主にあって喜びなさい

ピリピ人への手紙3:1

ロビソン・デイヴィッド
2022年02月27日

ピリピ人への手紙3:1 「主にあって喜びなさい」

 今日は、ピリピ人への手紙の中の一節だけを学びます。それは3章1節で、パウロが「最後に、私の兄弟たち、主にあって喜びなさい」と書いている節です。この節は、「最後に」と始まっていますが、ピリピ人への手紙のちょうど半分ぐらいの所で出てくる節で、少し場違いな感じがするかもしれません。どうやらパウロは、ここから手紙の締めくくりに入ろうとしたのに、これを書いた後、他にも書きたいことが出てきてしまったようです。ここから手紙の内容はさらに続いていき、次の4章4節で、パウロはようやくこの喜びの話題に戻り、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と締めくくっています。

 3章では、パウロの「主にあって喜びなさい」という命令が突然出てきたと思うと、すぐに教会にいる偽(にせ)教師の危険性の話に移っていきます。喜びと喜びの追求が、この手紙だけでなく、クリスチャン生活の中心であることを読者に忘れさせまいとしているようです。パウロには、ピリピの人々に教えなければならないことはたくさんありましたが、神がご自分の民に与えたいと願っておられる喜びを見失わせないようにしたかったのだと思います。

 ですから、パウロが手紙の真ん中でクリスチャンに喜びを与える命令を挿入したように、私たちもピリピ書の学びの途中で立ち止まって、もう一度「喜び」というテーマについて考えたいと思います。

 ピリピ人への手紙の説教シリーズの最初に、これが喜びの手紙として知られていることに注目しました。「喜び」はこの短い手紙の中で何度も何度も出てくる言葉で、パウロが書いた他のどの手紙よりも多く出てきています。しかし、この手紙が書かれた当時、パウロもピリピ教会も大きな困難に直面していたので、パウロが喜びに焦点を当てたことは、非常に驚くべきことだと学びました。そして、ここでパウロの教えている喜びとは、苦難や悲劇の中にあっても持続する喜びのことだということも学びました。

 ピリピ人への手紙1章、2章と読み進める中で、私たちは、パウロが喜びを感じる場面について数多く語るのを学んできました。パウロは、祈りに喜びを見出し、福音が宣べ伝えられることに喜びを見出し、ピリピの人々が一致を深めていることを知り、キリストのために犠牲を払う機会があることを喜んでいました。パウロは自分の喜びを語る時、ピリピの人々が自分の喜びを分かち合えるように祈りました。また彼らを支え、彼らが人生の中に喜びを見出すことができるように励ますことを約束し、彼らがエパフロディトとの再会を喜べるようにと、彼らのもとにエパフロディトを送り出しました。2章18節で、パウロはピリピの人々に、彼らはパウロと共に喜ぶべきであると言っています。しかし、3章1節では、パウロは初めてピリピの人々に 「主にあって喜びなさい 」と直接命じています。

 「主にあって喜ぶ」ということは、クリスチャンにとってオプションのようなものではありません。それは不可欠なものです。私たちが主の喜びに満ち溢れることは、神様のみこころです。それは、私たちの人生における聖霊の働きの自然な結果であり、すべてのクリスチャンに与えられているものなのです。しかし、それはいつも簡単に得られるものではありません。私たちはそれを追い求め、時には戦って勝ち取らなければならないものなのです。

 今日はパウロの「主にあって喜びなさい」という命令について考えてみたいと思います。 まず、「主にあって喜ぶ」とはどういう意味か、次に、「主にあって喜ぶ」という命令にどうしたら従うことができるのか、考えてみましょう。

 
1.「主にあって喜ぶ」とはどういう意味か

 まず、「主にあって喜ぶ」とはどういうことでしょうか。パウロのクリスチャンへの命令は、単に「幸せを見つけなさい」ではなく、「主にあって喜びなさい」というものです。パウロはここで、特定の種類の喜びについて話しているのです。人々が喜びや幸福を追求する方法には、「主にある」ものではないものがたくさんあります。私たちは、経済的な安定や、仕事での成功、恋愛関係などに幸せを見出そうとするかもしれません。しかし、パウロは別の種類の喜びを私たちに示しています。私たちが喜びを見出そうとする他のすべてのものは、一時的なものであり、完全な満足をもたらすことはできません。一時的に喜びを得ることはできても、その喜びは必ず失われていきます。それに対して、主にある喜びは永遠であり、苦難や喪失に打ち勝つことができます。クリスチャンは、主にあって最高で最善の喜びを見出すよう求められているのです。

