ユダヤ教とキリスト教

イザヤ書49:6

ロビソン・デイヴィッド
2021年02月21日

 

 世界の人口の半分ぐらいが、実は同じ神を礼拝していると知っているでしょうか。ユダヤ教とイスラム教とキリスト教の信者をすべて合わせると40億人になりますが、それらはすべて、4000年前にアブラハムという人物に現われた神を礼拝する人々です。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教は、互いに敵対しているように見えますが、実は多くの共通点があります。たとえば、この三つの宗教はすべて、唯一の神がすべてを創造したこと、昔アブラハムにご自分を現わされたこと、アブラハムとその子孫に祝福を約束されたこと、神様と正しく歩むことができるように、預言者たちを通して教えを授けてくださったことを信じています。しかし、この三つの宗教の間には、多くの違いもあります。例えば、誰がアブラハムの子孫なのか、どの預言者が正しく神様の教えを伝えたか、というようなとても重要な質問に対して、三者は異なる信仰を持っています。


 キリスト教の特徴は、イエスが神様の御子なので、他の預言者たちより神様を完全に表していて、また、人間と神様が和解するためにご自分のいのちを捧げられた、と信じる点です。


 今日はユダヤ教とキリスト教の関係に注目したいと思います。キリスト教とイスラム教の関係についても、また別の機会に考えてみたいと思います。


 キリスト教は、ユダヤ教から出て来たと言えます。イエスとその弟子たちは皆、ユダヤ教を熱心に信仰しているユダヤ人でした。彼らはユダヤ教の聖書が完全に正しく、間違いのない書物だと信じていました。ですから、キリスト教徒もユダヤ教の聖書が神様のみことばだと信じています。キリスト教の聖書の半分以上は、ユダヤ教の聖書で構成されています。私たちクリスチャンは、このユダヤ教の聖書を旧約聖書と呼びます。


 旧約聖書には色々な部分があって、一番大きな部分は律法と呼ばれています。律法はとても長い、神様に選ばれたイスラエルの民がどのように神様を礼拝するべきか、どのように神様に仕えるべきかを記した書物です。律法には二つの種類があります。一つ目は神様の命令です。この命令は、人間が神様の前に義にかなった生活をするために何をすべきなのかを表しています。律法の二つ目の種類は、神様の命令を従わずに神様を怒らせてしまった場合、神様の怒りをなだめるために何をしなければならないのかを表しています。


 律法の一つ目の種類である、神様が人間にどのような生活をすべきかを命令には、たくさんの命令がありますが、そのすべてをまとめている二つの偉大な戒めがあります。一つ目は申命記6:4-5に書いてあります。


 聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたがたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。


 この戒めは、人間が創造主である唯一の神だけを礼拝して仕えることです。人間は唯一の神を何よりも愛すべきで、私たちの心、命、力のすべてを使って、神様に仕えるべきであるという命令です。この命令は、人間と神様の間の正しい関係性を表しています。
二つ目の代表的な命令は、レビ記19:18に記録されています。

 あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。

 

 この命令の意味は、私たちが自分のニーズより周りの人のニーズを大切に考えるべきだという意味です。この命令は、人間と人間の間の正しい関係性を表しています。


 この二つの命令に完全に従うのはとても難しいことです。難しいというより、無理です。私たち人間は、自分を創造してくださった神様を正しく愛する事はできません。クリスチャンも、一所懸命心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして神様を愛すことができない時が良くあります。また、私たち人間は、周りの人に対して自分勝手に行う時が必ずありますね。私たちはしばしば自分を他人よりも優先するでしょう。旧約聖書に記された神様の律法によると、私たちすべての人間は、神様の命令を破り、神様を怒らせて、罪びととなってしまいました。ですから、すべての人は何とかして、自分の罪を償わなって、神様から赦していただかなければなりません。しかし、どうしたら神様から赦しを受けることができるのでしょうか。どうしたら神様に受け入れられるのでしょうか。この質問に関して、キリスト教徒とユダヤ教徒は全く違う考えを持っています。


