ビジョン2:宮古のすべての人をキリストへと導くこと

ヨハネの福音書4:25-38

ロビソン・デイヴィッド
2020年05月 3日

今日も宮古めぐみキリスト教会のビジョン・シリーズを続けます。先週はビジョンの一つ目の部分を見ました。それはみことばを土台とし、聖霊に導かれることでした。今朝は、ビジョンの二つ目の部分を見てみましょう。それは、
 「宮古のすべての人をキリストへと導くこと」です。
 神様にこの宮古で集められた私たちは、神様が私たちの周りの人々に、そして宮古のすべての人に、神様の救いをもたらすイエス様による福音を伝えるように召してくださっていると信じています。この召しの元になっているのは大宣教命令です。
マタイの福音書28:19-20
 これが現代の教会に与えられている役目です。私たちはこの命令に従って、宮古に住んでいる人たちがイエス様を知ることができるように働き、また地の果てにまで福音を届けるように働きます。
 私たち宮古に置かれている教会には、この町に住んでいる人達に対する特別な責任があります。ですから、イエス様を知らない人が宮古に住んでいる限り、その人がイエス様の救いを知るように働き続けることは、この教会の目的の中心であり続けます。
 今日はヨハネの福音書4:25-38を学びたいと思います。この箇所は、イエス様と井戸のそばの女の話に出てくる箇所です。イエス様は弟子たちと一緒にエルサレムから北にあったガリラヤに向かって旅していました。それはたぶん一週間ぐらいの道のりだったと思います。旅の途中で、昼ご飯を食べるためにサマリアのサカルという町に入りました。弟子たちが食べ物を買うためにサカルに行っている間、井戸で待っていたイエス様は、サカルの女の人と会話をしました。その会話の中で、イエス様はご自分がユダヤ人やサマリア人が待ち望んでいた救い主であることをあらわしました。今日学んでいる箇所はその話の最後の部分で、弟子たちが井戸まで戻ってきたあとの箇所です。弟子たちは戻ってくると、イエス様がサマリア人の女の人と話しているのを見て、とてもびっくりしました。
 それからイエス様は、弟子たちに収穫について教えました。この箇所で興味深いことは、弟子たちと、イエス様、またサマリア人の女のサカルに対する視点がそれぞれに違ったという点です。その三つの視点について考えたいと思います。
1.    弟子たちの町に対する視点
2.    イエス様の町に対する視点
3.    サマリア人の女の町に対する視点
 まず、弟子たちの視点を考えましょう。彼らはサカルの町に対してどんな考えを持っていたでしょうか。どうやら弟子たちは、サカルの人々が福音を受け入れることはないと思っていたようです。35節を見てください。
 ここでイエス様が収穫のイメージを使って、どうやって人が救いに導かれるのかを説明しています。人がクリスチャンになるのは、麦を集めて倉に納めるようなことだ、と教えられています。しかし、人がクリスチャンになる前に、いくつかのことが起こらなければなりません。それが種をまくようなことだというのです。その人が福音を聞き、福音が種のように心に根付くこと、そして福音を信じることが必要です。例えば、もしみなさんが友達を教会のイベントに誘うとしたら、それは種を蒔くような働きです。また、誰かに福音を伝えた時に、その人がすぐに受け入れない時は、それも種を蒔くような働きだと言えます。
 収穫する者の働きは、福音を受け入れる準備ができている人に福音を伝えた時に、その人が福音を受けて救いが与えられ、バプテスマを受けて、教会の一部になるようなことです。
 弟子たちはサカルの人々を見て、「この人たちは決して福音を受け入れないだろう」と心の中で思っていたので、サカルの人に福音を伝えることは全く考えていませんでした。どうしてでしょうか。それは、弟子たちはユダヤ人で、サカルの人々はサマリア人だったからです。ユダヤ人とサマリア人の間には憎しみがありましたので、もしかしたら弟子たちは早くサマリアを出てガリラヤに行って、ユダヤ人に福音を伝えたいと思っていたかもしれません。ユダヤ人の方がサマリア人より福音を受け入れる確率が高いと思ったかもしれません。
 私たちも、弟子たちのように考えることがあるかもしれません。クリスチャンではない自分の友達や親戚のことを考えると、あの人は決して福音を信じないだろうと考えることがあったかもしれません。または、あの人は将来福音を受け入れるかもしれないけど、今はその準備ができていないので、今は伝えない方がいいと考えたことがあったかもしれません。
 私たちは、人に対してだけではなく、町や、国に対してもこのように考えるかもしれません。私がこれまでに話した多くのクリスチャンも、日本で収穫が起こる希望をそれほど持っていませんでした。私たち自身も、宮古で収穫が起こる希望があるかどうかを疑う時があると思います。神様が宮古で多くの人を救う時は起こるのでしょうか。
 次にイエス様の視点を考えましょう。35-36節を見てください。
