様ご自身を礼拝します。聖書が大切なのは、私たちが聖書を通して神様を知ることができるからです。聖書は、神様について、またキリスト教信仰についての真理を表しています。詩編19:7にはこう書かれています。
「主のおしえは完全で たましいを生き返らせ 主の証しは確かで 浅はかなものを賢くする。」
私たちの教会の土台は、神様の完全なるみことばです。私たちが信じていること、私たちがすることの土台は聖書の教えです。教会の計画を作る時、その計画は聖書に基づいていなければなりません。例えば、マタイの福音書28:19-20で、イエス様はこう言われました。
「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、私があなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」
この大宣教命令を活動計画の土台に置くことによって、人々の物理的な必要に応える活動だけではなく、人々がイエス様を知ることができるような活動も計画します。
聖書は紙に書かれた無味乾燥な言葉ではありません。へブル人への手紙4:12は聖書についてこう教えています。
「神のことばは生きていて、力があり、諸刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、思いやはかりごとを見分けることができます。」
聖書を書かれた聖霊と同じ聖霊が今も生きていて、この世の中で、また人間の心の中で働いているので、聖書も生きています。神様の御霊が私たちの心の中に住んで、私たちが教会として神様のご計画を行うことができるように導いてくださるのです。聖霊は、私たちが神様の現在のみこころを理解するために、私たちに聖書のみことばの意味を教えてくださいます。ですから私たちは、みことばを土台とし、聖霊に導かれることを追い求めるべきなのです。
イエス様に救われた私たちは、信仰によって、神様から聖霊をいただくことを信じています。私たちが祈りを通して聖霊の導きを求める時、聖霊が知恵を与えて導いてくださると信頼しています。私は、誘惑を感じる時や、難しい状況の中で何をするべきか分からない時、聖霊がその状況に必要な聖書箇所を思い出させてくださることが多いです。例えば私が誰かに対して怒っている時には、御霊が私に、イエス様がマタイの福音書6:14-15で言われたことを思い出させてくださいます。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」
このみことばを考えると、確かに、私は神様に対する恐ろしい罪を犯したのに、神様が私を赦すためにイエス様を犠牲にしてくださったのなら、私が他の人を赦さないことがふさわしくないことだと考えさせられます。
今日は、みことばに関する箇所と、聖霊に関する箇所の二つの箇所を学びたいと思います。
まずテモテへの手紙第二 3:16-17を開いてください。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良いことに働きにふさわしく、十分に整えられたものとなるためです。」
この箇所から分かることは、聖書はどこから来たのか、どうやって使うべきなのか、また神の人、つまりクリスチャンにどのような影響を与えるのかということです。
まず、聖書はすべて神様の霊感によるものだということが分かります。聖書は何人もの人間の筆者によって書かれたものですが、聖書の筆者たちは聖霊によって神様のみことばを語り、書きとめました。ペテロがこのことについて、もっと詳しく説明しています。ペテロ第二1:19-21
この箇所から分かることは、聖書のことばは預言者を通して与えられたものですが、聖霊に動かされた人たちが神様から受けて語ったものだということです。
聖書は神様から与えられたものなので、私たちクリスチャンはそのメッセージが正しく、従うべきものであると信じています。聖書の正しさを疑うのは、神様ご自身を疑うのと同じことです。神様のみことばは私たちに与えられたとても大切な贈り物です。聖書を通して、神様は私たちに人生の深い真実をあらわしておられます。ですから、神の教会である私たちの信仰と教義の土台は、神のみことばなのです。
次に、私たちが聖書をどのように使うべきなのかを考えましょう。使徒パウロは、聖書はすべて、教えと、戒めと、矯正と、義の訓練のために有益です、と教えました。この箇所から、私たちが教会の中で聖書をどのように使うべきなのかが分かります。
