主のみこころがなりますように

使徒の働き21:1-15

ロビソン・デイヴィッド
2021年02月28日

 1私たちは、彼らと別れて船出した。コスに直航し、翌日ロドスに着き、そこからパタラに渡った。2そこにはフェニキア行きの船があったので、それに乗って出発した。3やがてキプロスが見えてきたが、それを左にして通過し、シリアに向かって航海を続け、ツロに入港した。ここで船は積荷を降ろすことになっていた。4私たちは弟子たちを探して、そこに七日間滞在した。彼らは御霊に示されて、エルサレムには行かないようにとパウロに繰り返し言った。5滞在期間が終わると、私たちはそこを出て、また旅をつづけた。彼らはみな、妻や子供たちと一緒に町の外まで私たちを送りに来た。そして海岸でひざまずいて祈ってから、6互いに別れを告げた。私たちは船に乗り込み、彼らは自分の家に帰って行った。7私たちはツロからの航海を終えて、プトレマイオスに着いた。そこの兄弟たちにあいさつをして、彼らのところに一日滞在した。
 8翌日そこを出発して、カイサリアに着くと、あの七人の一人である伝道者ピリポの家に行き、そこに滞在した。9この人には、預言をする未婚の娘が四人いた。10かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。11彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこういわれます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」
 12これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。13すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」14彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように。」と言って、口をつぐんだ。15数日後、私たちは旅支度をしてエルサレムに上って行った。

 

 

 クリスチャンである私たちは、神様に従うように召されていますが、どうしたら神様のみこころが分かるのでしょうか。もちろん、神様のみこころが分かるためには、まず神様のみことばを読むことが重要です。私たちはみことばから、神様の私たちに対する大きなご計画を知ることができます。

コリント人への手紙第一10:31
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

 この箇所を読むと、神様のみこころは、私たちが何をするにも神様の栄光を現すためにすることだと分かります。つまり、どんな決断でも、その決断を通して、どうしたら神様の栄光を現すことができるのかを考えなければならないのです。
しかし、特定の状況の中で、神様が私たちに何を行ってほしいのかを知るのは、簡単でないこともあるのではないでしょうか。私たちは難しい決断に直面した時、どのようにして神様のみこころを知ることができるのでしょうか。今日の箇所の中で、使徒パウロはこのような難しい決断に直面していました。


 パウロはエルサレムに行くと決めていましたが、神様はパウロに何回も、エルサレムに行けば捕らえられて苦しみを経験すると示していました。ですから、パウロが最も信頼していた友人達は、パウロにエルサレムに行かないように強く懇願していました。しかしパウロは、友人達のアドバイスに従いませんでした。この友人達も、神様を熱心に信仰していた知恵深いクリスチャンでしたが、彼らは神様のみこころを理解していたでしょうか。この中で誰が、神様のみこころを正しく理解していたのでしょうか。使徒の働きを最後まで読むと、神様のみこころはパウロがエルサレムに行くことだったと分かりますが、パウロは今日の箇所の時点で、どうしてそれが分かったのでしょうか。今日はこのことについて考えてみたいと思います。

 パウロの考え方を理解するためには、まず、なぜパウロがエルサレムに行ったのかを理解しなければなりません。

ローマ人への手紙15:25―27
 しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。

 この箇所は、今日学んでいる場面の少し前にパウロが書いたもので、当時、パウロは第三回宣教旅行を終えて、エルサレムに戻って行こうとしていました。三回の宣教旅行の間に、パウロはローマ帝国の地方でたくさんの異邦人教会を開拓しました。パウロがこの奉仕を始める前は、クリスチャンはほとんどがユダヤ人ばかりでした。何千年前からその時まで、神様はほとんどユダヤ人だけにご自分を現わされてきましたが、イエス様の使徒たちを通して、福音が地の果てにまで広がっていました。神様は、この素晴らしい働きをするためにパウロを選ばれました。これは素晴らしい働きでしたが、ユダヤ人にとっては大きな変化でもあり、異邦人を受け入れるのは簡単な事ではありませんでした。
ですから、パウロは神様からいただいた奉仕を終えると、最後のステップとして、新しく開拓した異邦人教会とユダヤ人教会の間に一致を作ることに取り組みました。そのために、パウロは異邦人教会からエルサレムの教会のための献金を集めて、この献金を個人的に届けようとしました。この献金を通して、異邦人クリスチャンのユダヤ人クリスチャンに対する敬意を表そうとしたのです。パウロの願いは、この行いを通して、異邦人とユダヤ人の間の一致を強くすることでした。ですから、パウロはエルサレムに行く旅をとても大切な使命だと思っていたはずです。しかし神様は、矛盾したメッセージをパウロに送っているように見えました。

