私たちの責任

使徒20:17-38

ロビソン・デイヴィッド
2021年02月 7日

使徒20:17-38


 古代には、町に多くの見張りがいました。見張りの仕事は、町に危険が迫った時に警告することです。たとえば、侵略軍や略奪団が見えると、城門を閉じるように町の人に警告しなければなりませんでした。見張りの人間が人々に警告することを怠って、町の人が死ねば、その責任は見張りが負うことになります。


 今日の箇所では、使徒パウロが町の見張りのような責任を感じていたことが分かると思います。この箇所は、パウロがエペソの教会の長老たちに話している場面ですが、その中で、パウロが興味深いことを言いました。26-27節で、


 ですから今日の日、あなたがたに宣言します。私は誰の血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを余すところなくあなたがたに知らせたからです。


 パウロはエペソ人が恐ろしい危険に向かっていることを知っていました。その危険とは、神様からの裁きと罰でした。エペソ人は世界のすべての人と同じように、罪を犯して、神様を拒んで、神様を怒らせてしまいました。しかし、神様は恵み深いお方なので、赦しを得る道を与えてくださいました。危険を回避する方法を備えてくださっていたのです。それは、罪を悔い改めて、神様の御子イエス様を信じることです。パウロは町の見張りのように、この危険を見て、エペソ人に警告しました。


 この時のパウロの状況を考えた時、遠藤みきさんのストーリーを思い出しました。遠藤さんは、宮城県南三陸町の公務員でした。彼女の仕事は、市全体の拡声装置を操作することでした。東日本大震災の日、遠藤さんは拡声装置を通して、町全体に、避難して海岸から逃げるように指示しました。しかし、遠藤さんがいた建物が、津波の進路に入っていたのです。それなのに、遠藤さんは町の人々に警告し続けて、自分の命を捧げました。この無私の行動を通して、何千人の命が救われたでしょうか。遠藤さんは南三陸町の人々に警告しないと多くの人々が亡くなると分かっていて、自分のことを考えるよりも、他の人に危険を知らせて、安全に逃げられるようにと尽力しました。


 使徒パウロは、神様から与えられた宣教の働きを、このような緊急性を持って見ていたと思います。今日は使徒の働き20章に記録された、エペソにあった教会の長老たちに対するパウロの教えから学びたいと思います。


 使徒の働き19章を学んだ時、パウロが三回目の宣教旅行の初めにエペソに行って、そこで三年間福音を伝え、エペソの教会を開拓したことを見ました。今日読んだ20章は、パウロがエペソを去って宣教旅行を続けた後、最後に前回の宣教旅行の間に開拓した教会を訪ねて、教会を励ましている場面です。


使徒の働き19:21
 これらのことがあった後、パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。

 パウロの計画は、三回目の宣教旅行のあとまずエルサレムに行き、それからローマに行って新しい働きを始めることでした。パウロは三回の宣教旅行を通して、ローマ帝国の東にあった、マケドニアやアカイアという地方を渡り歩いて福音を伝えました。パウロは東の地方での自分の働きは完了したと思ったので、ローマ帝国の西の地方で新しい働きを始めようと計画していました。パウロが三回目の宣教旅行の間に書いたローマ人への手紙の中に、彼の計画と考えが記されています。


ローマ人への手紙15:23-25
 しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。


 これを読むと、なぜパウロがエルサレムに行こうとしていたのかが分かります。マケドニアとアカイアにあった異邦人の教会は、パウロを通してエルサレムの教会の貧しい人のために献金を送っていました。パウロはこの献金を届けるために、エルサレムに行く途中で、港町のミレトスに寄りました。ミレトスはエペソの南80キロの所にありましたので、エペソの教会の長老たちを呼んで、ミレトスで会ってくれませんかと聞きました。パウロはとても忙しく、また使徒の働き20:23によると、エルサレムで迫害を経験すると予想していましたが、エペソの教会の長老たちを集めて教えました。20:29で、パウロは、エペソの教会がこれからも様々な困難に直面し、教会の健全性を脅かすことが起こると言っていますが、最後の機会にエペソの教会の長老たちに会って、そのような試練を前に励ましたかったのだと思います。