 弟子たちはサカルの人々について、収穫はまだ将来のことだと考えましたが、イエス様の考え方はまったく違っていました。イエス様はサカルを見て、サカルの収穫はもう始まっているとおっしゃったのです。弟子たちはサカルに対してとても悲観的な視点を持っていましたが、イエス様は、その日神様がサカルの人々を大勢救いに導こうとしておられることを知っておられました。弟子たちは、サカルの人々は福音を受け入れる準備ができていないと思いましたが、実は、種蒔きはもう終わっていたのです。サマリア人は聖書に対して歪んだ理解を持っていましたが、神様がいつか救い主を送ってくださることは信じていました。また、その日までサカルで福音を伝えた人はいませんでしたが、実は聖霊がサカルの人々の心を開いて、福音を受け入れられるように準備していました。その結果、このサマリア人の女性は初めて福音を聞いた時、すぐにイエス様に信じて、福音を受け入れました。
 私たちは、人が福音を信じるようになるまでには多くの時間がかかると思うかもしれません。例えば、キリスト教について何も知らない人は、福音を受け入れる前にまずクリスチャンと出会って、クリスチャンの生活を観察する必要があると思うかもしれません。それによって、クリスチャンの生活に慣れることになりますね。そして、クリスチャンの生活に慣れた人は、教会のイベントに喜んで参加するかもしれません。そして、クリスチャン達との関係が深まってから初めて福音を聞くことができて、さらにそのあと長い時間をかけて福音について考えてから、やっとクリスチャンになるかもしれません。もちろん、神様がそのように人を救いに導かれることもあります。それはとても素晴らしい救いへの道です。しかし、神様が働かれるのはこの通りだけではありません。神様は福音を通して、いつでも、誰でも、救いに導くことがおできになるのです。
 今、宮古では、どんな働きが必要だと思いますか。種蒔きの働きなのか、刈り取る働きなのか、どちらでしょうか。もちろん両方必要ですが、この時代にイエス様の弟子である私たちは、刈り取る者として送り出されていると思います。イエス様がこの世に来られる前に、預言者たちが何千年もの間、種を蒔く者として働きました。イエス様がこの世に来られる前には、誰も十字架による救いを知りませんでしたが、イエス様がこの世に来られた時、収穫が始まりました。今は収穫の時代なのです。イエス様によって救いの道が示された今、誰でも、いつでも、救いを受けることができます。私たちは、イエス様の現在の弟子たちとして、宮古で収穫を刈り取る者として送られています。今まさに、宮古は色づいて、刈り入れにふさわしい状態になっていると、私はみことばから確信しています。
 私たちが口を開ける前に、福音を伝えようとする前に、聖霊がすでに働いてきておられるのです。宮古では百年以上にわたってクリスチャンがイエス様の証しをし、収穫のために祈ってきました。私は、神様が宮古の多くの人をご自分の御国に加えるために選び、聖霊を通してその人たちの心を準備しておられると確信しています。また、福音をまだ知らなくても、神様の救いを求めている人はたくさんいると信じています。この町に、聖霊の働きによって、自分の罪への自覚や、神様の赦しを求める心を与えられている人々がたくさんいます。その人たちは、私たちから福音を聞くことを待っています。私たちは刈り取る者として送られているのです。
 最後に、サマリア人の女性の視点を考えましょう。
 まず、28-29節を見て、そして、39-42節も見てください。
 この箇所の少し前に、ヨハネはこの女性の人生について書いています。彼女は5回結婚して、5回離婚していました。また、今は夫ではない人と一緒に住んで、罪の中に生きていました。当時、そのような生活は恥ずべきことでした。サカルの他の住人たちはおそらく、この女性を見下していたかもしれません。
 しかし、彼女はイエス様に出会って、イエス様が約束された救い主だと気づくと何をしましたか。すぐに、水がめを置いたまま町へ行き、人々にイエス様について伝えました。つまり彼女は弟子たちと違う行動をしたのです。イエス様から教えを受けて、福音を伝える訓練も受けて、福音を伝える召しも受けていた弟子たちが、サカルの人々は福音を受け入れないだろうと思って何もしなかったのと対照的です。
 この女性は、初めて会ったイエス様と会話したあと、町に入って、すべての人にイエス様について伝えました。どうしてでしょうか。彼女は、今は種を蒔く時期か、刈り取る時期か、と悩みませんでした。彼女は一つのことに集中していました。それはイエス様ご自身です。彼女は、イエス様がとても素晴らしい方で、自分が今までずっと求めてきた救い主だと気づきました。人に伝えないではいられなかったのです。人が自分の話に耳を傾けるかどうかは、この時の彼女にとってはどうでもいいことでした。それは関係なかったんです。イエス様について伝えないでいることはできませんでした。
 私たちも、この女性のような心を持ちたいと思います。今が種を蒔く時期か、刈り取る時期かは、私たちの関心事ではありません。それは神様の関心事です。私たちの責任は、イエス様の素晴らしさを見て、神様に従って、喜んで、私たちの素晴らしい救い主について伝えることです。私たちは、人々にイエス様の素晴らしさを伝えないでいることができないぐらい、イエス様を愛するべきです。
 今日は救いの日です。収穫は色づいて、刈り入れを待っています。私たちの目をイエス様にまっすぐ向けて、宮古のすべての人がイエス様の救いを受けることができるように願って働いていきましょう。