使徒の働き20:22-24
 22ご覧なさい。私は今、聖霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。23ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。24けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 神様はパウロに、エルサレムに行くのか行かないのか、どちらのメッセージを伝えていたのでしょうか。パウロは、エルサレムに行きなさいというメッセージを受け取ったと考えていましたが、パウロの友人達は、神様がパウロにエルサレムに行かないように警告していると考えていました。

使徒の働き21:10-12 
 10かなりの期間そこに滞在していると、アガボという名の預言者がユダヤから下って来た。11彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って言った。「聖霊がこういわれます。『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に渡すことになる。』」12これを聞いて、私たちも土地の人たちもパウロに、エルサレムには上って行かないようにと懇願した。

 この中の誰が神様のみこころを正しく理解していたのでしょうか。先ほど言ったように、パウロが神様のみこころを正しく理解していたと思います。ではパウロはどうしてそれが分かったのでしょうか。パウロは、三つの理由によって、神様が彼にエルサレムに行くように願っておられることを確信していたと思います。

 

1. 心の中で御霊の声を聞いたこと。

 先ほど読んだ、使徒の働き20:22節を見てください。パウロは「私は今御霊に縛られてエルサレムに行きます。」と言っています。神様は不思議な方法で、御霊を通して、パウロにエルサレムに行かなければならないと感じさせていました。御霊が不思議な方法で、静かにパウロの心に語っていたというのです。これが御霊の働きの一つだと思います。

 私たち現在のクリスチャンも、御霊を与えられています。ですから、御霊が私たちの心にも、神様のみこころを表してくださっている時があると思います。例えば、神様に仕える機会が予期せず発生して、心の中でそれをした方がいいと感じるとしたら、それは御霊の声かもしれません。または、正しい生活から外れた時、神様の元に戻らなければ、と感じるとしたら、それも御霊の声です。

 私たちはこのような御霊の導きに従うべきですが、気を付けなければならないこともあります。自分の心の中で、何かをすべきだ、またはしない方がいい、と感じる時、その感じが御霊から来たのか、自分自身から来たのか、どうしたら分かるのでしょうか。私たちは、自分の心の中の感じだけで、神様のみこころを100%確信することはできないと思います。そういう時に一つ考慮しなければならない事が、今感じていることが、神様のみことばに合うかどうかということです。神様は御霊によってみことばを書かれましたので、御霊の声がみことばに矛盾することは決してありません。私の経験では、御霊が私を導かれる方法として最も多いものの一つは、みことばを思い起こさせてくださることです。

 パウロも、御霊の静かな導きだけを頼りに決断したのではありませんでした。

 

2. パウロはイエス様が下さった任務を正しく理解していたので、この具体的な決断に関して神様のみこころを認識することができた。

使徒の働き20:24をもう一度見て下さい。
 24けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。

 パウロは主イエスからいただいた任務をしっかり理解していました。その任務とは、神の恵みの福音を証しすることでした。ガラテヤ人への手紙1:16で、パウロの任務はもっと具体的に明らかにされていて、それは異邦人に福音を伝えることでした。この任務を達成するために、パウロは異邦人の地に行って福音を伝え、教会を開拓しました。しかしパウロは、それだけでなく、自分が走るべき道のりを走り尽くすためには、異邦人教会とユダヤ人教会を団結させなければならないと確信していました。そのためには、エルサレムに行かなければならなかったのです。パウロはイエス様が下さった任務をはっきりと正しく理解していたので、この具体的な決断に際しても、神様のみこころを認識することができました。

 私たちも同じように、私たちがイエス様から頂いた任務をしっかりと理解すると、様々な具体的な状況の中で、神様のみこころを認識できるようになると思います。神様はご自分の栄光を表すために、私たち一人一人に様々な賜物や機会、資源を与えてくださいました。私たちが具体的な決断に直面するたびに、その決断を通してどのようにイエス様の栄光を表すことができるのかを考えれば、なすべきことが見えてくると思います。

 しかし、神様の栄光を表すために具体的に何をすべきか分からない時には、どうすればいいでしょうか。そういう時には、このような質問を自分自身に投げかけることが役に立つかもしれません。
 1. 霊的に成熟した者に成長するためにできることは何か。
 2. どうしたら人をイエス様による信仰に導くことができるか。
 3. どうしたらクリスチャンの兄弟姉妹を愛することができるか。
 4. どうしたら地域教会を建て上げることができるか。