 
 その中で、パウロは自分のエペソでの働きを振り返って、エペソの教会の長老たちに差し迫った危険について警告し、また、エペソの教会の群れ全体に気を配りなさいと命令しました。


 エペソの教会は、これからパウロなしでイエス様の働きを続けなければなりません。彼らは不安を感じていたと思います。しかし、パウロの説教の大きなテーマは、エペソのクリスチャン達はもうすでに十分に整えられたということでした。パウロは、エペソ人の教会が福音の働きを続けることができると確信していました。この自信の根拠は何だったでしょうか。


使徒の働き20:32
 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々と共に、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。


 パウロの自信は二つのことに基づいていました。一つは、神様の力です。パウロは神様がエペソ人を守ってくださると確信していました。これがクリスチャンに与えられている究極の保証です。「神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。」パウロは、自分がエペソにいなくても、神様がエペソの教会を深く愛されて、彼らを守ってくださると確信していました。ですから彼は、エペソの教会の長老たちに、神様に信頼して従うようにと伝えました。


 パウロの自信の根拠となった二つ目のことは、エペソ人が神の恵みのみことばを受けていたからです。神の恵みのみことばとは、イエス様による福音です。神様のみことばはエペソの教会を成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、彼らに御国を受け継がせる力があります。これは素晴らしいことです。クリスチャンを成長させる力を持っているのは、パウロではなくて、神様のみことばなのです。エペソの教会に必要なのはパウロではなくて、神様のみことばでした。ですから、パウロはエペソで過ごした三年間の間、神様のみことばを何回も繰り返し教えました。27節で、パウロはこう言っています。「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」パウロがエペソのクリスチャン達が自分なしでも大丈夫だと確信していた理由は、彼らに神様のみことばをしっかり説明したからでした。


 使徒の働き19章で、神様がパウロを通して、たくさんの奇跡を行われたのを見ました。しかしパウロは、奇跡を行うより、言葉で教えることの方が大切と考えていたようです。神様のみことばのすべてを教えることを重要視していました。パウロがエペソの教会の長老たちに話している中で、何度も何度もエペソで言葉で教えた働きを強調しています。見てください。


 20節でパウロは、エペソ人に「益になることは、公衆の前でも家々でも、余すところなく彼らに伝え、また教えました。」そして、21節では「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を証ししました。」また24節では、主イエスから受けた任務は神の恵みの福音を証しすることだと言っています。さらに25節には、エペソ人の間を巡回して、御国を宣べ伝えた、とあります。27節では、「神のご計画のすべてを、余すところなく知らせました」、31節にも、三年の間、夜も昼も、涙とともに、エペソのクリスチャン達を訓戒し続けた、と書いています。


 パウロのエペソでの最大の成果は、神様のみことばを語ったことでした。パウロは、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、クリスチャンにも、クリスチャンではない人にも、誰にでも福音を伝えました。三年の間、彼は神様のみことばを伝えたり、教えたり、証ししたり、宣べ伝えたり、知らせたり、訓戒し続けたりしました。それをすべて終えた後、二度とエペソ人に会えないことを知っていたパウロは、26―27節でこう言っています。


 ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなた方に知らせたからです。


パウロがこの言葉を書いた時、神様がエゼキエル書33章で言った言葉を考えていたと思います。

エゼキエル書33:1-11
 次のような主のことばが私にあった。「人の子よ、あなたの民の者たちにこう告げよ。『私がある地に剣をもたらすとき、その国の民は自分たちの中から一人を取り、自分たちの見張りとする。さて、その人が剣がその地に来るのを見て角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えた場合、角笛の音を聞いたものが警告を聞き入れないなら、剣が来てそのものを討ち取る時に、その血の責任はその者の頭上にある。角笛の音を聞きながら警告を聞き入れなければ、その血の責任は彼自身にある。しかし、警告を聞き入れていれば、その者は自分のいのちを救う。しかし、見張りが、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告されず、剣が来て彼らの中の一人を討ち取った場合、その者は自分の咎のゆえに討ち取られるが、わたしはその血の責任を見張りに問う。』
 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたは、わたしの口からことばを聞く時、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪しき者に『悪しき者よ。あなたは必ず死ぬ』と言う時、もし、あなたがその悪しき者に、その道から離れるように警告しないなら、その悪しき者は自分の咎のゆえに死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
 あなたが、悪しき者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のゆえにしななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。
 人の子よ。あなたはイスラエルの家に言え。『あなたがたは「私たちの背きと罪は私たちの上にのしかかり、そのため私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう」と言っている。』
 彼らにこう言え。『わたしは生きているー神である主のことばーー。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』