 旧約聖書の中には、罪を贖うためのルールがたくさんあります。一番よく出てくる方法の一つは、動物を生贄として捧げることです。つまり、罪を犯した人は、羊や、ヤギや、鳩を祭司の所に連れて行って、その動物を殺し、祭壇の上で燃やさなければなりませんでした。この意味は、その動物が人の代わりに罰を受けた、ということです。動物の犠牲を通して罪の贖いをする教えは、昔のユダヤ人にとってとても大切な教えでしたが、現在のユダヤ人にとっては大きな問題となっています。神様の律法よると、この生贄は必ずエルサレムにある神殿で捧げられなければなりません。しかし、イエス様の死から40年ほど後に、エルサレムにあったユダヤ教の神殿は、ローマ帝国によって破壊されてしまったのです。その時から、ユダヤ教徒は罪の贖いをするために動物の生贄を捧げることができなくなってしまいました。


 しかし、旧約聖書の中には、他の教えがあります。預言者たちは、神様が救い主を送って、その救い主がすべての人の罪を贖われるという約束を伝えました。この救い主が来られると、人間が神様との新しい関係の中で歩む方法を表すとも預言されました。私たちクリスチャンは、イエス様がこの預言された救い主だと信じています。ユダヤ教の聖書、つまり、旧約聖書を開いて、救い主に関する預言の一つを読みましょう。


イザヤ書53:4-6
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、そのうち傷のゆえに、私たちは癒された。私たちは皆、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

 この預言から分かることは、神様が送られた救い主が私たちの罪のために殺されたということです。私たちの救い主が、生贄として捧げられた羊のように、私たちの罪の贖いをしてくださるということです。事実イエス様は、完全な人生を送り、罪を一回も犯さないまま、ご自分のいのちを十字架で捧げて、罪のための完全な生贄になってくださいました。それ以来、誰でもイエスを信じれば、動物の生贄を捧げる必要がなくなったと、クリスチャンは信じています。


 ユダヤ教の聖書、つまり旧約聖書には、救い主に関するいくつかの預言が記録されました。これらの預言は、救い主がどこで生まれるのか、どの部族から出るのか、そして、どのように死ぬのかを記しています。それだけではなくて、救い主が死から復活することも預言されていました。イエス様の弟子たちがイエス様が救い主だと確信した理由は、イエス様がユダヤ教の聖書の救い主に関するすべての預言を成し遂げられたからです。


 また、ここにいる私たちのようなユダヤ人ではない人にとって、ユダヤ教の聖書の中で一番喜ばしい預言の一つは、約束された救い主が来ると、ユダヤ人だけではなくて、すべての国々の人々にも、神様との和解が与えられるということです。


イザヤ書49:6
 主は言われる。
「あなたがわたしのしもべであるのは、
ヤコブの諸部族を立たせ、
イスラエルのうちの残されている者たちを
帰らせるという、小さなことのためだけではない。
わたしはあなたを国々の光とし、
血の果てにまで私の救いを
もたらす者となる。」


 今、イエス・キリストによる救いの約束を、誰でも受けることができます。生まれ育ちや、過去にしたことに関係なく、誰でも罪を悔い改めてイエス様を信じれば、創造者の神から赦しを受けることができるのです。イエス様の完全な犠牲を通して、神様はイエス様を信じる人のすべての罪を忘れて、ご自分の子どもとして受け入れてくださいます。神様は、旧約聖書でユダヤ人の預言者たちを通して、この素晴らしい事を約束されました。しかし、聖書の二つ目の部分、つまり新約聖書で、神様はいくつかの新しい約束をされました。新約聖書の約束の中で一番有名なものが、ヨハネの福音書3章16節に記録されています。

 

ヨハネ3:16
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。