 神様はすべてのクリスチャンにこのような召しを与えてくださっています。ですから、すべてのクリスチャンがこれらのことを目標に成長していく必要があります。

 

 最後に、使徒パウロがエルサレムに行くのが神様のみこころにかなっていると確信した三番目の理由は、

3. エルサレムで鎖と苦しみを経験するのは、パウロ自身がしたい事ではなかったから。

 先ほど言ったように、私たちが神様のみこころが分かることを妨げる一番大きな障壁の一つは、私たちが多くの場合、自分の心と神様のみこころの違いを判断できないということです。私たち人間にとって、自分自身に利益をもたらす一連の行動を追求するのは自然なことです。ですから、私たちは多くの場合、そのような行動を正当化するために、それが神様のみこころなのだと自分を納得させることがよくあります。

 今日の箇所に出てくるパウロの友人たちも、このように考えていたかもしれません。彼らが神様から、パウロが鎖と苦しみを受けるという警告を聞いた時、神様はパウロが苦しまないようにこの警告を与えてくださったのだと考えたかもしれません。このような考え方はとても自然な考え方です。人間は誰でも、あえて苦しみを経験したくはないからです。しかし、パウロの苦しみに対する考え方はそれとは違いました。


使徒の働き21:13
 13すると、パウロは答えた。「あなたがたは、泣いたり私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」

 パウロは、もし自分がエルサレムに行って、そこでイエス様のために苦しみを受けるなら、その苦しみを通してイエス様の栄光が表されると考えました。このような考え方は人間的な考え方と全く逆のもので、御霊が与えたものだと思います。私たちの心の中に二つの声があり、一つは自分自身を守るように言っていて、二つ目がイエス様の栄光のために苦しむように言っている時、どちらが御霊の声でしょうか。多くの場合、御霊の声は二つ目の声だと思います。なぜなら、みことばの中にはたくさんの所で、クリスチャンはイエス様のために苦しみを受けると書いてあるからです。

 そのうちの一つの箇所をお読みしましょう。

ルカの福音書9:23
 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、私に従って来なさい。」

 イエス様について行くためには、自分のいのちを捨てなければならないと書いてあります。イエス様がここで選ばれた「十字架を負う」という言葉は、衝撃的な表現だと思います。十字架を負う人というのは、死刑を宣告された犯罪者だけでした。しかしそれはイエス様が歩まれた道でしたので、イエス様に従うためには、私たちもこの同じ苦しみの道を歩まなければならないというのです。私たちはキリストのために、喜んで苦しむように召されています。

 聖書を読むと、神様が苦しみを通してたくさんの素晴らしい働きを行われたことが分かります。神様は、今の人生の中でイエス様のために苦しんでいる人に、永遠のいのちをもって報いてくださいます。また、苦しみを通して私たちの信仰は強められていきます。そして、イエス様のために喜んで苦しむ人が、自分のイエス様に対する愛を皆の前に現わして、他の人もイエス様を愛するように導かれていくのです。
パウロはこのような考えにもとづいて、神様のみこころをはっきり知ることができました。そして、信仰によって苦しむことをいとわないパウロの姿勢が、友人達の信仰をも強めていきました。

使徒の働き21:14
 14彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように。」と言って、口をつぐんだ。

 「主のみこころがなりますように」とは、すべてのクリスチャンの願いとなるべきです。たとえそれが、私たちや私たちの大事な人が苦しむことを意味するとしても、主のみこころがなりますようにと祈る者とされたいと思います。

 パウロがこの時、反対を押し切ってエルサレムに行った結果、何が起こったでしょうか。19・20節によると、エルサレムの教会は、神様が異邦人の間で働かれていることを聞いて、神様をほめたたえ、異邦人クリスチャンたちを受け入れたとあります。その後、神様が預言された通りに、パウロは実際にエルサレムで逮捕され刑務所に入れられました。そしてこのことを通しても、神様の栄光が現わされていきました。

 私たちも、パウロのように考える者となりたいと思います。何かの決断に直面する時は、いつでも御霊の声を聞いて、イエス様に与えられた任務を考えて、自分自身を捨て、イエス様に喜んで従う道を選ぶことができる者となりたいと思います。それによって、私たちが何をするにも、神様の栄光を現す者へと成長していく時に、本当に素晴らしい祝福があるからです。