 パウロは、自分が神様からエゼキエルと同じような責任を受けたと考えていたと思います。神様はエゼキエルをイスラエルの見張りとし、神様の怒りに対して警告する責任を与えられました。神様はイスラエルに対して、激しい怒りを感じていましたが、イスラエルを罰することを喜ばれず、彼らが罪から悔い改めることを望んでおられました。だから、エゼキエルを送り出したのです。


 エゼキエル書33章6節を見ると、興味深いことがあります。見張りが剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告されず、剣が来て彼らの中の一人を討ち取った場合は、その者は自分の咎のゆえに討ち取られると書いてあります。見張りが警告したかどうかに関わらず、誰でも神様の裁きに直面する時には、自分の行いによって裁かれます。しかし、もし神様がその人を警告するように見張りを選んでいたのに、見張りが神様に従わずその人に警告しなかったなら、神様がその血の責任を見張りに問うと書いてあるのです。


 パウロは自分の状況をエゼキエルと同じだと考えたと思います。パウロは、この世界のすべての人は神様に対して罪を犯して、神様の怒りに直面していると知っていました。しかし、神様が世界の人々を罰することを望まず、人々を救うためにイエス様を送り出してくださったことも知っていました。神様の赦しを得るためには、罪から悔い改めて、イエス様を信じなければなりません。だからパウロは見張りのように、人々に差し迫った危険について警告したのです。彼はエペソでの自分の責任を完全に果たしたので、使徒の働き20書26節で、私は誰の血に対しても責任がありません、と言うことができました。神のご計画のすべてを、余すところなくエペソ人に知らせたからです。


 それは簡単なことではありません。多くの人が神様のご計画のすべてを聞きたくなかったでしょう。多くの人がパウロが言ったことを聞いて、怒ってしまいました。パウロの教えの結果、街で暴動が発生するほどでした。しかし、パウロがエペソ人に警告を与えて、罪を悔い改めて、偶像礼拝をやめてイエス様を信じなさいと伝えなければ、誰も救いに導かれなかったはずです。だからパウロは、神様のご計画のすべてを余すところなく知らせました。


 パウロは、クリスチャンではない人に限らず、クリスチャンに対しても、見張りのように接しました。私たちクリスチャンも、神様のみことばの中には聞きたくない部分もあるでしょう。しかし、もしパウロが神様の厳しいことばもすべて伝えなかったことによって、だれかが罪を犯して、神様から裁きを受けるなら、パウロの責任になったのです。

 
 私たちも、イエス様の証人として、このような重大な責任を負っていると思います。神様は私たちに救いの道を示してくださいました。以前は、私たちも神様の怒りに向かっていましたが、今は、イエス様を通して、安全なところに導かれました。それは幸いな喜びです。神様に心から感謝しています。しかし、私たちの周りでは、多くの人がまだ神様の怒りに直面しています。神様は恵み深いお方なので、救いの道を与えてくださいました。また、人々がその救いの道を見つけることができるように、私たちを見張りのように選ばれたのだと思います。


 この真理は私に重くのしかかっています。私はこれまで何度も、神様のご計画のすべてを伝えなかったことがあります。何度、罪によって直面している危険について警告せず、神様に従わないで罪を犯したでしょうか。私はそのたびに悔い改めて、イエス様の救いにもう一度信頼し、神様の恵みに依存しなければなりません。それからもう一度、神様のみことばを伝える責任をもって、聖霊の力を通して神様に従っていかなければなりません。


 私たちは、イエス様に与えられた任務の最後の時、パウロのように、私たちの周りにいたすべての人々が、イエス様による神様の恵みを聞くためにできることはすべて行ったと証しできるように祈りましょう。周りの人々に忠実に福音を伝え、罪の危険について警告し、すべての罪を赦してくださるキリストを通して与えられる、救いの希望を宣べ伝え続けましょう。それによって、多くの人達が、私たちと共に天の御国に招き入れられる喜びの中で、永遠のいのちをいただくことができるのです。