ここで言われている「教え」というのは、教会の中で聖書の意味をお互いに説明することです。ですから毎週日曜日に私たちが集まる時、礼拝の中心は聖書の教えです。また日曜日だけではなくて、それぞれが一人で聖書を読むこと、また別のクリスチャンと共に聖書を学ぶことを通しても、私たちは神様の知恵の中に成長することができます。聖書の教えを通して、神様がどのような方で、何を命じられたのか、何を私たちに求めておられるのかを理解するようになります。
私たちは聖書から教えを受けるだけではありません。私たちが間違ったことをする時や、真実ではないことを信じてしまう時には、聖書から戒めと矯正も受けます。戒めというのは、誰かが聖書が禁じていることをしている時に、その人に聖書の教えを見せて、柔和な心で正してあげることです。一方で矯正は、誰かが神様やみことばに関して間違った思いや考えを持っている時、その人に聖書から私たちが信じるべきことを表すことです。クリスチャンが神様から与えられている責任は、聖書によって共に戒めたり、矯正しあったりすることです。他のクリスチャンが、神様が表してくださった正しい生活と違う生活をしているなら、その人が神様と近い関係に戻るために、神様が伝えてくださった正しいことを教えて、神様のみことばに従いましょう、と伝えるべきです。
最後に、聖書は義の訓練のために有益だ、ということについて考えましょう。義の訓練というのは教えと似ていますが、その意味は、聖書からの教えを一度だけ受けるのではなくて、学校に入学するように、継続的な指導を受けるようなことです。私たちは、日々神様のみことばの教えを受けながら、私たちの生活をみことばによって形作られなければなりません。
その結果、クリスチャンはすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となります。私たちは最初に信仰に導かれた時、知識や、信仰、義、愛、きよさに欠けていた者でした。しかし御霊の働きとみことばの理解によって、私たちが救いに導かれた時に始められた働きは、完成にまで導かれるのです。
神様は、私たち一人ひとりが素晴らしい働きをするための計画を用意しておられます。今はまだそのような素晴らしい働きはできないかもしれませんが、私たちが神様が準備してくださった働きを十分にできるようになるために、神様はご自分のみことばを与えてくださったのです。
しかし、聖霊なしには神様のための働きをすることはできません。神様は、何千年も前に一度みことばを与えて、私たちから離れて行ってしまわれたのではありません。そうであったなら、それ以来クリスチャンは一人ひとり自力でみことばを理解するしかなかったでしょう。神様は私たちを置き去りになさる方ではありません。御霊によって聖書を書かれた神様は、同じ御霊をすべての時代のクリスチャンに送ってくださっているのです。
ヨハネの福音14:25-26
これはイエス様が十字架の直前に弟子たちに伝えられた言葉です。イエス様は、ご自分がいなくなってから、御霊を送ると約束してくださいました。神様がイエス様を通して二千年前にこの世に来てくださったのと同じように、今この瞬間も、神様は聖霊を通してこの場におられます。神様は、ご自分がお与えになったみことばを私たちが理解することができるように、聖霊を送ってくださいました。聖書を書かれた聖霊ご自身が、私たちが聖書を理解し、生活の中で思い出すことを助けてくださるのです。とても素晴らしい神様からの贈り物ではないでしょうか。
クリスチャンが聖書の真理の教えを聞くとき、聖霊はその真理の正しさを私たちの心に確信させてくださいます。また聖霊は、私たちが罪を犯して、聖書の戒めを聞くとき、悔い改めに導いてくださいます。聖霊が、みことばを私たちの心に根付かせて、霊的成長を与えてくださっているのです。
私たちが聖書を読むのは、弁護士が法律書を読むような読み方ではありません。弁護士は、法廷で勝つために法律を学んで、自分の目的のために法律を使います。しかし私たちは、生徒が先生に教えられるように聖書に向き合います。私たちの先生は、聖書を書かれた聖霊ご自身です。ですから私たちは、祈りながら、謙虚に、また素直に聖書に向き合うのです。
私の願いは、この教会がみことばを土台とし、聖霊に導かれている教会として成長していくことです。それによって、私たち一人ひとりも、みことばを土台とし、聖霊に導かれる人生を送ることになります。私たちの信仰と宣教の働きが一つのものになるために、聖霊は神様のみことばに現わされている真理を私たちに明らかにし、私たちを一つの体としてくださるのです。