 パウロが命じている喜びは、簡単に言えば、私たちの主イエス・キリストとの関係を喜びなさいということだと思います。私たちは、私たちの主イエス・キリストとの関係を喜ぶべきなのです。パウロがここで使っている文法は、単に私たちがキリストのみわざについて喜ぶだけではなく、私たちがキリストとの関係の中にいるからこそ得られる喜びを示しています。パウロは私たちが「主にあって」喜ぶように命じているのです。「主にある」ということは、主イエス・キリストとの関係を持つことです。

 主があなたを受け入れてくださったから、主があなたの近くにおられ、主があなたを愛しておられるから、また、主があなたを見守っておられるから、喜びなさい。主があなたの中におられ、あなたの心に語りかけ、あなたのたましいを新しくし、あなたに永遠を約束されたので、喜びなさい。「主にある」ということは、主によってご自分のものとして受け入れられることです。聖霊を通して、主とつながることです。それは、枝がつながっているぶどうの木によって養われるように、主によって養われることなのです。私たちの主であり、救い主であり、創造主(ぬし)であるイエス・キリストとの唯一無二の関係の中で、私たちは喜びを求めなければなりません。

 

2.「主にあって喜ぶ」という命令にどうしたら従うことができるのか

 では、2番目の点に移りましょう。私たちはどのように主に喜びを求めることができるのでしょうか。私たちに喜びがない時、どのようにして主において喜びを得ることができるのでしょうか。

 まず、私たちが覚えておかなければならないことは、主にあって喜びを得るためには、主との関係の中にいなければならない、ということです。つまり、信仰によって主イエス・キリストと関係を持たなければなりません。もし私たちがキリストの前にへりくだり、罪を悔い改め、救いの望みをキリストだけに置いていないなら、私たちは主にあると言えず、主にあって喜ぶこともできません。 私たちの喜びの原点は、キリストから受ける救いと、キリストを信じる者に与えられる聖霊にあるのです。

 では、「主にある」人はどのようにして喜ぶことができるのでしょうか。パウロはピリピ人への手紙の中で、数多くの例を示しています。そのいくつかを見てみましょう。

まず、祈りにおける喜びです。

ピリピ人への手紙1章3-4節
「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、」

 私たちの主であるイエス様は、私たちを祈りに招き、私たちの声を聞いてくださると約束してくださっています。祈りにおいて、私たちはイエス様に語りかけ、イエス様が私たちの声を聞いてくださるという信仰を持っています。祈りによって、私たちの心は安心し、信仰を新たにされ、私たちの心はキリストの方に向けられます。私たちは祈るとき、自分が神の助けを必要としていることを認めます。私たちは知恵、励まし、大胆さ、癒し、その他多くのものを必要としています。祈りによって、私たちは、神がこれらすべてのものを私たちに与えると約束してくださっていることに気づかされます。これは私たちを喜びに導きます。

 祈りはまた、私たちが神様からの恵みに感謝する時でもあります。パウロは大きな困難の中で祈りましたが、その祈りの中で、ピリピの人々から受けた励ましに対して、神をほめたたえ、感謝する機会を見出しました。パウロは祈りの中で、自分の人生の中では大きな困難に直面しながらも、神様が他の人々の人生の中で行(おこな)っておられることに感謝することによって、意識的に喜ぶように努力していたと思います。

 第二に、私たちはキリストを知ることに喜びを見出すことができます。

ピリピ人への手紙3章8-9節
「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

 パウロは、キリストを知ることを喜びとしていました。パウロにとって、この世で持っていたすべてのものを失う苦しみは、キリストをよりよく知り、感謝するのに役立っただけだというのです。試練や苦難はパウロをキリストに近づけ、キリストとの関係がいかに貴重であるかをパウロに気づかせてくれました。またパウロは、自分がキリストを通して神に受け入れられていることを理解しました。パウロは、たとえ自分が罪人(つみびと)であったとしても、キリストによってその罪が赦されて神の前に無罪となり、義なる者、完全なる者とされたことを知っていました。これは、パウロ自身の功績や善良さ、行いによってではなく、彼に代わってキリストがしてくださったことによって、パウロのものとなったのです。自分を深く愛し、このような貴重な贈り物を与えてくださった方を知ることが、パウロの喜びの源(みなもと)でした。

 同じように、私たちが主にあって喜ぶためには、主なるイエス様をもっともっとよく知る必要があります。そのためには、みことばを通してイエス様を知ることから始めます。聖書を読むと、イエス様が誰であるか、どのような方であるか、私たちや世界に対するイエス様のご計画が何であるかを知ることができます。みことばを通してイエス様を知れば知るほど、私たちの生活、私たちの周り、そして世界全体におけるイエス様の働きを認識することができます。私たちは、イエス様の卓越した価値と栄光を見て、宇宙の神が私たちにご自身を現し、私たちをご自分のものと呼んでくださったことを実感して、喜びに捕らわれるようになるのです。

 第三に、私たちは主の命令に従うことを通して、主にある喜びを追求することができます。

ピリピ人への手紙1章9-11節

「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」

 イエス・キリストによって、私たちの人生は義を生み出すようになりました。キリストとその命令に従順であることは、私たちをキリストに近づけるのです。キリストなしでは、神の命令への従順は、神の好意を得るための努力とみなされるかもしれません。私たちは神に愛されるために、あるいは神の赦しを得るために従順になるかもしれません。しかし、このような神の好意を得ようとする努力は無駄な努力に終わります。私たちは罪深く、不完全で、不純な者で、必ず失敗するからです。

 しかし、キリストとの関係に招き入れられると、私たちが神に従う理由を完全に変えてしまいます。もし私たちがキリストのうちにいるなら、私たちの行いに関係なく、すでに神に受け入れられているのです。私たちは自分自身の価値に基づいてではなく、キリストの価値に基づいて愛されているのです。これによって、私たちは神からの罰や拒絶を恐れることなく、従うことができるようになるのです。キリストへの従順は、私たちがキリストを信頼し、キリストを愛し、キリストが私たちのためにしてくださったすべてのことに感謝していることを示す機会となります。私たちは、主を恐れるからではなく、主を愛しているから従い始めるのです。もし私たちが主の中にあるなら、従順は喜びにつながります。ヨハネによる福音書15章4節 ~5節のイエス様の言葉を考えてみましょう。

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

 この箇所は、主にあることの意味を見事(みごと)に描(えが)き出していると思います。私たちは、実(み)を結ぶことを目的とするぶどうの木の枝のようなものです。もし枝がぶどうの木から切り離されたら、実(み)を結ぶことはできません。神のみこころは、私たちが実(み)を結ぶこと、言い換えれば、私たちの人生が神の望まれるものを生み出すことなのです。そして、神が私たちの人生に見たいと願っておられる実(み)のひとつが、「喜び」です。しかし、私たちがこの喜びの実(み)を結ぶことができる唯一の方法は、私たちがキリスト・イエスにとどまること、つまり、主にある者となることだけなのです。この節の少しあとで、イエス様は従順と喜びという考えをこのように結びつけています。

 ヨハネ 15章10-11節
「わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。」

 イエス様の命令に従うことによって、私たちはイエス様の中にとどまり、イエス様とつながり、このイエス様とのつながりから、イエス様の喜びが私たちの中に入り、私たちの喜びは最大限に満たされるのです。

 最後に、私たちが喜びを追求し、主にあって喜びなさいという命令に従うことができる、もう一つの方法があります。それは、他のクリスチャンとの交わりの中で喜びを見出すことです。

ピリピ人への手紙 2章28-29節
「そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。ですから大きな喜びをもって、主にあって彼を迎えてください。また、彼のような人たちを尊敬しなさい。」

 パウロはエパフロディトをピリピの教会に送り返したとき、彼らが喜びに満たされるように、そして、主にあって喜びをもって彼を迎えるようにと指示しました。私たちがキリストにあるとき、私たちはすべてのクリスチャンを含むキリストの家族の一員とされます。また、キリストの体である教会の一部となるように造られています。他のクリスチャンとの関係は、私たちがキリストに近づくための特別な助けとなります。私たちが共に集い、互いに励まし合い、尊重し合うことを喜びとするとき、私たちは「主にあって喜びなさい」という命令を果たすことになるのです。

 私たちがクリスチャンとして求められていることを考えるとき、多くの場合、まずきよい生活を送り、聖書を読み、祈り、教会に行き、福音を伝えることを思い浮かべると思います。これらはすべて、クリスチャンであるために不可欠な部分です。しかし、今日は、これらと同じくらい重要な、クリスチャンとしてのもう一つの部分について見ました。クリスチャンとして、私たちは周りで起こっている状況に関係なく、主を喜ぶようにと言われています。このことは、今の世の中において、特に重要なことかもしれません。今、世界の誰もが困難な時を迎えているように思えます。世界的なパンデミック、経済的な困難、そして先週には、ウクライナで戦争が始まりました。このような状況の中で将来を考えると、不安と恐怖を覚えて当然だと思います。世界中の多くの人にとって、未来は喜びと程遠(ほどとお)いもののように思えるかもしれません。

 しかし、クリスチャンである私たちは、主にあって喜ぶよう求められています。もし私たちが主にあるなら、どんな危険や苦難に直面しても、喜ぶべき理由があるのです。もし私たちが主にあるなら、何ものにも奪うことのできない喜びがあります。ですから、私たちの主イエス・キリストを喜びましょう。主が私たちをご自分のものとされたことを喜びましょう。主が罪と死に打ち勝ったこと、そして、主において永遠の勝利が確保されていることを喜びましょう。私たちは、主にあって喜ぼうではありませんか。